2014年6月15日日曜日

聖山城(兵庫県宍粟市山崎町須賀沢)

聖山城(ひじりやまじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市山崎町須賀沢(出石)
●別名 堅木城、篳篥(ひちりき)山城
●高さ 標高168m(比高74m)
●築城期 明応2年(1493)頃
●築城者 下村則真
●城主 豊臣秀吉か
●遺構 郭等
●登城日 2014年5月5日

解説(参考資料 「パンフレット 官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」等)
 聖山城は前稿篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)でも述べたように、揖保川を挟んで対岸の高取山の尾根筋に築かれた城砦である。
【写真左】聖山城遠望
 西麓を流れる揖保川左岸から見たもの。










現地の説明板より

“聖山城址
    【所在地】宍粟市山崎町須賀沢(出石(いだいし))

 出石(いだいし)地区を流れる揖保川左岸の標高168mの尾根上に築かれた山城で、明応2年(1493)宇野氏の重臣下村氏によって築城されたと伝わる。
【写真左】聖山城配置図
 当城をはじめ、篠ノ丸城・長水城・塩田城などが図示されている。






 城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西12m、南北約9mの主郭を置き、北側斜面に帯郭、西側斜面に腰郭を配して防備を固めている。

 また、主郭東側に二の郭・三の郭を置き、東端に高さ2.6mの土塁を築いて敵の侵入を防いでいる。主郭からは宇野氏の本拠篠ノ丸城・長水城への眺望が開けており、実際には見張台的な城だったと考えられる。
【写真左】篳篥神社本殿に掲げられている篳篥大明神
 麓には篳篥神社が祀られている。なお、聖山城主郭下には愛宕神社が祀られているが、両社との関係は分からない。



 江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』によれば、天正8年(1580)4月、羽柴秀吉は対岸の篠ノ丸城・長水城に篭城する宇野氏を攻めるため、背後の高取山を越えて、先ずこの城を落とし本陣を置いたという。また同書には、このとき黒田官兵衛が「篝火(かがりび)に、宇野(鵜の)首見せる、広瀬かな」との発句を詠んだことが記されている。

 しかし、本来この句は武中半兵衛の子重門が著した『豊鑑(とよかがみ)』に連歌師の里村紹巴(じょうは)の発句としてあるもので、官兵衛がこの合戦に参加していたかどうかは不明である。

   参考文献
     兵庫県教育委員会編集
     『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか”
【写真左】聖山城縄張図
 登城口はこの図でいえば、左下の方にあり、そこから先ず東方に進んで、その後3,4回九十九折の道を進むと、先端部の腰曲輪・愛宕神社に辿りつく。
【写真左】登城口
 この階段は聖山城・愛宕神社及び、さらに上にむかった高取山の登山道を兼ねている。

 雨が降って足元は滑りやすかったが、慎重に歩を進めた。
【写真左】南側から上を見る。
 南側斜面は近年伐採されたようで、上方の様子がよく分かる。
【写真左】愛宕神社
 最初に見えてくるのがこの愛宕神社で、主郭は右側の斜面を登ったところにある。

 当社の縁起などは分からないが、この場所も聖山城の郭(腰郭)の一部だったものと思われる。
【写真左】篠ノ丸城遠望
 前稿でも紹介したように、揖保川を挟んで正対するように西方に篠ノ丸城が見える。
【写真左】長水城遠望
 少し北側に目を転ずると、宇野氏の居城・長水城が霞んで見える。
【写真左】愛宕神社から主郭に向かう。
 神社西側には階段があり、そこを登っていくと聖山城主郭に繋がる。
【写真左】「官兵衛飛躍の地 聖山城」と書かれた幟が見える。
 主郭西方の小規模な腰郭付近に幟が設置されている。
【写真左】主郭付近
 当城は山崎町埋蔵文化財包蔵地となっているが、この付近には古代遺跡として、「須賀沢3号墳」「須賀沢4号墳」という古墳もある。

 ただ、これらについては場所は確定されていない。



【写真左】主郭から愛宕神社・揖保川を見る。
 愛宕神社から揖保川にかけての斜面は急峻となっており、比高の低さの割に要害性に優れている。
【写真左】主郭頂部
 主郭の付近が最高所であるが、5m四方と規模は小さい。

 このあと、東側に向かう。
【写真左】帯郭
 主郭から一旦次第に降る郭段があり、その左側(北側)には帯郭が付随している。
【写真左】高取山方面に伸びる尾根
 聖山城の縄張図に描かれている規模を城域とすれば、確かに小規模はものだが、実際には更に東に伸びる高取山方面までの尾根部分も何らかの用途をもった遺構だった可能性もある。

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