五郎丸城跡(ごろうまるじょうあと)
●所在地 島根県鹿足郡吉賀町広石立戸
●登城日 2009年4月4日
●築城期 不明
●城主 上杉五郎丸
●標高 355m
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、櫓台
◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」「島根県遺跡データベース」等)
五郎丸城は、細長い島根県の西南端に位置する吉賀町にある。合併前は六日市町といっていた場所である。このあたりは山口県と接する位置で、県庁所在地である東部の松江市から最も離れた場所で、国道9号線から向かうと220km余りも離れている。
吉賀町中央部を蛇行して流れ、益田市を通って日本海にそそぐのが高津川である。一級河川でダムが一つもなく、一時は四国の四万十川より綺麗な川として注目を浴びた。そのため、渓流釣りの人たちには有名な清流である。
【写真上】五郎丸城遠望
東麓付近からみたもので、高津川の西河畔土手を北に向かっていくと、麓に駐車スペースがある。ここからジグザグに曲がって登る登城路が整備されている。時間的には10分程度で登れる。
この高津川上流部の六日市から七日市に下る付近で大きく蛇行し、その蛇行した内側に細長く突き出した舌状丘陵の先端部にあるのが、五郎丸城である。また、その五郎丸城と同じ尾根を登っていくと、「次郎丸城」という城跡も残っている。
【写真左】中腹付近から南方を見る(その1)
写真上方が上流部で、この先に六日市市街がある。川は高津川で、この手前で大きく五郎丸城を囲むように回りこんでいる。
現地の説明板から当城の概要を転載する。
“五郎丸城
上杉五郎丸が居城したため、五郎丸城と名づけられたものである。築城はいずれの時代か詳細は知られていない。
今からおよそ430年前、天文23年(弘治元年)、山口周防の国の武将・大内義隆を倒した重臣・陶晴賢の部将・江良弾正の臣・端士太郎の両名が、300余騎をもって沢田・指月城(別名:萩の尾城)を陥れ、生捕者3名を道案内として、峰伝いに空堀、馬返しを乗り越えて五郎丸城に迫り、本丸に放火した。
城兵は、2月の厳寒に手足凍えかなわず終に総崩れとなり、川の中の戦に五郎丸は入水して死す。残りの兵は立戸下塚より羽生城に逃れんとして敗走中、残らず討ち取られる。
現在も、田の中に点々と五輪塔があり、五郎丸入水の所を五郎丸淵という。山裾の重藤橋のたもと近くに五郎丸城主の宝篋印塔が建っている”
【写真左】その2
桜の花がきれいに咲いていたので、同じような写真を撮ってしまった。
説明板にある上杉五郎丸については、詳細な記録はないが、当時の周辺の記録を参考にすれば、吉見氏の一族と思われる。
吉見氏の祖は、清和源氏で源範頼の出である。範頼の孫・為頼が武蔵国横見群吉見ノ荘に居たことから吉見氏を名乗った。弘安の役(1281)により、能登方面へ出征した吉見頼行は戦功を称され、鎌倉に上り、その後石見に下向した。弘安5年(1282)10月23日のことである。
その後、石見は益田氏と吉見氏の二大勢力が拮抗していくが、戦国期になるとその状況はさらに激化し、そこへ山口の大内氏や陶氏、毛利氏、尼子氏などが加わり複雑な動きに変わっていく。
大内義隆が陶晴賢に急襲され自害したのは、天文20年(1551)9月1日だった。義隆が自刃するする前に頼ったのが、石見津和野城主・吉見正頼である。正頼は大内義興の娘婿でもあったため、一貫して大内方に与する。一方陶晴賢に与したのは益田氏である。
【写真左】郭付近
おそらく二の丸あたりだと思うが、この付近は公園として整備されているためか、遺構の説明板などは一切設置されていない。
五郎丸城がある吉賀町付近も吉見氏の領地で、 説明板にある「指月城」から峰伝いに向かって「五郎丸城」を落とした、とあるが、この峰をだとると、その間には「志目川城」という山城もあるので、これを降し、さらに「次郎丸城」も落として、最後に「五郎丸城」を落としていったという流れだったと思われる。
【写真左】北端部から下段の腰郭を見る
幅は狭いものの、北端部の郭は4,5段の構成となっている。
【写真左】本丸跡付近と思われる個所
写真にあるように、本丸跡には休憩小屋のようなものが建っている。この段から尾根伝いに南に伸びた形状が見られる。
【写真左】本丸跡から南方の尾根を見る
御覧のように、整備されているのはこの付近までで、この先に尾根伝いに行くと、「次郎丸城」がある。
次郎丸城は本丸の標高が400mあまりなので、五郎丸城より50mほど高い。
●所在地 島根県鹿足郡吉賀町広石立戸
●登城日 2009年4月4日
●築城期 不明
●城主 上杉五郎丸
●標高 355m
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、櫓台
◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」「島根県遺跡データベース」等)
五郎丸城は、細長い島根県の西南端に位置する吉賀町にある。合併前は六日市町といっていた場所である。このあたりは山口県と接する位置で、県庁所在地である東部の松江市から最も離れた場所で、国道9号線から向かうと220km余りも離れている。
吉賀町中央部を蛇行して流れ、益田市を通って日本海にそそぐのが高津川である。一級河川でダムが一つもなく、一時は四国の四万十川より綺麗な川として注目を浴びた。そのため、渓流釣りの人たちには有名な清流である。
【写真上】五郎丸城遠望
東麓付近からみたもので、高津川の西河畔土手を北に向かっていくと、麓に駐車スペースがある。ここからジグザグに曲がって登る登城路が整備されている。時間的には10分程度で登れる。
この高津川上流部の六日市から七日市に下る付近で大きく蛇行し、その蛇行した内側に細長く突き出した舌状丘陵の先端部にあるのが、五郎丸城である。また、その五郎丸城と同じ尾根を登っていくと、「次郎丸城」という城跡も残っている。
【写真左】中腹付近から南方を見る(その1)
写真上方が上流部で、この先に六日市市街がある。川は高津川で、この手前で大きく五郎丸城を囲むように回りこんでいる。
現地の説明板から当城の概要を転載する。
“五郎丸城
上杉五郎丸が居城したため、五郎丸城と名づけられたものである。築城はいずれの時代か詳細は知られていない。
今からおよそ430年前、天文23年(弘治元年)、山口周防の国の武将・大内義隆を倒した重臣・陶晴賢の部将・江良弾正の臣・端士太郎の両名が、300余騎をもって沢田・指月城(別名:萩の尾城)を陥れ、生捕者3名を道案内として、峰伝いに空堀、馬返しを乗り越えて五郎丸城に迫り、本丸に放火した。
城兵は、2月の厳寒に手足凍えかなわず終に総崩れとなり、川の中の戦に五郎丸は入水して死す。残りの兵は立戸下塚より羽生城に逃れんとして敗走中、残らず討ち取られる。
現在も、田の中に点々と五輪塔があり、五郎丸入水の所を五郎丸淵という。山裾の重藤橋のたもと近くに五郎丸城主の宝篋印塔が建っている”
【写真左】その2
桜の花がきれいに咲いていたので、同じような写真を撮ってしまった。
説明板にある上杉五郎丸については、詳細な記録はないが、当時の周辺の記録を参考にすれば、吉見氏の一族と思われる。
吉見氏の祖は、清和源氏で源範頼の出である。範頼の孫・為頼が武蔵国横見群吉見ノ荘に居たことから吉見氏を名乗った。弘安の役(1281)により、能登方面へ出征した吉見頼行は戦功を称され、鎌倉に上り、その後石見に下向した。弘安5年(1282)10月23日のことである。
その後、石見は益田氏と吉見氏の二大勢力が拮抗していくが、戦国期になるとその状況はさらに激化し、そこへ山口の大内氏や陶氏、毛利氏、尼子氏などが加わり複雑な動きに変わっていく。
大内義隆が陶晴賢に急襲され自害したのは、天文20年(1551)9月1日だった。義隆が自刃するする前に頼ったのが、石見津和野城主・吉見正頼である。正頼は大内義興の娘婿でもあったため、一貫して大内方に与する。一方陶晴賢に与したのは益田氏である。
【写真左】郭付近
おそらく二の丸あたりだと思うが、この付近は公園として整備されているためか、遺構の説明板などは一切設置されていない。
五郎丸城がある吉賀町付近も吉見氏の領地で、 説明板にある「指月城」から峰伝いに向かって「五郎丸城」を落とした、とあるが、この峰をだとると、その間には「志目川城」という山城もあるので、これを降し、さらに「次郎丸城」も落として、最後に「五郎丸城」を落としていったという流れだったと思われる。
【写真左】北端部から下段の腰郭を見る
幅は狭いものの、北端部の郭は4,5段の構成となっている。
【写真左】本丸跡付近と思われる個所
写真にあるように、本丸跡には休憩小屋のようなものが建っている。この段から尾根伝いに南に伸びた形状が見られる。
【写真左】本丸跡から南方の尾根を見る
御覧のように、整備されているのはこの付近までで、この先に尾根伝いに行くと、「次郎丸城」がある。
次郎丸城は本丸の標高が400mあまりなので、五郎丸城より50mほど高い。
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