2016年11月24日木曜日

讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)

讃岐守護所跡(さぬきしゅごしょあと)

●所在地 香川県綾歌郡宇多津町大門
●築城期 南北朝後期~室町初期
●築城者 細川頼之
●形態 城館(平城)
●備考 多聞寺・円通寺
●登城日 2016年10月30日

◆解説
 聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)、及び白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)でも少し触れているが、足利義詮死後およそ12年間にわたって義満初期の室町幕府内権力を手中に収めた管領・細川頼之の居館跡といわれている讃岐守護所跡を紹介したい。

 所在地は、聖通寺城のある宇多津町の西方青ノ山東麓部で、多くの寺院が建ち並ぶ大門地区にあったとされ、特に現在の多聞寺・円通寺をエリアとした区域に居館として築かれていたといわれている。

多聞寺


【写真左】讃岐守護所跡
 多聞寺山門前で、門の右側に下記説明板が設置されている。








多聞寺山門前に設置されている説明板より

“史跡 讃岐守護所跡

 この多聞寺の寺域一帯は、隣接する円通寺周辺とともに、室町幕府の管領細川頼之公の館跡である。
 公はこの館を守護所と定め、自ら讃岐及び土佐両国の守護としての領国経営を行うとともに、四国管領として一族を統轄し、阿波・淡路・伊予(二郡)の経営も併せて行っている。
 当時の宇多津町は、多くの寺院が建ち並び、宗教や文化の町、さらに港町・商工業の町としても急速に発展しており、公の卓越した経綸のほどが偲ばれる。
   平成4年3月2日
       細川頼之公顕彰委員会”
【写真左】多聞寺境内
 奥が本堂で、左側に下段で紹介する「槙柏の木」が見える。
【写真左】槙柏の木
 説明板より

“槙柏の木
   町指定天然記念物
   昭和53年3月31日指定

 この槙柏は幹囲4.6m、樹高18mで地上7mから、5つの支幹に分かれている。
 細川頼之公の御手植えの柏と伝えられ、一名神柏とも言い、正月には拝む人も多かったと伝えられる。
  宇多津町教育委員会”

このあと、円通寺に向かう。


円通寺


円通寺境内にある説明板より

“円通寺由緒
 当山は今より約700年前、宥弘法印が観世音菩薩の夢告げにより、青の山の東麓観音山に七間四面の本堂並びに伽藍を建立し、聖如意輪観世音菩薩を本尊としてまつられ、青松山観音院円通寺と称した。
【写真左】多聞寺から円通寺を遠望する。
 周辺の道があまりに狭いので、車を多聞寺に置いたまま、歩いて円通寺に向かう。
【写真左】円通寺山門
 円通寺は多聞寺の南西50mほどの位置に隣接している。
 因みにこの付近の道は狭い路地のような道なので、地元の人は慣れているかもしれないが、運転には大分神経を使う。



 「全讃史」には「昔は巨刹なりし」とあるが、やがて戦国の兵火に焼亡し、延宝3年中興良意法印によって細川頼之公の居館跡と目される現在地に再興され、今日に至っている。昔の本堂跡は「観音堂」の地名として今に残り、当山の飛地境内となっている。ここには、三ツ岩と呼ばれる大きな岩があり、細川頼貞(義阿(ぎあ))の墓と言われている。

 義阿は頼之公の父頼春の叔父に当たり、足利尊氏に仕え功績の高い武将であった。又本堂前方左方にある五輪塔は、南北朝時代のもので、細川家の供養塔であり、境内中央の大松は、樹齢約650年の純粋の黒松で、葉が短くその枝葉の拡がりは、東西31メートル、南北20メートルあり、細川頼之公の手植えの松と伝えられている。”
【写真左】円通寺境内
 この日当院で座禅の催しものがあったようで、入口付近の受付担当者に参加者と間違えられた。







細川頼之

 頼之は以前にも述べたように細川頼春の子として、元徳元年(1329)細川氏の本拠地であった三河国額田郡細川(現:岡崎市細川町)で生れている(生誕年には異説あり)。
 頼之が歴史の表舞台に出てくるのは、足利直義が尊氏の袂を分かち南朝に降り、尊氏の落胤・直冬がさらに別の倒幕の旗幟を挙げたいわゆる「観応の擾乱」のころである。
【写真左】円通寺由緒の説明版













 この年(正平5年・観応元年:1352)、四国阿波の小笠原頼清(白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)参照)が、同国南朝方の先鋒として兵を挙げた。この動きを知った幕府は、細川頼春に討伐を命じ、その任を嫡男頼之に指名した。頼之22,3歳の頃である。彼にとっては軍を率いた大将として初めての戦いであったと思われる。

 その後、頼之は上京し畿内など各地で南朝方と戦うが、その間、阿波国で再び南軍の動きが活発となると、すでに亡くなっていた頼春の分国(阿波)へ帰還し、父の跡を継承し、阿波を中心とした領国経営に暫く集中することになる。
【写真左】五輪塔
 現地の説明版より

“この五輪塔は南北朝時代のものであり、細川家の供養塔と思われる。
 町文化財に指定されており、香川県内に現存するものの中では最も整ったものの一つと言われている。”



 正平9年・文和3年(1354)5月、長門・石見に潜伏していた足利直冬(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)が南朝に帰服、それに併せて反尊氏派となっていた斯波高経、桃井直常、山名時氏、大内弘世らがこれを後援し、直冬派は大軍を率いて上洛を開始した。そして、翌年の1月16日、畿内にあった南朝軍と合体し、京都から尊氏を放逐した。

 同年3月12日、逃れた尊氏軍は、体勢を立て直し再び京都奪還を図り、南朝・直冬軍を打ち破り、翌日義詮は入京した。この時頼之及び従兄の清氏も幕府軍の一員として、主に摂津神南合戦で奮闘した。

 この後、頼之は西国へ奔った直冬軍を追討すべく、備後守護に補任されるが、それまでの戦いで生じた土地の闕所処分について、尊氏からその裁量権を認めてもらえず、これを不満として守護職就任を固持し、阿波国へ帰還しようとしている。それを見た従兄の清氏が頼之を説得したことにより、京に留まったという。
【写真左】円通寺の参道入り口
 この地区は斜面に長屋のように軒が並び、傾斜があるため段差を持たせた石積みの家が多い。

 いまでもこの付近には寺が多いが、散策しながらその通りの石垣を見ていると、頼之時代の石がそのまま再使用されていたのではないかとも思えてくる。




 その後、頼之は阿波に守護代として被官であった新開氏を置き、南軍対策の足固めとして備前・備中・備後・安芸・伊予など西国の主だった要所を統括、のちに「中国大将」とも呼ばれているので、このころは尊氏より前述した闕所処分権も含めた諸権限も認知されていたものと思われる。

 頼之が四国・讃岐に再び重点を置いたのは、従兄の清氏との戦い(白峰合戦)後、中国地方に一定の安定が図られた正平20年(1365)ごろからで、この頃既に中国管領(中国大将)を解かれ、讃岐・土佐の守護職を兼務した四国管領に任じられる。
 その2年後の正平22年(1367)の11月には足利義詮は政務を義満に譲り、頼之を義満の執事に任じているので、本稿の讃岐守護所が設置されたのも四国管領に任じられたころだろう。

 ただ、これまで紹介したように、頼之の置かれた環境は文字通り常在戦場であり、一か所に長く留まることがなかったため、当該守護所を居館とした期間は極めて短いものだったと思われる。

 なお、頼之が後に失脚することになる「康暦の政変」については、機会があれば取り上げたいと思う。

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