2012年9月10日月曜日

因幡・山崎城(鳥取県鳥取市国府町山崎)

因幡・山崎城(いなば・やまさきじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市国府町山崎
●築城期 天文年間(1532~55)頃
●築城者 山崎毛利氏
●高さ 標高200m(比高60m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年4月2日

◆解説(「日本城郭体系第14巻」、「探訪ブックス 城6 山陰の城」等)
 因幡・山崎城は、鳥取市の南東国府町山崎にある小規模な山城である。
【写真左】山崎城遠望
 ダム下流部から見たもので、ダム側が袋川で、写真右下の橋のさらに下流部で、東方から流れてきた上地川と合流する。



 登城したのは今年だが、2,3年前に麓まで探訪している。当時は西麓を流れる袋川のダム工事(殿ダム)などが行われていて、登城道まで向かう道が塞がれていたため遠望しただけだった。
 このダムは昭和43年に計画が発表され、紆余曲折を経て昨年の平成23年11月に竣工したという。

 今年(2012年)4月、久しぶりに当地を探訪したところ、竣工したこともあって、登城口までの道も開放され、通行可能となっていたため向かうことができた。
【写真左】登城口
 この写真は、東側(裏側)に当たる個所で、右にある道は、ダム施設管理用の道路のようだ。駐車場所は写真にあるスペースでもよかったかもしれないが、この道路の下の空き地に止めて向かった。

 この位置から本丸まで465mと表記されている。
 おそらく、ダムができる前は舌陵状に伸びたこの箇所付近にも遺構が残っていたのかもしれない。


山崎毛利氏

 築城者は国侍毛利氏といわれている。この毛利氏は以前紹介した私部城(鳥取県八頭郡八頭町市場)の因幡毛利氏の一族といわれている。このことから、山崎城の毛利氏を、「山崎毛利氏」、私都城(私部城:きさいいちじょう)の毛利氏を、「私都毛利氏、または因幡毛利氏」と区分している。
【写真左】私部城





 因幡毛利氏も、安芸国の毛利氏と同じく、元は大江広元の四男・季光を祖とする相模国毛利庄の出である。
【写真左】登城道から殿ダムを見る。
 左側のダムから勢いよく大量の水が放流されている。







 山崎毛利氏が本家筋である私都毛利氏(因幡毛利氏)から分家した当初は、当然良好な関係をもっていた。

 しかし、この山崎毛利氏の本貫地は東隣の但馬国と接していたこともあり、山崎毛利氏は山名氏と関係を深めた。これに対し、私都毛利氏は当時、この但馬山名氏と対立していたため、天文年間の11年から15年(1542~46)にかけて、山崎毛利氏を攻め、山崎城を落としたという。

 当時山崎城主であった毛利某は、陥落によって但馬へのがれ、私都毛利氏が当地を奪い取ったといわている。
【写真左】堀切と切崖
 ダム側からほぼ一直線に細い尾根を登っていくと、最初に堀切が見える。その向こうには小郭(櫓跡か)の切崖が正対する。






山崎城の出城など

 山崎城の出城として記録が残るのは、同町雨滝に「蛇山城」があり、この雨滝(布引の滝)の上の剣山に「七曲ノ城」というのが配置されていた。
【写真左】蛇山城遠望
 山崎城からさらに31号線(雨滝街道)を北東に登っていくと、ご覧の「雨滝」という看板が見える。雨滝は日本滝百選の一つで、右の道を進むが、その左の31号線との分岐点から見える山城である。

 時間の関係上当城は未登城であるが、雨滝側の道から分岐する山道があるようだ。地元では通称「愛宕山」といっており、本丸跡には祠が祀ってあり、麓の雨滝神社の分祠とされている。
【写真左】七曲城から落ちる「布引の滝」
 「雨滝」には、もう一つ「布引の滝」というのがある。この滝の上に七曲城がある。 

 当城も未登城だが、現在登城ルートの崖が崩落し通行止めとなっており、当分無理のようだ。しかも、この滝の横の岩山をよじ登ることになり、登山に習熟した者でないと、命とりになるかもしれない。また「クマ」の出没地区に当たるというから、管理人にとっては、いよいよもってお手上げの山城である。

 現地の説明板によれば、南北朝期、赤松円心が築城し、戦国期に至り毛利氏の部将が改修したという。秀吉の中国攻めの際落城したという伝承も残る。
 地取りから考えて、但馬国から扇の山北麓を越えて因幡国に侵入する際の境目の城として築城されたものだろう。


 なお、山崎城から少し上ったところに楠城(なわしろ)という地区があるが、ここには南北朝期、楠木正成が一時当地に赴き、「楠城城」という城砦を築いたとされるところがある。正成が再び畿内に帰ったあとは、楠木一族が代々受け継いだといわれている。
【写真左】北端の郭
 先ほど見えた郭で、幅3m×奥行10m程度の規模のもの。

 写真の右側が登ってきた道で、この写真に見える左右両端までがこの位置の全幅になる。



 ところで、山崎城から少し下った中河原町というところだったと思う、小学校だったらしい廃校がある。現在この建物の一部には簡単な喫茶コーナーが設置されている。登城後コーヒーでも飲みたいと思ったので、この中に入った。

 地元の御婦人2,3人がおられ、家内と一緒に頂いた。店内(元教室か)の本棚に地元の歴史を綴った本があった。タイトルは忘れたが、山崎城に関する記事が載っていたので、紹介しておく。

“山崎(鳥取市国府町)    2005年5月2日

 国府町を縦断して流れる袋川の上流に、上池(わじ)川と雨滝川に枝分かれしてさかのぼっている場所がある。その両川に挟まれた城山の先端にある村なので「山崎」と呼ばれるようになった。

 また、城山の反対、雨滝川に沿って「殿」という村があった。殿ダム建設に伴い、全住民が村を離れ、平成11年頃集落はなくなった。しかしその昔、村には毛利の重臣屋敷が並んでいたのだろう。侍屋敷と騎馬の姿、雨滝街道を行き来する多くの旅人、そして山頂に望み見える山崎城の櫓など、往時の歴史映像を再現して想像するには楽しい。
【写真左】主郭に向かう。
 先ほどの郭を過ぎてさらに尾根伝いを南に進むと主郭が見えてくる。







 薮田寛(ゆたか)さん(73歳)は、何度も城山に登ったという。今は4人のお孫さんととおに悠々自適の毎日。地区の自治会長として住民の旗振り役を担ったこともある。耕運機の整備をされながら昔語りに花が咲く。

 「城山にゃ小学生のとき、全校生徒の体と精神を鍛えるって、先生が引率して何回もあがったですけぇ。頂上には何トンもの大石が整然と並んどってなあ、敵が来たら落とす段取りになっとった。

 西は断崖絶壁、横にゃあ深い堀溝、敵がひゃあれんやあに、難攻不落になっとったなあ」減反政策のなか、10軒の集落の周りは畑が多い。城山をスケッチする僕に気づかぬほど、無心に鍬をふるう山景多美江さんは屈託がない。「畑仕事で近所と仲ようできとりますぅ」
【写真左】山崎城の看板
 主郭に向かう途中の位置にはご覧のような看板が設置されている。

 写真左側が殿ダムから流れてきた袋川にあたり、その対岸部には周辺整備された道路が走る。


 さて、殿ダム周辺に現存する成器、大茅地区集落の未来を考えようと、殿ダム周辺整備検討者代表、委員の山崎豪太郎さん(59歳)が夢を語る。

「そう、自然の森を創生することですなぁ。ダム周辺の山にそれぞれの特徴を生かした樹木を今から育てることです。どんぐり山、満開の山桜に包まれるエリアなど、景観を満喫しながら遊歩道を散策、健康森林浴もええすなぁ」

 ダム湖を中心にした地域の村に水車小屋が再現され、一帯が昭和初期の懐かしい風情として生まれ変わったとき、人に優しいふるさと親水公園が完成する。”
【写真左】主郭付近
 登城道は主郭付近から西側に回り込み、高所となった主郭位置には現在屋根付きの休憩・展望台のような施設が建つ。
【写真左】主郭下の2,3段の郭
 主郭から南に下る位置には小規模な郭段が控える。

 その下には袋川が流れている。ちなみにこの袋川は、同町吉野付近で北西方向に蛇行し、以前取り上げた甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)の西麓を流れ、千代川と合流し日本海へ流れる。
【写真左】南端部最下端の郭から主郭を見上げる。
 この位置からさらに下方は天然の要害で険峻となっており、郭の加工跡は見られない。
【写真左】山崎城の石碑
 主郭の近くに建立されている。
【写真左】主郭付近の東側面
 当城の東西斜面は上述したように険阻な状態で、西側(ダム放流側)は伐採され見通しがいいが、東側はご覧のような状態となっている。

 急傾斜であることから、あまり伐採すると崩落する恐れがあるかもしれない。
【写真左】西側から遠望する。
 右側の高い位置が主郭付近となる。登城ルートは左側から向かう。

 手前の道路は整備された県道31号線で、山崎城と道路の間を袋川のダム放流水が流れている。

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