2009年12月18日金曜日

福光城(島根県大田市温泉津町福波谷山)

福光城(ふくみつじょう)

●所在地 島根県大田市温泉津町福波谷山
●登城日 2007年11月23日
●築城期 戦国時代
●築城主 吉川経安
●標高 100m
●遺構 石垣、古池、五輪塔、郭、帯郭、腰郭、土塁、堀切
●別名 物不言(ものいわず)城、不言城
●登城日 2007年11月30日及び2013年3月

◆解説(参考文献「城格放浪記」「島根県遺跡データベース」その他)
 国道9号線を松江方面から向かうと、温泉津温泉を過ぎて、約3キロほど進んだ位置に福光という地区がある。

 この場所は、東方の山並みから流れてきた福光川と接近する位置で、少し谷間が広がっている。ちょうどこの位置の南西に突き出した丘陵地に福光城がそびえている。
【写真左】福光城遠望・その1
 撮影日 2013年3月。この前年暮れだろうか、尾根筋が大分整備されている。






 温泉津は石見銀山の積出し港として、その名はよく知られているが、この福光地区はその場所から南にあり、毛利方にとってもいわば温泉津の後方守備の位置として重要視していたようだ。
 福光城は、標高100mというから、近隣の山城としては低い方である。
【写真左】福光城遠望・その2
 この日登城した時は、登城口が分からず、楞厳寺(下段参照)の西側の崖から登って行った。まともな登城路は、この写真にあるものだが、北方のほうからしっかりした道ができている。




 さて、この城は、当ブログの表題に添えてある戦国の悲運の部将「吉川経家」の居城であったところである。

 別名、不言城、または「ものいわず」城という、なんともいわくありげな名称である。現地の説明板から転載する。

“不言城(福光城)址
 不言城は、当初福光氏の居城であったが、永禄2年(1559)石見地方に侵攻した毛利元就は、川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に、福光氏の所領を与えた。

 これを機に、吉川経安は嘉暦3年(1328)より200年にわたって拠点としていた温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)から、不言城に居を移し、改修して居城とした。本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っており、本格的な山城であったことがうかがえる。

 古今の名将の一人として名をはせた不言城主・吉川経家は、9代目経安の子である。
 経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の部将として、鳥取城に入城。秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7カ月の籠城ののち、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃した。

 慶長6年(1601)、経家の子・経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、不言城はその歴史を閉じた。”
【写真左】本丸?付近
 前記した西麓から登っていくと、いきなり郭付近に出てくる。
 現地には遺構を示す標識などが数本立っているが、ほとんどが雑草に覆われている。





 今月の稿で紹介した「丸山城」や「山吹城」の中でも、少し述べているが、永禄2~3年(1559~60)は、毛利元就が江の川を下って、石見銀山を攻略する重要な時期である。

 攻め方としては銀山を直撃する手法もとっているが、全体に銀山の南から西へ回って、攻め入るやり方である。

 説明板にある温湯城小笠原長雄を降したのは、永禄2年(1559)の8月25日であるから、吉川経安はその直後に福光城に入ったことになる。

 翌年6月、毛利軍は再度石見銀山を奪取すべく、尼子軍と戦うが、後れを取った形になり、君谷別府(現在の美郷町と大田市の境で、R375線沿いにある)で大敗する。

 永禄4年(1561)11月、それまで毛利氏方だった福屋隆兼は、尼子氏と結び吉川経安の拠る福光城に攻め入った。これに対して、経安方の都治今井城主・都治隆行は、森雅楽助、笠井源太郎らを従えて福光城に籠城して防戦する。「笠井家文書」によると、この戦いで初めて笠井源太郎が鉄砲を用いたとされている。
【写真左】上の丸跡
 記憶がはっきりしないが、本丸の上部(南側)にも郭である「上の丸」という場所がある。






 この時の籠城戦が功を奏し、福屋隆兼は翌永禄5年2月、松山城(島根県江津市)本明城(島根県江津市有福温泉)で毛利方に追われ、防戦するも敗退する。最後は城を捨てて浜田へ逃れ、のち出雲を経て大和国の松永弾正を頼ったといわれている。


 なお、前記説明板にある殿村城(高越城)は、福光城脇を走る温泉津川本線(32号線)を丸山城跡(島根県川本町田窪古市)方面に上ったところあり、現在の井田小学校の南西に位置している(城之助氏より)。
 ところで、経安の子・経家については、いずれ鳥取城の際に取り上げたいと思う。
【写真左】馬洗池
 文字通り、馬を洗うための池で、現状はほとんど水はなく、湿地帯のような状況だ。






●福光城の東麓に建つ楞厳寺は、後段に示す浄光寺と併せ、吉川家ゆかりの寺である。

(現地の説明板より)

楞厳寺(りょうげんじ)
宗名 真言宗 御室派
寺号 金剛山 楞厳寺
本尊 聖観世音菩薩


 当山は、元は法相宗ともいわれ、弘仁4年弘法大師が諸国巡錫のおり真言宗に改宗したという。延応元年(1239)知見上人によって再興された古刹である。室町時代後期、福光美濃守兼国がこの地を所領とし、福光氏の武運長久を祈る祈願寺として信仰を得る。

 永禄2年1559)、福光氏の所領を吉川経安がもらい不言城を居城とし、鳥取城攻めで有名な名将10代目城主・経家に纏わる墳墓について、石見吉川家系図に「営寿墳矣、石州福光県内楞厳寺方」として記す。慶長6年(1601)に経実が岩国へ移住し廃城となり、当山も栄枯盛衰をみる。

 江戸時代初期、大森羅漢寺の住職の月海浄印が、五百羅漢を福光石工坪内平七一門に建立を依頼し、五百羅漢について指導したのが、当山の住職であったと伝えられている。平七一門は25年の歳月をかけて羅漢像を完成し、その後檀家となる。

 明治6年(1873)には、学制が発布第174番小学区として当山で開校。観音霊場として今昔ともに深く帰依されている。”
【写真左】二の丸跡
 北の方に向かって郭が構成されているが、平坦地の精度は分からない。







 上記の説明板中、赤字で示した永禄2年の西暦年が1599年となっていた。明らかな間違いのため、今稿では修正して1559年としている。

 なお、このほかに福光には吉川経安が開基したといわれている「浄光寺」がある。現地の写真を撮ってはいるが、どのファイルに保存したのか、残念ながら出てこないため、写真の紹介ができない。

 幸い、「城格放浪記」さんが、当寺の写真を紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。
 当寺は、経安の妻が亡くなった永禄2年に、同墓地に埋葬され、それを縁として吉川家の菩提寺として創建されたという。境内墓地には経安と妻の墓碑が静かに眠っている。
【写真左】本丸跡
 冒頭の写真も本丸としているが、おそらくこの位置が本丸であろう(2年も経つと記憶がいい加減になってくる)
【写真左】福光城から東方を見る
 写真の谷から福光川が流れてくる。
【写真左】福光城の北端部にある大岩
 この地域独特の地層である岩の塊でできた山のため、こうした大岩はそのまま残っているのだろう。

【写真左】下山途中の水を溜めた穴
 下山は正式な道を見つけたので、このルートから降りて行った。基本的に福光城の西麓に登城路が造られている。
 この穴は井戸のようでもあり、馬の水飲み場のようなものにもみえる。
【写真左】番所跡
 福光城の入口で監視したり、場合によっては休憩などもしただろう。

【写真左】楞厳寺
 規模は大きくはないが、歴史を感じる古寺だ。

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