長門・飯塚城(ながと・いいつかじょう)
●所在地 山口県下関市豊田町大字手洗
●高さ 83m(比高50m)
●築城期 不明
●築城者 飯塚氏か
●城主 飯塚氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月11日
◆解説
前稿の長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)から木屋川と並行して走る県道34号線を凡そ4キロほど下ると、道路の右側(北側)に独立した小丘が見える。
探訪したこの日(2016年2月11日)、頂部から南斜面にかけて伐採された景色が目に入った。長門・飯塚城(以下「飯塚城」とする。)である。
標高80m余りで、南麓部には集落があるが、ほぼ田圃に囲まれた状況で、山城としてはかなり小規模な部類に入る。
【写真左】飯塚城遠望
東から南麓にかけて走る国道34号線から見たもの。右奥に見える山は、長門国の霊山といわれた華山(げざん)。
飯塚城については、しばしば参考にしている『日本城郭体系 第14巻』にも記載されておらず、詳細は不明である。ただ、写真にもあるように当地名を名乗る飯塚氏が開祖とあり、築城者も同氏と思われる。
【写真左】北側から登城開始
周辺部には案内標識のようなものは一切ないため、伐採作業にともなって設置された道路の入口から向かった。
場所は北端部に当たる。
また、所在する豊田町の大字手洗(三野和手洗・三野和飯塚)は、南隣の菊川町に入る入口付近でもあることから、飯塚氏は豊田氏一族と関わっていたことされ、一説には同氏は豊田氏の家臣であったとも伝えられている。
また、長生寺城の稿でも触れているが、菊川町に向かう街道、即ち小月街道には、関所を設け城戸とした、とあるので、当城(飯塚城)はそれ(城戸)とセットになっていたのかもしれない。
【写真左】頂部(主郭)が見えてきた。
比高50m前後のため、簡単に登れると思っていたが、前日降った雨のため、泥濘に足を取られる。
遺構の状況
写真にもあるように、最近かなりの範囲にわたって伐採作業が行われ、この作業のための重機などが移動できるように作業道が設置された。このため、遺構は殆ど消滅している。唯一石碑が祀られている最高所の主郭付近に郭の面影が残る。
【写真左】北東部
この日探訪したときは、主に北東部の斜面が伐採され、斜面の要所に作業用の仮設道路が設置されていた。
写真で見る限り、この辺りの傾斜は険しくなっている。
奥に見えるのは木屋川で、南の菊川町へ流下している。
【写真左】東南部から振り返る。
北側から登り、東斜面伝いに南に向かっていった。
途中で振り返ってみたものだが、写真中央部には郭段のようなものがあったように思える。
ただ、伐採のため大胆に土砂が移動しているため判断できない。
【写真左】最高所に建立された石碑
上段部には横書きの文字が筆耕されているようだが、判読不能。
中央に縦書きで次のように記されている。
「飯塚開祖 飯塚三郎之碑」
この飯塚というは、先述したように地元手洗にある三野和・飯塚の地名から名乗ったものと思われる。
【写真左】横から見たもの
【写真左】祠
石碑の隣には祠が祀られている。
【写真左】祠と燈籠
祠の南側には燈籠や石柱も建立されている。
この石柱には文字が筆耕されているが、大分劣化していて判読が困難。
ただ、「…陸軍曹長 竹杉…」という文字があり、先の大戦もしくは日清日露戦争時の忠魂碑かもしれない。
【写真左】三角点
100mにも満たない山だが三角点が設置されている。
左奥には電波塔らしき設備があるが、稼働してないような状況に見える。
【写真左】北から西の方へ向かう。
伐採されていない西側に少し向かう。当時はこの方向が大手だったのかもしれない。
【写真左】南側の切崖
かなりの急傾斜となっている。
【写真左】主郭付近から北方に長生寺城を遠望する。
下山途中に見えたもので、豊田氏居城の長生寺城が確認できる。
この位置から双方で狼煙などをあげていたのかもしれない。
【写真左】北東麓を見る。
正面に見る田圃や、奥の丘陵地が小字名の三野和飯塚という地区になる。
飯塚城は、東麓に本流木屋川が流れ、北側にはその支流・本浴川(数軒建っている手前の川)、南麓には同じく支流・江良川が流れているので、三本の川に囲まれるように位置している。
ことから、これらが三本の川が濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】最初に登ってきた段
重機で改変されているが、当時の二の丸的機能を有していたのかもしれない。
●所在地 山口県下関市豊田町大字手洗
●高さ 83m(比高50m)
●築城期 不明
●築城者 飯塚氏か
●城主 飯塚氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月11日
◆解説
前稿の長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)から木屋川と並行して走る県道34号線を凡そ4キロほど下ると、道路の右側(北側)に独立した小丘が見える。
探訪したこの日(2016年2月11日)、頂部から南斜面にかけて伐採された景色が目に入った。長門・飯塚城(以下「飯塚城」とする。)である。
標高80m余りで、南麓部には集落があるが、ほぼ田圃に囲まれた状況で、山城としてはかなり小規模な部類に入る。
【写真左】飯塚城遠望
東から南麓にかけて走る国道34号線から見たもの。右奥に見える山は、長門国の霊山といわれた華山(げざん)。
飯塚城については、しばしば参考にしている『日本城郭体系 第14巻』にも記載されておらず、詳細は不明である。ただ、写真にもあるように当地名を名乗る飯塚氏が開祖とあり、築城者も同氏と思われる。
【写真左】北側から登城開始
周辺部には案内標識のようなものは一切ないため、伐採作業にともなって設置された道路の入口から向かった。
場所は北端部に当たる。
また、所在する豊田町の大字手洗(三野和手洗・三野和飯塚)は、南隣の菊川町に入る入口付近でもあることから、飯塚氏は豊田氏一族と関わっていたことされ、一説には同氏は豊田氏の家臣であったとも伝えられている。
また、長生寺城の稿でも触れているが、菊川町に向かう街道、即ち小月街道には、関所を設け城戸とした、とあるので、当城(飯塚城)はそれ(城戸)とセットになっていたのかもしれない。
【写真左】頂部(主郭)が見えてきた。
比高50m前後のため、簡単に登れると思っていたが、前日降った雨のため、泥濘に足を取られる。
遺構の状況
写真にもあるように、最近かなりの範囲にわたって伐採作業が行われ、この作業のための重機などが移動できるように作業道が設置された。このため、遺構は殆ど消滅している。唯一石碑が祀られている最高所の主郭付近に郭の面影が残る。
【写真左】北東部
この日探訪したときは、主に北東部の斜面が伐採され、斜面の要所に作業用の仮設道路が設置されていた。
写真で見る限り、この辺りの傾斜は険しくなっている。
奥に見えるのは木屋川で、南の菊川町へ流下している。
【写真左】東南部から振り返る。
北側から登り、東斜面伝いに南に向かっていった。
途中で振り返ってみたものだが、写真中央部には郭段のようなものがあったように思える。
ただ、伐採のため大胆に土砂が移動しているため判断できない。
【写真左】最高所に建立された石碑
上段部には横書きの文字が筆耕されているようだが、判読不能。
中央に縦書きで次のように記されている。
「飯塚開祖 飯塚三郎之碑」
この飯塚というは、先述したように地元手洗にある三野和・飯塚の地名から名乗ったものと思われる。
【写真左】横から見たもの
【写真左】祠
石碑の隣には祠が祀られている。
【写真左】祠と燈籠
祠の南側には燈籠や石柱も建立されている。
この石柱には文字が筆耕されているが、大分劣化していて判読が困難。
ただ、「…陸軍曹長 竹杉…」という文字があり、先の大戦もしくは日清日露戦争時の忠魂碑かもしれない。
【写真左】三角点
100mにも満たない山だが三角点が設置されている。
左奥には電波塔らしき設備があるが、稼働してないような状況に見える。
【写真左】北から西の方へ向かう。
伐採されていない西側に少し向かう。当時はこの方向が大手だったのかもしれない。
【写真左】南側の切崖
かなりの急傾斜となっている。
【写真左】主郭付近から北方に長生寺城を遠望する。
下山途中に見えたもので、豊田氏居城の長生寺城が確認できる。
この位置から双方で狼煙などをあげていたのかもしれない。
【写真左】北東麓を見る。
正面に見る田圃や、奥の丘陵地が小字名の三野和飯塚という地区になる。
飯塚城は、東麓に本流木屋川が流れ、北側にはその支流・本浴川(数軒建っている手前の川)、南麓には同じく支流・江良川が流れているので、三本の川に囲まれるように位置している。
ことから、これらが三本の川が濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】最初に登ってきた段
重機で改変されているが、当時の二の丸的機能を有していたのかもしれない。
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