2016年11月9日水曜日

羽床城(香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下)

羽床城(はゆかじょう)

●所在地 香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下
●高さ 82m(比高21m)
●形態 平山城
●築城期 平安時代後期又は鎌倉時代初期
●築城者 羽床重高
●城主 羽床氏
●遺構 郭、土塁、空堀等
●登城日 2015年3月14日

◆解説(参考資料 『西国の戦国合戦』山本浩樹著 吉川弘文館、HP「城郭放浪記」等)
 羽床城は以前紹介した西長尾城(香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町長尾)から東北東5キロにある綾川町羽床に築かれた平山城である。
【写真左】羽床城遠望
 南側から見たもので、奥には讃岐七富士の一つで、別名「羽床富士」と呼ばれる堤山(H:202m)が控える。





現地の説明板

“羽床城址

 讃州藤家の祖である中御門中納言藤原家成の孫、資高が治承年間羽床の庄司となり、地名の羽床姓を名乗り、その子重高がここに羽床城を築城したと伝えられている。

 羽床氏の盛衰とともに変遷があったと思われるが、豊臣秀吉の島津征伐で、弥三郎資吉が先鋒を担い、天正14年12月、豊後国戸次川の合戦で討死し、羽床氏の嫡流は断絶、羽床城も廃城となった。
【写真左】登城口
 南側にあり、麓の民家に向かう道だが、途中で左に折れた道を進む。







 城は中世の典型的な平山城で、本丸、二の丸のほかいくつかの郭を区画する土塁と空濠の遺構が明確に確認できる。

 精密な調査はされていないが、周辺には古墳が群集している上、城跡からは管玉も発見されており、古墳の上に築かれた中世の城であり、古墳時代から中世にわたる貴重な史跡である。

  綾南町教育委員会”
【写真左】手作りの看板
 麓にはおそらく小学生が作製したと思われる看板が立っている。

 なかなか味のある看板だ。






羽床氏

 羽床城の城主である羽床氏については、西長尾城の稿でも少し紹介しているが、鎌倉期に起った承久の乱の際は後鳥羽天皇側に属し、敗者側となったため幕府側であった勝賀城(香川県高松市鬼無町)の香西氏に、一時奪われている。
 しかし、その後詳細は不明だが再び当城の城主となっている。以後戦国期まで羽床氏は当城の城主として続くことになる。
【写真左】羽床城跡と書かれた標柱
 外観からも分かるように、訪れたときは殆ど竹林に覆われた小丘で、どの程度遺構が確認できるのか不安だったが、登城道は伐採されていた。


元吉合戦

 ところで、土佐の長宗我部氏が讃岐に進攻する前の天正5年(1577)7月、毛利氏は冷泉元満(冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生)参照)を元吉城(比定地としては現在の善通寺市と琴平町の境にある櫛梨山とされている)に向かわせている。
【写真左】本丸・その1
 竹林に囲まれた坂道を登っていくと、開けた段が見えた。本丸跡である。






 元吉城の城主についても今のところはっきりしていないが、元は三好氏に属していた武将といわれ、その後毛利氏に与している。元満が当城の城普請などを行った直後、地元讃岐の諸将が当城を攻めたてたという。この諸将とは讃岐惣国衆といわれるもので次の面々である。
 この戦いは、直ぐに毛利方より乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)や、井上春忠らの水軍が救援に駆けつけ、毛利方の勝利に終わった。
【写真左】本丸・その2
 南側にはご覧のような高い段が見える。一瞬土壇のようなものかと思ったが、どうやらここには水道タンクのようなものが埋設してあるようだ。従って遺構ではない。



戸次川の戦い
 
 羽床城の最後の城主となった羽床弥三郎資吉は、秀吉による九州島津討伐のため、豊後の戸次川の戦いで討死している。この戦いについては、以前とりあげた長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)で紹介しているのでご覧いただきたい。
【写真左】土塁
 タンクの上からみたもので、この郭の外周部は土塁が残る。

 なお、土塁を取り巻くその外は竹林・雑木で覆われているが、下段でも紹介するように、見ごたえのある切崖となって帯郭(空堀か)に繋いでいる。


遺構

 当城については、元は古墳跡ともいわれているため、山城としての特筆すべき遺構はないが、居館形態のものとして築城されたものだろう。
 ただ、北麓を走る現在の国道377号線は、観音寺市から阿波(徳島)の鳴門までをつなぐ街道でもあったことから、中世・戦国期には極めて重要な位置を占め、要衝であったことは間違いないだろう。
 楕円形状の小丘で、長径300m×短径200mの規模。
【写真左】本丸北側
 同じくタンク側から左手(北)を見たもので、外側は一段高くなっている。
 このあと北東方向に向かう。
【写真左】虎口・その1
 本丸と二の丸をつなぐ個所で、左側に「虎口」と書かれた小さな標柱が立っている。
【写真左】虎口・その2
 虎口の中心点から見たもので、左が本丸、右が二の丸に当たる。

 現在の土塁は丸みを帯びているが、当時はもう少し角張り、高低差もあったものだろう。
【写真左】二の丸
 二の丸の中心部で、この辺りは少し窪んでいる。おそらく周囲の土塁が長年の間に崩れ、傾斜ができたためだろう。
【写真左】祠
 二の丸の一角には祠が祀られている。
【写真左】玉垣
 昭和10年7月に建立されているようだ。当時の羽床村・陶村・瀧宮村と高松市の人が奉献している。

 大林、富山、福家、河野という名が見える。
【写真左】五輪塔
 玉垣の中に2基の五輪塔が祀られている。
【写真左】石碑
 祠の脇には昭和9年の刻銘がある石碑が建っている。

 この碑文は、羽床城址及び羽床氏の内容が主に書かれているようだが、全文の解読は困難。

 ただ、羽床氏とは別に、さきほどの「大林」という名が多く書かれている。羽床氏の家老職だろうか、戸次川の戦いで随身しているようだ。従って、この祠を建立した人たちは、羽床氏の家臣の末裔ということなのだろう。

 このあと、二の丸から外側の竹やぶ下に郭が見えたので、降りてみる。
【写真左】二の丸下の段
 よほどこの場所は竹が生えやすい土壌なのか、すき間なく竹で覆われている。

 手前には「羽床城」と記された石碑がある段で、帯郭と思われる。正面は切崖となって先ほどの二の丸(祠)が上にある。
【写真左】奥の郭
 この場所からさらに奥に向かうと、二の丸を取り囲むような形で郭が配置されている。
 その奥には7,8基の仏像が祀られている。

 また、さらにその奥に進むと次第に下るようになっており、竹のすき間から北東部にある溜池が見えた。
 このあと、このまま下の段を通って登城口まで向かう。
【写真左】帯郭
 右側が本丸・二の丸側に繋がる切崖で、傾斜角はかなり険しく、70度ぐらいあるかもしれない。また比高も7m前後はあるだろう。
 左側は竹林などではっきりしないが、土塁が構築されていたのかもしれない。

 いずれにしても、凄まじいほどの竹の多さで遺構の確認が困難だが、整備されれば見ごたえのあるものとなるだろう。

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