花城跡(はなじょうあと)
“花城(姫ノ城)跡
花城は、金城町大字波佐城山イ 1172、大潰山から北方向に下がる稜線の先端部、波佐川の東側に位置する。別名中谷城、姫ノ城とも呼ばれていた。
城郭は、山頂部の南北に伸びる全長400mに6段の郭、腰郭、武者走りなどがある。稜線の南側を遮断する堀切、1段目・2段目・3段目の郭の間に二つの堀切がある。波佐川を挟んだ城の西向かいに、万代城(番台)がある。花城の出張りの役目を持っていたのであろう。
波佐一本松城との関連性が高い。また、城の北側に六角道があり、北西の方向に処刑場(不来ケ原)がある。花城は元亀元年(1570)に落城する(金城町誌 第6巻より)。
図の説明より
全貌を見てみると、山の中腹には、高さ約30m、幅約50mの岩の壁があり、南側には、人工的に造られた洞(姫をかくまった穴といわれている)があり、東側には、五輪塔もある。
6月から7月にかけて、花城前の清流周布川には、沢山のホタルが飛び交う。
(平成16年6月設置 三栄町内会)”
●登城日 2009年4月27日
●所在地 島根県浜田市金城町波佐
●別名 中谷城跡・姫ノ城跡
●標高 485m
●遺構 郭 帯郭 腰郭 堀切等
◆解説(参考「島根県遺跡データーベース」等)
浜田市から広島県の大佐スキー場方面に向かう国道186号線沿いにある。
【写真左】花城遠望
西麓を走る186号線側からみたもので、左側の麓は周布川と支流落合川が合流している。
規模としては小ぶりだが、山全体が天然の要害である。以下、現地の説明板による。
花城は、金城町大字波佐城山イ 1172、大潰山から北方向に下がる稜線の先端部、波佐川の東側に位置する。別名中谷城、姫ノ城とも呼ばれていた。
城郭は、山頂部の南北に伸びる全長400mに6段の郭、腰郭、武者走りなどがある。稜線の南側を遮断する堀切、1段目・2段目・3段目の郭の間に二つの堀切がある。波佐川を挟んだ城の西向かいに、万代城(番台)がある。花城の出張りの役目を持っていたのであろう。
波佐一本松城との関連性が高い。また、城の北側に六角道があり、北西の方向に処刑場(不来ケ原)がある。花城は元亀元年(1570)に落城する(金城町誌 第6巻より)。
【写真左】麓にある説明板
登り口付近に空地があるが、土木用の資材を貯蔵している場所も兼ねており、車は道路わきにのスペースに留めた。
図の説明より
全貌を見てみると、山の中腹には、高さ約30m、幅約50mの岩の壁があり、南側には、人工的に造られた洞(姫をかくまった穴といわれている)があり、東側には、五輪塔もある。
6月から7月にかけて、花城前の清流周布川には、沢山のホタルが飛び交う。
(平成16年6月設置 三栄町内会)”
【写真左】配置図
この図では、下方が北を示している。
【写真左】遊歩道案内図
このときは、この中の「大岩」や「姫の穴」方面の道が崩落しており、通行止めのため向かっていない。
【写真左】登城口付近
登城路は山の脇をルートとしてるため、傾斜がきつく、七曲のコースで造られている。
【写真左】五輪塔
現地説明板より
“五輪塔
この地は、花城(姫の城)の北麓に位置しており、この五輪塔は姫(白子姫)の墓といわれている。
水・地輪は不明であるが、空・風・火輪は現存している”
【写真左】登城途中の大きな岩
ところどころにこうした大きな岩があり、全体が岩の塊のような山城である。
【写真左】登城途中
途中までは傾斜のきつい部分に階段が設置されているが、上にいくほど手つかず状態で、途中から道らしきものがなくなった。このため、目測で尾根伝いを進んでいった。
【写真左】郭付近
山の形状としては、尾根の幅が狭く、東西は切崖のため、遺構の各所は規模が小さい。
この郭も小規模なものである。
【写真左】堀切その1
深さはさほどないが、前述したように尾根幅が狭いので、敵兵の進入防止も効果が高いと思われる。
【写真左】本丸付近
現地には本丸跡を示す標識などがないため、確証はないが、この位置が周囲の尾根の中で一番高所になるため、おそらくこの場所と思われる。
ただ、地図の等高線を見ると、さらに高所になった尾根がこの先(南)にあり、頂部が細長いものの平坦地面の大きな形状を示すところがある。
さらにその先は鞍部が一端あり、続いてさらに尾根伝いに登ると「半場山」域に入る。
【写真左】最南端の堀切
さらにその先は鞍部が一端あり、続いてさらに尾根伝いに登ると「半場山」域に入る。
【写真左】最南端の堀切
この堀切付近までが多少手入れがしてあり、その先の尾根はブッシュ状態だった。
予想だが、この先にも遺構があってもおかしくない。というのも、上記の半場山まで行けば、長田川(周布川の支流)を挟んで、「波佐一本松城」が相対する位置になるからである。
0 件のコメント:
コメントを投稿