2014年6月22日日曜日

塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)

塩田城(しおたじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市山崎町塩田
●築城期 戦国時代中期
●築城者 菅野氏
●城主 小寺政職
●高さ 標高236m(比高50m)
●遺構 土塁・石積・堀切その他
●登城日 2014年5月5日

◆解説
 塩田城は、前々稿篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)の南麓を流れる菅野川を約8キロほど遡った山崎町塩田に築かれた小規模な城砦である。
【写真左】塩田城
 主郭の西側にある土塁を背後から見る。










 現地の説明板より

“塩田城址(しおたじょうし)
  【所在地】宍粟市山崎町塩田

 塩田地区を流れる菅野川右岸の標高236mの尾根上に築かれた山城で、戦国時代中ごろに地元の土豪菅野氏(すがのし)によって築城されたと伝わる。
【写真左】縄張図
 ご覧の通り小規模なものだが、西側の登城口から主郭に向かっては険しい切崖となっている。

 また、この図にもあるように、当地名は「字政所」と記されている。











 城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西約20m、南北36mの主郭を置き、北側に高さ7mの土塁・石積を設け、幅約1.2m、深さ約1.5mの堀切で二重に遮断して、尾根から来る敵の侵入を防いでいる。また、主郭南側のやや下がった場所に腰郭を設けており、北西側にも帯郭を配して防備を固めている。

 塩田城の対岸には、かつて荘園の中心地であったことを示す「政所」の地名が残る。また、ここは青木方面と葛根(かずらね)方面からの道が交差し、東へ峠を越えると宇野氏の本拠である長水城下へと至る地点であるため、実際には街道を監視する番所的な城だったと考えられる。
【写真左】登城案内
 この道路の右側から登っていく。直下には駐車スペースはないので、この写真の道路を少し上った先に空き地があるので、ここに停める。


 江戸中期に成立した『播磨鑑』は、黒田官兵衛の主人・小寺政職が、天文12年(1543)から天文14年(1545)の間、「塩田構居(しおたこうきょ)」(平城)に居城していたと伝えている。小寺氏の在所は、当時の史料からは確認できないが、近辺の明證寺(みょうしょうじ)(真宗)は、小寺氏所縁の寺院といわれており、この地域では小寺氏に関わる伝承が古くから語り継がれてきたようである。

   参考文献
      兵庫県教育委員会編
     『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか”
【写真左】登城道
 すでにこの段階で主郭の位置が確認できる。
歩いて5分もかからないだろう。

 ただ、切崖のため階段には傾斜がある。



小寺政職(こでらまさもと)

 現在放映されているNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」で、片岡鶴太郎氏が演じているのが官兵衛の主君であった小寺政職である。この間の放映では有岡城から救出された官兵衛が、捕らわれた政職に自刃を迫ったものの、命乞いをしながら拒否したため、官兵衛は打果すこともせず、憐れな元主君を逃がしてしまう。
 伝聞では政職は、その後毛利氏の計らいで備後鞆の浦に落ち延び、天正12年(1584)当地で没したといわれる(異説あり)。
【写真左】堀切
 現在の登城道と兼ねたもので、北西端に位置する。
 ここから右に向かうと主郭に繋がる。






政職の父・則職(のりもと)

 鶴太郎氏の名演技で、官兵衛とは別にこの主君であった小寺政職が知れ渡ったが、政職に限らず播磨国における他の小国人領主達は、同じように織田信長(羽柴秀吉)と毛利氏の間で一族延命のために、右往左往しながら対応せざるを得なかった。

 さて、この政職の父は小寺則職といわれている(母については分からない)。則職は明応4年(1495)に生まれているが、その頃すでに赤松氏を主君として仕えている。永正17年(1520)主君で当時の播磨守護であった赤松義村の命によって、義村に反旗を掲げた浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)討伐に動いている。
【写真左】主郭・その1
 主郭の背後である北側から西側にかけては土塁が囲繞している。
 看板の設置されている箇所が土塁で、主郭はその左側の低くなった箇所。


 これについては、以前取り上げた置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べているが、結果的には村宗が主君であった義村を滅ぼしてしまう。

 この後、浦上氏は西播磨と東備前を領有する戦国大名となる。大永元年(1521)のことである。村宗はその後、中央における管領細川家の内紛に乗じて、細川高国に属し各地を転戦している。
【写真左】石仏
 主郭の脇には石仏が祀られている。後段で紹介する明證寺と関連するものだろう。
 なお、後方には土塁が見える。



 赤松義村の跡を継いだのが嫡男・晴政である。領地を奪われた晴政は一旦淡路国に逃れた。このとき則職も当時存命中だった父・政隆と一緒に、晴政の下に庇護されていた。
 しかし、享禄3年(1530)政隆が浦上村宗に攻められ討死したあと、翌4年(1531)に父の家督を継いだ則職は、晴政から離反していく。
【写真左】主郭・その2
 主郭の南東端から北西方面を見たもので、撮影地点である手前は、主郭から少し下がった位置にある腰郭になる。
 なお、この下にも小規模な腰郭が配置されている。


 そして天文7年(1538)11月、前年に引き続いて播磨国に進出した出雲の尼子経久らが赤松晴政を攻めた際(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)、則職は晴政の籠城する高砂城の攻め手として参陣している。

 敗れた晴政が奔った先は、前回と同じように淡路国であった。おそらく匿ったのは三好氏一族だったのだろう。
【写真左】主郭から北東側を見る。
 主郭からの眺望はあまりよくないが、当時は東麓の菅野川両岸が俯瞰できたものと思われる。





塩田城在城前後

 さて、政職が本稿の塩田城に在城したのが、天文12年(1543)から天文14年(1545)の間とされている。度々攻められた赤松晴政であったが、その後小寺氏をはじめとする播磨国人衆たちと和睦し、播磨に再び復帰した。丁度このころが政職が塩田城に在城していた時期と重なる。塩田城の在城最終年である天文14年(1545)、政職は父則職から家督を譲られ、塩田城から御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)へと移ることになる。
【写真左】主郭から堀切を見る。
 縄張図では北西端の堀切は一条となっているが、現地ではその奥にも小規模な鞍部が見えるので、当時は二重堀切が構築されていたのかもしれない。
【写真左】明證寺
 塩田城の東麓に建立されている寺院で、小寺氏所縁の寺院といわれている。

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