2012年2月22日水曜日

飯山城(鳥取県米子市久米町)

飯山城(いいやまじょう)

●所在地 鳥取県米子市久米町
●築城期 室町時代又は戦国時代
●高さ 52m
●築城者 山名氏か
●城主 野一色采女
●遺構 郭
●別名 采女丸
●備考 米子城(湊山城)の三の丸
●登城日 2010年2月5日

◆解説
 前稿「米子城」で触れたように、米子城の三の丸として本丸から南東部にあった飯山に築かれた平山城である。
【写真左】飯山城遠望
 南麓にある中村氏の菩提寺「感応寺」から見たもの。









現地の説明板より

“柳生奮戦の地と飯山城跡


 約500年前に築かれた伯耆・出雲国境の重要な砦で、中世には山名・尼子・毛利など戦国の攻防戦が繰り返された。
 山頂には、南北約85m、東西約35mの曲輪が古い二段の石垣で築き上げられている。湊山と山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東の砦となった。
【写真左】飯山城に登る階段
 米子本城(本丸側)と飯山城の間には、現在国道9号線が走っており、同線の南側に鋭角に枝線として道が設置されている。
 西側の松江市方面からは車で入ることは困難で、一旦米子の町へ入り、Uターンして東から向かうと入りやすい。


 簡易舗装の片道車線を登っていくと、写真の階段下に車3,4台程度駐車できるスペースがある。ここから歩いてこの階段を上っていく。
 直線の階段で、段数はかなりあるため、何度か休憩しながら登る。



 慶長8年(1603)11月、家老横田内膳村詮が、主君中村一忠に暗殺されると、横田方が反旗を翻し、飯山に立て籠もって激しい戦いが起こった。
 これが、世にいう「米子城騒動」「中村騒動」である。このとき、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて、中村方を多数討ち取ったという武勇伝は有名である。
№19 米子市”
【写真左】登城途中、北方に米子本城を見る。
 飯山城側の階段周囲も、米子城側の石垣麓も樹木が生い茂っているため、春から夏にかけてはおそらく視界は遮られるだろう。


 この日は2月だったこともあり、何とか石垣群も確認できた。


横田内膳村詮と米子城騒動(中村騒動)

前稿でも述べたように、初代米子城主として入封した一忠は、わずか12歳であった。一忠の父・一氏は、豊臣政権時代の三中老の一人(他の二人は、後に隣国出雲に入封する堀尾吉晴、及び生駒親正)で、関ヶ原の合戦が始まる直前に亡くなっている。
【写真左】英霊塔
 本丸跡付近には現在英霊塔が建立されている。おそらく第2次世界大戦か、日清日露戦争の時のものだろう。



 病床にあった一氏が幼い嫡男に後見人として宛てたのが、横田内膳村詮である。

横田内膳村詮の出自ついては、はっきりしない点が多いが、阿波三好氏の一族といわれ、以前にも紹介した阿波国の岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)の城主・三好康長の甥といわれている。
【写真左】阿波(徳島)の岩倉城



 三好氏が滅んだあと、経緯はわからないが、当時岸和田城主にあった一氏が彼を召し抱えたとされている。
【写真左】郭
 現地は公園化されているため、遺構としては良好ではないが、郭跡らしき箇所は散見できる。






 一氏が彼に全幅の信頼を置いていたことは、そのころから彼の手腕に秀でたものがあり、一氏が実妹を嫁がせたこと、また関ヶ原の戦いが直前に迫った際、東軍方徳川家康につくよう内膳が勧めたことでも分かる。

 また、家康自身も横田内膳の能力を高く評価しており、米子城へ入封する際、一忠とは別に、彼には6000石を与えている。
【写真左】岩塊
 英霊塔の脇に残っているもので、周囲は削平されている。


 なお、討死した内膳の嫡子や柳生宗章などの墓などはこの場所にはないようだ。



 仮住まいを伯耆尾高城としながら、湊山に築城工事を開始し、五重の天守を竣工させ、さらには中村氏の菩提寺・感応寺も建立、湊山城下には近世城郭の城下町として、米子の町づくりを着々と進めていった。

 米子城がほぼ出来上がったのは慶長7年ごろと思われるが、翌8年(1603)11月14日、卓越した手腕を発揮した執政家老・横田内膳に対し、それを妬んでいた一忠近臣の安井清一郎・天野宗杷などが陰謀を企て、内膳を暗殺した。
【写真左】感応寺














 現地の説明板より


“米子市指定史跡
 米子城初代城主の菩提寺感応寺
 
 米子城初代城主中村一忠のとき、旧城下の静岡から菩提寺として移された。一忠は、慶長14年(1609)21歳で病死し、世継ぎがなく所領没収になったが、一忠の遺体は、殉死した小姓の垂井勘解由、服部若狭と共に寺の後山に葬られた。
 その後、三人の木像がつくられ、墓地の御影堂に安置されたが、今は本堂に移し、祀られている。墓地には「故伯耆守中村一忠公の碑」が建てられている。
 山門のすぐ前には、第21代横綱若島の碑や芭蕉100年忌念句碑があり、すぐ後ろには米子組の医師西村大六の碑もある。
 中村一忠墓地と三人の木像は、昭和52年4月に市指定史跡となった。
  №20 米子市”


 内膳の嫡男・主馬助はこれに激怒し、この飯山城に拠って反旗を翻した。飯山城に拠った武将の中には、内膳の客分として柳生宗矩の兄・五郎右衛門宗章がいた。宗章自身は直接中村氏に対する恨みはないものの、内膳への恩義を重んじ、嫡男主馬助に与同したわけである。

 結局、城主一忠は、一族で鎮圧することができないと判断し、隣国出雲の領主・堀尾吉晴に加勢を頼んだ。この結果、横田主馬助はじめ、柳生宗章らは悲運の討死を遂げた。
【写真左】中村一忠の御影堂
 高さは3m近くあるだろう。見事な形の墓である。









 この事件は、後に米子騒動(中村騒動)といわれたが、徳川幕府の知るところとなり、首謀者二人をはじめ、側近の道上長衛門・同長兵衛もその責任を負わされ、江戸において切腹することとなった。

 その後、一忠は慶長14年に日野川へ狩りに出かけた際、「梅」を食べたことが災いして、急逝した。この死については、不可解な点があったとされ、毒殺説もあるという。
【写真左】殉死者の墓と思われる。
 若い城主・一忠の小姓(垂井・服部)両名はおそらく、さらに一忠よりも若く、元服前後の年だったのだろう。
 美徳とはいえ、殉死とは洋の東西問わず、はかなくも哀れである。合掌


 伯耆国に入った中村氏や、隣国出雲の堀尾氏などは基本的に「外様大名」である。関ヶ原の合戦後、新たに西国に領地を与えられた大名のほとんどが外様である。

 同合戦が終わったものの、依然として大阪城には豊臣秀頼が在城していたことから、徳川幕府にとって、これら外様大名が再び豊臣に帰順することも想定しなければならない。

 このため、東軍方についた旧豊臣恩顧の大名は「外様」扱いとし、領地はあたえるものの、基本的に幕府にとって、勢力を削ぎ落とし、様々な理由をつけて、転封や改易の処置をとっていった。

 この中村氏の米子城騒動などは、もっとも幕府にとって改易の理由となるものである。一忠の急逝がなかったとしても、この一連のお家騒動後、おそらく改易されていたかもしれない。

妙興寺

 さて、横田内膳村詮の墓については、同市内の妙興寺という寺院に祀られている。
【写真左】日蓮宗普平山 妙興寺本堂
 米子市の寺町にあり、開山は、永禄7年(1564)瑞応院日逞上人が創建した。
【写真左】横田内膳村詮公墓廟
 本堂の右側に建立されているが、最近のもののようだ。

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