2011年4月19日火曜日

美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1

美作・高田城(みまさか・たかだじょう)その1

●所在地 岡山県真庭市勝山
●別名 勝山城・大津夫良山城
●築城期 延文年間~嘉慶年間(1360~1388)ごろ
●築城者 三浦貞宗
●標高/比高 322m/140m
●遺構 郭・石垣・井戸・堀切
●指定 真庭市指定史跡
●登城日 2007年11月9日及び、2011年4月23日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 岡山県の北西部旧勝山町にあった山城で、現在同町は合併して真庭市となり、旧役場が同市役所となっている。
【写真左】高田城遠望
 西麓を流れる旭川対岸からみたもので、左側が本丸のあった城山、右側の山が出丸(太鼓山)。
 写真にある町並みは、「武家屋敷」跡が残り、市役所の脇には三の丸遺跡がある。



 高田城(別名「勝山城」)は、この市役所のある建物の北東部に屹立した如意山に築かれた。この城砦を北から西にかけて取り囲むように岡山県三大河川の一つ旭川が流れている。
 築城者は、鎌倉時代後期に三浦氏が築いたとされる。

  高田城の現地には詳細な当城の歴史を紹介した説明板が2,3種類あり、概略が理解できる。以下それらの内容を下段に転記しておく。
【写真左】高田城案内図
 現地二の丸跡付近に設置されているもので、左方向が北を示す。
 図の下を流れるのが旭川。この川は典型的な濠の役目を果たしていた。

 本丸のある城山と南の出丸の間の谷には道路が走り、橋がかけられているので、両城間の往来が楽にできる。


「城山・太鼓山 総合案内板」より

高田城(如意山・大総山)の縄張り
 三浦氏が高田庄の地頭としてこの地へ来た時期は明らかではない。延元元年(1336)、足利尊氏は、後醍醐天皇らと対立し、九州から京へ攻めのぼるとき、美作の国高田庄三浦介に宛てて、教書を送っていることからみれば、鎌倉時代にさかのぼると思われる。美作西部の拠点として高田城が築かれた。
【写真左】二の丸と出丸
 二の丸は現在野球場となっており、この位置まで車で来ることができる。
 この位置からレフト方向を見ると、南方に出丸(太鼓丸)を遠望できる。


 標高320mの山頂に、主郭(本丸)、周りの帯曲輪を巡らし、北東の尾根に2段の郭、さらに下って2条の深い堀切と郭が交互に配されている。

 北東の緩斜面に3,4段の郭を、南にも3,4段の郭を築いている。南にある出丸(出城)への鞍部にも郭(二の丸)がある。東の谷を隔てた細長い南北の尾根の南端(甲岩(かぶといわ))や、東の山塊に繋がる鞍部にも堀切がある。

 北側は急な斜面で旭川が外堀の役目を果たしていた。西側も急な斜面であるが、数条の竪堀が掘られている。”
【写真左】馬洗場
 二の丸から東谷を進んでいくと、すぐに見える場所で、かつてはこの谷付近には池もあり、また井戸もあったといわれている。



 さらに、「高田城の攻防」として主だった略歴が記されている。

“◇高田城の攻防◇
  • 正平16年(1361)三浦貞宗以前、美作守護赤松貞職に属していた頃から山名時氏が高田城を攻撃。
  • 文亀元年(1501)8代城主貞連は、見明戸(湯原)・塩湯郷(美作)の代官職を兼ね、足利義尚に従って近江へ出陣した。
  • 9代貞国は、真庭郡の全城を支配。
  • 永正17年(1517※⇒1520)~尼子経久・赤松氏・浦上村宗ら美作へ侵入。
  • 享禄5年(1532)尼子晴久に攻められて落城し、貞国が戦死。
  • 天文元年(1532:享禄5年)ごろ、貞久が10代城主となる。
  • 天文9年(1540)、尼子国久が5千人の軍勢で攻撃、笹向城とともに落城。
  • 天文12年(1543)、尼子氏の武将宇山久信に攻められ、呰部で牧官兵衛が討死。
  • 天文13年(1544)、再び宇山氏に攻められるが、10代貞久が死守。
  • 天文17年(1548)、貞久が病死し、喪に乗じて宇山氏が新庄、美甘の諸城を落とし、陣山に陣を張って攻撃し、落城する。貞勝は岩屋城(久米町)に逃れる。
  • 永禄2年(1559)、家臣の舟津・牧・金田らが高田城を復興し、貞勝が11代の城主となる。
  • 永禄8年(1565)、毛利の属将三村家親に攻められて落城し、貞勝が戦死。
  • 永禄9年(1566)、貞盛が12代城主となり、高田城復興する。貞勝の正室「お福」が宇喜多直家に嫁ぐ。
  • 永禄12年(1569)、毛利氏が攻撃し、貞盛が自害、貞広は備中に逃れる。毛利の部将が高田城を守る。
  • 元亀元年(1570)、貞広は尼子氏の部将山中鹿助の援助で、毛利軍を破って高田城へ入る。
  • 天正4年(1576)3月、毛利・宇喜多軍が、高田城を攻撃し、浦上宗景の援助むなしく落城し、貞広は備中に逃れて死す。三浦氏の滅亡。
  • 毛利氏の領有することになり、部将楢崎元兼が高田城主となる。
  • 天正11年(1583)ごろ、宇喜多秀家が美作を領有することになる。”
【写真左】登城口付近
 高田城本丸へ向かう道は西麓側及び北麓側などがあるが、写真にある東谷からのルートが最も体力的には楽のようだ。
 この写真の左側に本丸がある。



尼子氏らの美作侵入

初期の侵入 

 出雲国の雄・尼子経久による南方侵略は、天文元年(1532)ごろから本格的に始まるが、美作・高田城へはそれ以前の永正年間にも押し寄せてきていることが分かる。ところで、当地の説明板の下線を引いた個所で、永正17年(1517)とあるが、永正17年は1520年となるので、誤記である。
【写真左】堀切と竪堀
 北東部に伸びる「椎の木古径」という歩道の途中に残るもので、この先にも2カ所の堀切があったようだが、その先を歩くと舗装道路が出てきたので、無くなっているかもしれない。



 この年、尼子経久及び赤松氏・浦上氏がそれぞれ美作に侵入、と記されている。

 尼子経久によるこのときの美作侵入の規模がどの程度か不明だが、当時経久については、京における細川両家の乱に関わり、この年(永正17年)2月22日、細川高国より京極高清の援助を求められている(片岡文書)。
 ただ、その催促によって、経久が実際に京に上ったかどうかは不明である。
【写真左】東側の郭より本丸を見る。
 本丸の東には3段の腰郭があり、中段の郭は北方に伸び、現在休憩小屋が建っている。





 結局、細川高国は摂津で敗れ、一旦近江坂本へ逃れ、改めて六角定頼・京極高清らの支援を得て、5月、京に入って細川澄元・三好之長を破り、翌永正18年(大永元年)12月、足利義晴を第12代将軍として擁立していくことになる。

 仮に、経久が美作に侵入したとしても、極めて期間の短いものだったと思われる。というのも、明くる大永元年(1521)8月には、山口の大内義興と石見大麻山(浜田市)で戦いを始めている(その後、将軍になったばかりの足利義晴によって、この戦いは一旦は収まった)。
【写真左】本丸跡その1
 本丸は変形の台形をなし、長径50m、短径30mの規模を誇る。また北側に石垣の一部が残るが、はっきりとはしていない。




中期・後期の侵入

 天文元年・享禄5年(1532)7月、今度は経久の孫・晴久も出陣し、当城を攻め立て、城主三浦貞国が討死している。そのあと高田城主には嫡男・貞久が継いだ。

 この行軍で経久・晴久父子が攻めた美作の城砦としては、高田城の外に、下記のものがある。
  • 麓城     城主・三浦忠近:自刃(所在地:美甘村美甘)
  • 細尾城    城主・菅家一党(所在地:奈義町宮内)
  • 神楽尾城  城主・山名右京太夫氏兼:敗走(所在地:津山市総社)
  • 稲荷山城  城主・不明(所在地:美咲町原田)
  • 美作・医王山城(岡山県津山市吉見)
【写真左】本丸跡その2
 南側から北の方向を見たもの。なお、本丸の南東部には、虎口らしき痕跡が認められたが、大分崩落しているため、はっきりとはしない。




 天文9年(1540)になると、今度は尼子経久の二男で、晴久の叔父に当たる新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の党領・尼子国久が高田城に攻め入った。

 ちなみに、国久は、孫四郎を名乗っていたが、前記した細川高国から偏諱を受け、「国」の文字を貰って、「国久」と名乗った。のちに国久は、甥の晴久によって誅殺されることになる。

 この合戦では、高田城を落とし、さらに旭川を10キロ下った笹向城(岡山県真庭市三崎)も落としたという。
 なお、この年の高田城攻めは、国久らのみで、晴久らは専ら大内義隆や毛利元就など石見・安芸での戦いに明け暮れている。
【写真左】本丸跡から北方に星山牧場を見る。
 星山牧場は、高田城から約6キロ北に向かった星山(H1,030m)の西麓にあるが、高田城の標高よりは大分高い。




尼子重鎮・宇山久信の攻略

 高田城がこうしたたび重なる尼子氏の攻撃によって、度々落城するも、その都度当城を奪還しているようで、天文12年(1543)以降になると、今度は尼子の重鎮・宇山飛騨守久信がしばらく当地において高田城地域を攻め始める。

 宇山飛騨守久信は、以前投稿した宇山城(うやまじょう)跡(島根県雲南市木次町寺領宇山)の城主で、宇多源氏佐々木氏の一族といわれ、経久時代には尼子氏の筆頭家老として活躍する。ただ、晩年は台頭してきた山中鹿助ら若い世代と意見が合わなくなり、尼子義久の代になって、心ない讒言によって非業の最期を遂げることになる。

 宇山久信の高田城を含めた美作攻めは、天文12年(1543)から天文17(1548)の約5年間続いた。
 この期間を含め美作の国衆の中には尼子氏に属するものが多くなっていく。下記史料はその当時の一例だが、田口某はおそらく当国(美作)の国人だろう。

“天文13年(1544)12月8日付
 尼子晴久、田口志右衛門の美作国北高田荘を安堵する(「美作古簡集」)。”
【写真左】本丸跡から下の郭休憩小屋を見る。
 下の郭は東から北にかけて帯郭形式の配置となっている。
 西側斜面は、ほとんど天然の切崖状態のため、歩道以外は、新たな郭段は設置されていない。



 尼子氏が高田城を含めた美作や、備前・備中・備後、そして本拠である山陰の出雲や、伯耆・因幡を支配下に置いたいわゆる「七カ国の守護」に補せられたのは、天文21年(1552)である。

 もっともこのころの室町幕府の将軍としての権力はかなり衰退したもので、補任の効力もどれほど実効性があったものか疑問だが、当時としては尼子氏が中国地方の最大の実力者であったことは間違いない。
【写真左】本丸から東方の草加部地域を見る。
 高田城本丸からはあまり眺望は期待できないが、下の郭付近から少し東方を望むことができる。



 その後の動きについては、高田城の沿革にもあるように、尼子氏の攻略時代から東南の浦上氏が、また西方の備中方面からは毛利氏が、また備前南部からは浦上氏の家臣であった宇喜多直家が台頭し、高田城をめぐって激しい戦いが続いた。

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