2009年12月4日金曜日

長安八幡宮(島根県浜田市弥栄町)

長安八幡宮(ながやすはちまんぐう)


●探訪日 1回目 2008年5月15日、2回目 2009年2月11日、
      3回目2014年2月22日
●所在地 島根県浜田市弥栄町長安

◆解説
 前稿で取り上げた「永安城」と関係があった神社で、現地の説明板より転載する。

御神徳由緒の碑

 長安八幡宮のご祭神は、神宮皇后、応神天皇、王依姫命にして享徳元年(1452)3月、矢懸城主・永安治部少輔兼澄公、社人・岡本喜大夫、河野吉大夫の二人に命じ、宇佐八幡宮より勧請。同年4月、稲代村古屋河内(八幡風呂)に仮宮を設け、現在の永嶽山に社殿創設鎮座す。

 爾来、長安・稲代・大坪・程原・小角・横谷・笹目原・日高・西河内・門田十カ村の氏神となる。明治8年7月28日、郷社に列せられ、同年9月27日、神饌幣帛料共進神社の指定を受く。
【写真左】参道及び鳥居
 2014年2月参拝。











 長安天満宮の祭神は、学問の神・藤原道真公にして、永安大和守兼政公、山城の国・北の天満宮より勧請、郷田山に鎮座奉斎す。時に、嘉慶元年(1387)なり。

 後年、神手山い移転し、さらに明治42年7月25日、永嶽山に奉斎す。両社ともに津和野藩主・亀井公歴代の崇敬篤く、長安代官をして屡天下太平、五穀豊穣、国家安念、武運長久の祈願をなせしことは、現存する多数の棟札よりて窺い知られたり。
【写真左】長安八幡宮 本殿












 この両社を勧請せし永安家は、石見の名門・益田氏(藤原姓御神本氏)を祖とする三隅兼信公の二男・兼祐公が仁治2年(1241)長安地頭となりて来たり矢懸城に拠りて、永安氏を称したるに始まる。

 爾来、兼祐・兼栄・兼員・祥水・永安太郎…永安大和守兼政…永安治部少輔兼澄の諸公を経て、大和守に至り、部門の意地により毛利に抗し、吉川・熊谷・天野麾下二千余の来攻を受け、天文23年(1554)6月20日、落城。
【写真左】長安八幡宮参道麓から矢懸城を遠望する。











 宗家・益田に走るも二年後の弘治2年12月、自刃。かくて永安家は兼祐公以来、315年にして滅さす。嘗て新庄吉川家の介入を許し、所領半減して勢力衰退。青史に華々しき足跡を留め得ざりとは痛惜の極みなり。

 永安家の悲運を悼み、両社勧請の敬神の念を偲び、ここに鎮座600年式年大祭執行を記念して、村医・大屋敏郎氏の発願により、御神徳由緒の碑にその一端を留めて永安家歴代の慰霊と成し得たることに衷心より謝意を表するものなり。


昭和59甲子年5月27日
  長安八幡宮称宣寺本  博撰井書
  大屋 敏郎 ”
【写真左】境内の古木





【写真左】旧跡地
この写真の前方に永安城が見える。

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