2016年10月10日月曜日

熊本城(熊本県熊本市中央区)

熊本城(くまもとじょう)

●所在地 熊本県熊本市中央区
●別名 銀杏城、千葉城・隈本城
●形態 平山城
●築城期 前期:応仁年間、後期:慶長12年
●築城者 千葉城(出田氏)、隈本城(鹿子木氏・菊池氏・佐々氏等)、熊本城(加藤清正)
●城主 出田氏、鹿子木氏、加藤氏、細川氏等
●廃城年 明治期
●遺構 櫓・門・塀、石垣、堀等
●指定 国特別史跡
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考資料 熊本市(城)観光ガイドブック、その他パンフ)
 2016年4月14日から16日にかけて襲った熊本地震は、過去に例をみない甚大な被害をもたらした。1年前訪れたとき、まさかこの天下の名城がこのようなことになるとは予想だにしなかった。

 地震が起きた時間帯は、夜間であったこともあり、観光客が入城していないときだったので、当城に於いては人的被害はなかったようだが、これが昼間だったら計り知れない数の死傷者が出ただろう。
【写真左】熊本城の大天守閣と小天守閣
 大天守閣は石垣の上から高さ29.5m、外観3層、内部6階地下1階。鯱の大きさ約1.2m。
 小天守閣は、石垣の上から高さ19m、外観2層、内部4階地下1階、鯱の大きさ約0.9m。



 さて、熊本城は当ブログのタイトルからいえば、近世城郭であり、山城ではないが、前稿隈本城の隣に位置し、先ごろは復元された「本丸御殿」の竣工もあって、一度は訪れたいと思っていた城郭である。
【写真左】坪井川周辺地図
 左方向が北を示した地図で、外側を白川が流れ、熊本城の東麓直下を流れているのが、濠の役目をした坪井川である。
【写真左】熊本城復元整備予想図
 現地に設置されていたものだが、この度の大地震によって、復元・整備の大幅な見直しを余儀なくされたことになる。




加藤家と細川家

 当城は余りにも有名なので、いまさら紹介するまでもないが、城主は冒頭でも紹介しているように、築城者であった加藤家(清正)と、細川家の二家である。

 清正が入ったときは当時隈本城といわれたころで、天正16年(1588)のことである。このときの禄高は肥後北半国の19万5千石で、その後関ヶ原の合戦(慶長5年:1600)後、同国南半国を加増され、併せて52万石(後に54万石)となった。
【写真左】法華坂周辺
 二の丸の西側に当たる個所で、手前の道は「法華坂」と呼ばれている。

 この坂を登っていく(右側)と、三宝院という寺院があったが、清正が父弾正清忠の菩提を弔うため大阪にあった本妙寺をこの三宝院跡に建てた。
 本妙寺は法華宗(日蓮宗)であったため、以後この坂を法華坂と呼ぶようになった。慶長19年(1614)当院は中尾山に移された。


 現在の熊本城の築城に着手したのは、このあとで、翌慶長6年といわれている。それから足かけ7年経った慶長12年(1607)、新城が落成竣工し、それまでの「隈本」から現在の「熊本」(城)に改称した。

 このころは、秀吉の恩に報いるため、大坂の豊臣秀頼を支援すべく、慶長16年(1611)の二条城における家康と秀頼の会見実現に意を注ぎ、自ら警護までかって出ている。二人の会見後熊本の帰途に着くが、途中で病に倒れ、同年6月24日亡くなる。清正の死因については家康による毒殺説や、ハンセン病説など様々なことがいわれているがはっきりしない。
【写真左】熊本城遠望
 南側の隈本城(古城)側から坪井川沿いに沿って歩いていくと、遠くに天守が見える。





 清正が亡くなったあと、跡を継いだのは三男忠広である。しかし、寛永9年(1632)理由ははっきりしないが、他の外様大名がそうであったように、加藤家は改易となり、出羽(山形)庄内へ配流された。

 加藤家の跡を継いで熊本城の城主となったのが細川忠利である。細川ガラシャ(明智珠)と忠興との間にできた三男で、肥後に入封する前は豊前小倉藩主であった。熊本城の新城主となってから4年後の寛永14年(1637)天草島原の乱が勃発する。
【写真左】長塀と平御櫓
 坪井川に沿って南から北に進むと、厩橋に差し掛かる。その位置から振り返ってみたもの。
 長塀は馬具櫓から手前の平御櫓まで伸びるものだが、文字通り長い石垣が続く塀である。


島原の乱と宮本武蔵

 この乱は一般的に旧有馬氏を中心としたキリシタン領民への弾圧という面が強調されているが、これとは別に、乱に加わったものの中には、秀吉時代の小西行長、佐々成政、そして改易された加藤家の元家臣であった浪人も多数含まれていた。
 このため、それぞれの主君に仕えていた浪人たちにとって、この乱に加わった動機は各々違うものがあったのだろう。
【写真左】武蔵の井戸跡
 熊本城の東側にあった千葉城の位置にあり、現在NHK熊本放送局が建っているが、その東端部に残る。
 右側が放送局側になり、左側は崖となっているので、井戸の深さはかなり深いものだった思われる。


 ところで、この島原の乱において鎮圧する側に回った武将の一人に宮本武蔵がいる。

 武蔵については、以前誕生地であったとする美作の竹山城(岡山県美作市下町)でも少し紹介しているが、彼は中津城主であった小笠原長次(小倉城主小笠原忠真の甥)の後見として出陣し、武蔵の養子である伊織もまた小倉城主小笠原忠真の被官として従軍している。
【写真左】天守から武蔵の井戸、千葉城方面を見る。
 手前の広場が本丸で、奥にNHK熊本放送局(千葉城跡)があり、その通路側に武蔵の井戸跡がある。



 この乱は、翌年の寛永15年(1638)4月12日に終結、その2年後武蔵は熊本城主細川家の客分として招かれ、熊本城の東側にあった千葉城に屋敷が宛がわれた。

 武蔵が細川家に召し抱えられるきっかけとなったのは、おそらく慶長17年(1612)の巌流島の戦いの際、当時検分役を務めた細川藩筆頭家老で、杵築城(大分県杵築市杵築)の城代でもあった松井興長の推挙があったものと思われる。また、興長自身も島原の乱に参陣しているので、戦場で武蔵との出会いがあったものと推察される。なお、興長は後に八代城主となっている。
【写真左】武蔵の井戸から熊本城を遠望する。
 現在は周囲が植樹されているが、当時この位置から毎日武蔵は天守を見ていたのだろう。
【写真左】東十八間櫓
 武蔵の井戸跡から少し北に進むと、東十八間櫓が見える。このあとそこから少し北に進んで、不開門(あかずのもん)に向かう。



【写真左】不開門
「あかずのもん」と呼称されているところで、本丸の北東端の下に位置する。今回はここから入城する。
【写真左】天守閣方面と須戸口門方面の分岐点・その1
 不開門から奥に向かうと、この位置で天守閣に向かう道と、東南端にある須戸口門方面に向かう道の分岐点に差し掛かる。

【写真左】天守閣方面と須戸口門方面の分岐点・その2
 天守に向かって歩き出すと、途中で両側が石垣に囲まれ、さらに前にも石垣に囲まれた場所に出てくる。
 三方を石垣に囲まれ、何とも言えない高揚感を感じる。
【写真左】東三階櫓跡・本丸御殿大広間附近
 他の箇所も無作為に歩いたが、写真だけを見ているとどこの箇所なのか今となっては思い出せない箇所が多い。
 この写真は、本丸が近くなった箇所で、その入り口付近。
【写真左】大天守閣と小天守閣・その1
 最近復元された本丸御殿(大広間)も観賞したが、写真撮影は不可だったようで、記録がない。
【写真左】大天守閣と小天守閣・その2
 現在はどうかわからないが、この日の観光客は、中国人と韓国人が大半で、むしろ日本人が珍しい状況だった。
 それにしても中国人の会話はなんと賑やかなことか。音量も大きいが、全体に声のキーが高い。
【写真左】天守入口付近
 左が大天守、右が小天守。
入館(城)者が多いため、少し並んで待つことになった。
【写真左】宇土櫓
 第3の天守ともいわれている櫓で、西南戦争後にも焼け残った唯一の多層櫓。
 この櫓も一部損壊したようだ。
【写真左】西出丸の濠
 底にも亀裂ができたかもしれない。
【写真左】二の丸広場から熊本城を遠望する。
 左から宇土櫓、小天守、大天守

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