2009年12月17日木曜日

富山城(島根県大田市富山町山中)

富山城(とみやまじょう)

●所在地 島根県大田市富山町中山
●探訪日 2008年5月5日
●標高 299m
●築城期 戦国期
●築城主 富永元保
●別名 要害山城、重蔵山城
●遺構 郭、腰郭、土塁、石垣、虎口、温風穴

【写真左】富山城本丸付近より富山地区の棚田をみる。
 時節柄、田植えのシーズンで、幾何学模様の棚田の風景は、手前の花と相まって気分を和らげてくれる。





◆解説(参考「城格放浪記」「島根県遺跡データベース」 その他)

 富山城についての詳細な記録は残っていない。しかし、この位置は出雲から石見に入る国境付近であったことから、かなり重要な城跡だったことが推測できる。

 以下、現地の説明板(なお、原文を若干平易な文章に直している:管理人)よる。

【写真左】富山城遠望
 西側からみたもので、幾何学的に円錐形の山容となっている。








古城址要害山説明板

 当要害山は重蔵山と称し、戦国の代、富永山城守元保の居城であった。形式は山城の古城である。

 山は円錐形で、西方が大手口にあたり、麓には当時を偲ぶに足る特徴のある石垣が残存する。また、城主の館跡や、長く大きい馬場跡、宝蔵跡なども明らかに残っており、今はまったく畑となっているが、城道はすべて電光形で、頂上の甲の丸は、人工的に平坦地となっており、その大きさは東西南北各50mほどである。

 周囲の丘腹には軍備用の矢竹が密生し、その下には「一の平」、「二の平」、「三の平」がある。このうち二の平には、4m四方の古井戸も現存し、広大な城跡であったことをうかがわせる。
 この山城は、出雲・石見の国境に沿い、これが要害堅固な城であったため、尼子・毛利両氏の大森銀山争奪戦のとき、戦略上重要な拠点であった。”
【写真左】右側の坂道が登城入口へ向かう。
 小屋の右側に立っているものが上記の説明板
なお、左側に見える山が富山城である。








【写真左】登城口手前の駐車場
 無理すれば、3,4台は駐車できるスペースで、右側の方には畑などがある。登城口はこの写真の手前左側にある。










【写真左】最初に出てくる「三ノ平」
 腰郭形状だが、郭そのものの状況は雑木や竹で覆われている。
 少し中に入ってみると、上段の二ノ平を取り囲むような形状なので、帯郭かもしれない。









【写真左】「二ノ平」
 この場所も標識は立っているが、御覧の通り笹藪状態で踏み込みは不可能。
 なお、登城路の傾斜がこのあたりからきつくなってくる。








【写真左】本丸付近
 5月であったこともあり、雑草の草丈がかなり伸びていて、全体の様子が分かりにくいが、現地に電気コードやテント用の機材が置いてあることから、定期的にこの場所で行事が行われているのだろう。









【写真左】本丸跡に立つ展望台
 駐車場からこの本丸跡までのルートは、きわめて歩きやすく、時間にして20分前後程度でたどり着く。
(もっとも遺構を無視すれば、10分程度で済む)
展望台前にある説明板内容を転載しておく。



史跡説明(重複部分は省略)
1、2、(省略)
3、富永氏は、はじめ尼子氏に属していたが、のちに毛利方となり、永禄13年(1570)には、尼子勝久の大軍を国境でよく食い止め、偉功を立てた。このとき、田儀二俣の合戦で、家臣・竹下忠兵衛尉(当時竹下の祖)功名を立て、毛利の将・小早川隆景から感状を受けている。
4、この山には、馬場屋敷跡など無数残っている。富永氏はのちに、備中・笠松城に転じたと伝えられる。”
【写真左および下】温風穴といわれているところ
 本丸から西の大手口方面の傾斜地に、「温風穴」といわれている穴がある。
 下の写真の位置に手を当ててみたが、暖かい風は感じられなかった。
 戦国期からあったものか分からないが、当時からあったとすれば、冬には暖房装置として活用されたかもしれない。




【写真左】温風穴













【写真左】「土居館」といわれるところ
 この写真の左下にみえるやや丘陵状の平坦地がある。

 「城格放浪記」氏が現地を紹介しているので、詳細はそちらを参照していただきたいが、寺院跡だったようで、富永氏と何らかの関係をもったものであろう






【写真左】富山の棚田その1
 この景色は棚田百選にはなっていないが、絶景である。










【写真左】その2

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