2017年12月10日日曜日

豊後・戸次氏館(大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺

豊後・戸次氏館(ぶんご・べっきしやかた)

●所在地 大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺
●形態 居館
●遺構 不明
●備考 最乗寺
●築城者 戸次氏
●築城期 不明
●登城日 2015年10月12日

◆解説(参考資料 HP『戦国 戸次氏年表』、HP『城郭放浪記』等)
  大分県大分市には二つの大きな川が流れている。一つは西側にある大分川、もう一つは東側にある大野川である。いずれも一級河川であるが、このうち大野川の旧名は戸次川(へつぎがわ)と呼ばれ、長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)の稿でも紹介したように、天正14年(1586)この川を挟んで長宗我部信親ら秀吉から派遣された四国勢と、南から進軍してきた島津軍との壮絶な戦いが繰り広げられ、長宗我部元親の嫡男信親が悲運の死を遂げた。
【写真左】戸次氏館跡・最乗寺
 現在最乗寺という寺院が建立されているが、豊後大野市には14か所に及ぶ城郭(山城・館等)があったとされる。
 そのうち、大野町田中ある現在の最乗寺という寺院付近に戸次氏の館があったとされる。


 さて、この大野川(戸次川)を遡っていくと、大分市の南隣豊後大野市に入る。同川の支流平井川を北上していくと、矢田というところで二つに分かれ東側から田代川が注ぎ込む。

 この田代川をさらに遡り、国道57号線と交差する地域が現在の大野市のもととなった大野町である。
 戸次氏館はその大野町田中にあったとされる城館である。
【写真左】最乗寺前の通り
 この最乗寺から北へ約2キロほど向かった藤北にも戸次氏の館(藤北館)がある。また、そこからさらに北西方向に6キロほど向かったところに下段で紹介している鎧ヶ岳城がある。



大神氏その一族

 ところで戸次氏に関連する事項に入る前に、大雑把な豊後国の武士を中心とした中世の流れを見てみたい。

 平安時代後期、豊後(今の大分県中南部)に勢力を誇った一族に大神(おおが)氏がいた。大神氏はもともと宇佐神宮の神官として奉仕していたが、宇佐氏によって大宮司職を奪われると、宇佐を退去し豊後の南方に移り扶植していったといわれる。
 推測だが、この大神氏が宇佐を退去する前にいたと思われる本貫地が、現在の国東半島の南東部にある日出町大字大神(おおが)ではないかと考えられる。因みに、当地大神から宇佐神宮までは直線距離で25キロほどである。

 大神氏からは後に、臼杵大野・植田・阿南・高知尾氏などが分かれていく。このうち臼杵氏の分流となった一族に緒方氏がいる。
【写真左】山門
 先ほどの通りを抜けると、手前に階段がありその上部に最乗寺の山門が控える。








緒方氏大友氏

 緒方惟栄(これよし)は当初平家(平重盛)の御家人であったが、のちに源氏方に与し平家の拠点宇佐神宮を攻撃し、神宝などを略奪したため上州へ配流されたが、平家追討の功を認められ、再び豊後に戻った。そして平家滅亡後頼朝と不仲になった義経を九州に招くため、竹田に岡城を築いた(豊後・岡城(大分県竹田市竹田)参照)。惟栄の本拠地は同市(豊後大野市)の緒方町である。

 周知の通り、義経らは惟栄を頼って舟で九州へ向かったが台風に巻き込まれ、軍勢も散り散りになり西下計画も失敗に終わった。こうした経緯もあったため、豊後国は幕府を開いた頼朝にとって完全に統治した国ではなく、敵対する者も多かった。このため、その鎮圧と知行を目的として大友能直(よしなお)を豊後に送り込んだ。
【写真左】山門から田中の町並みを見る。
 高さは5m前後のもので、館があったとされる時代には郭段を構成していたものと思われる。




 能直は相模国(神奈川県)愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、後に母の実家であった同国足柄上郡大友郷を継承して大友能直と名乗った。
 建久7年(1196)正月、能直は豊前・豊後両国守護並びに鎮西奉行を任じられた。

 能直の入国の前、先発として向かったのが能直の実弟とされる古庄重能である。果たせるかな、重能の入国を阻止するため一斉に立ちあがったのが、件の大神氏一族である。主だった同氏一族が拠って戦った城郭は次の通り。
  • 阿南惟家  高崎山城(大分市神崎)
  • 阿南家親  鶴ヶ城(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦で紹介している鶴賀城と考えられるが、豊後大野市緒方にある鶴ヶ城の可能性もある。)
  • 大野泰基  神角寺城(豊後大野市朝地町烏田 神角寺)
  • その他
【写真左】本堂
 本堂の裏側はさらに高くなった丘陵地があり、そこに田中神社が祀られている(下段写真参照)。
【写真左】境内
 境内周辺には民家などが建っているが、本堂も含めたこの平地を当時の館敷地とすれば、凡そ長径(南北)50m×短径(東西)30mといったところか。




大友氏による豊後支配体制

 大神氏一族らによる抵抗はゲリラ作戦的な戦いが多く、大友氏はこのためかなり悩まされたが、次第にこれら在地武士を支配下に治めていった。

 貞応2年(1223)、大友能直は死の直前大野荘地頭職を妻・風早禅尼(深妙)に譲った。そして、延応2年(1240)、深妙は大野荘の地を7人の子に分与し、詫摩・一万田・志賀ら有力武士が誕生した。その後、二代親秀、三代頼泰と継嗣させ、二代親秀に多くの男子があったことから、彼らをそれぞれ豊後各地に配し、姓をその地名からとった。

  氏名       領主名(所領地)
 次男・重秀 ⇒ 戸次氏(大野川(旧戸次川)の中流域)
 三男・能泰 ⇒ 野津原氏(大分川支流七瀬川沿いの旧野津原町付近)
 四男・直重 ⇒ 狭間氏(由布市狭間町)
 五男・頼宗 ⇒ 野津氏(臼杵市野津町)
 六男・親重 ⇒ 木附氏(杵築市)
 七男・親泰 ⇒ 田北氏(竹田市直入町上・下田北)

※なお、史料によっては、初代能直、二代親秀までは実際に豊後に下向せず、三代頼泰のとき初めて当地に入ったとされるものもある。
【写真左】最乗寺の脇から田中神社に向かう。
 境内北側が少し高くなって、その奥には田中神社に向かう階段付の参道がある。




戸次氏

 さて、このうち戸次氏については、元々大神氏系臼杵氏の流れを持つ戸次惟澄がこれ以前から在地していたが、惟澄には子がなかったので、重秀を養子に押し付けたといわれている。

 大友氏が養子を送り込んで、戸次重秀と名乗らせる前の戸次氏は、臼杵惟盛から分かれた惟衡の子維家が初めて戸次姓を名乗っている。以後、惟隆、惟継、惟房、そして惟澄と続いた。

 惟澄が大友家から重秀を養子として迎えたあと、時親、貞直、頼時、直光、直世、親載、親貞と続き、親貞の代になって、戸次家惣領には親宣を、親続には片賀瀬戸次氏を、親延には藤北戸次氏を継がせている。おそらく片賀瀬戸次氏や、藤北戸次氏も養子の形で押し込んだのだろう。
 この惣領親信の孫が戸次鑑連(あきつら)、すなわち後に「鬼の道雪」又は「仏の道雪」といわれた立花道雪である。
【写真左】鳥居
 額束には「熊野権現宮」と刻銘された文字が見え、また柱には「文久二…」の文字が見える。
 創建期など不明だが、これから推測すると紀伊の熊野本宮から勧請されたものだろう。



立花道雪(戸次鑑連)

 戸次氏を語る上で、戦国期もっとも名を馳せた武将としては、立花道雪と立花宗成の二人(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)が挙げられるだろう。
 
 ところで上述したように戸次姓の基となった戸次地域は、戸次川(大野川)の中流域にあった戸次の荘(大分郡戸次荘)からきたものと思われるが、その後重秀はそこからさらに上流部に遡った今稿で取り上げている戸次氏館の北方、大野市大野町田中に鎧ヶ岳城を築いた。

 永正10年(1513)初春、戸次氏13代当主親家の次男として道雪が生まれた。道雪の幼名は八幡丸といい、彼が生まれたとき既に長男は夭逝しており、生まれながらに嫡子としての重責を背負うことになる。

 なお、道雪が生まれた場所については、居城・鎧ヶ岳城とする史料もあるが、現地は居館跡らしきものや、郭といった遺構などが希薄であったことから、当城の南麓にあったもう一つの館・藤北館(常忠寺裏)ではなかったかとする説もある。
【写真左】拝殿
 蔀戸もなく、柱だけ残した構造となっている。往時はこの場所で神楽などの奉納がされたのかもしれない。




 父・親家の妻は、同じく大神氏の流れを汲む由布加賀守惟常の娘で、八幡丸(道雪)を生んだ翌年死去してしまう。
 父・親家も生まれながらにして病弱で、八幡丸は14歳のとき父の名代として初陣を飾り、その功を以て主君大友義鑑(宗麟の父)から正式に戸次家の家督相続の許しを得、さらに偏諱を受けて、鑑連(あきつら)と名乗った。
【写真左】「田中神社」の額
 名称は当地名の田中からきたものだろうが、日本全国にある「田中神社」との関連もあるかもしれない。



 その後の経緯については少し端折るが、道雪となったのは、その当時の主君義鎮が剃髪して宗麟と号したとき、多くの家臣も主君に倣い入道となり、鑑連もこのとき「道雪」と号したからである。

 また、立花姓となったのは、大友氏の一族立花氏(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)が度々主君大友氏に反旗を翻していたため、これを追いやり、宗麟が道雪をして立花の名跡を継がせたからである。そして、道雪は筑前の立花城の城主となった。
【写真左】絵馬
 この出で立ち衣装は何となく赤穂浪士を髣髴させるのだが、よく分からない。
【写真左】田中神社境内
 最乗寺境内からおよそ7,8m程度高くなったところに祀られているが、ここからさらに北に向かって丘陵上の尾根が続く。
 中世はこの縁あたりが当時の街道であったかもしれない。

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