下津井城(しもついじょう)
●所在地 岡山県倉敷市下津井
●築城期 文禄年間(1592~96)
●築城者 宇喜多秀家
●城主 岡石見、池田長政、池田由之、荒尾但馬、池田由成
●形態 山城
●遺構 郭・石垣・天守台・枡形・井戸等
●標高/比高 88m/88m
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2011年4月13日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」「城格放浪記」等)
下津井城は、岡山県の児島半島南端部にある下津井港を見下ろす位置に築城されている。
当然、その役目は瀬戸内海航路を監視する役目を担うことが最大の目的で、江戸幕府初期には西国大名に備える内海航路の戦略拠点として造られた。
【写真左】下津井城の満開の桜
登城したこの日(2011年4月13日)、まったく花見の目的はなかったが、城域内に植えられた桜の花が満開だった。
この場所は、西端部の「西出丸」にあったもの。
築城期は、宇喜多秀家が文禄年間に既存の小城を改築し、現在のような近世的城郭構造となったのは下記説明板にもあるように、池田長政の頃であろうとされている。
また、今月紹介した「常山城」(4月11日投稿)でも紹介したように、常山城が解体された際、廃材の一部がこの城の修理にも利用されている。
【写真上】下津井城の遺構図
全体に文字が小さいため読みづらいが、概ね形状は理解できる。
【写真左】下津井城遠望
北側の駐車場からみたもの。左側の高い位置が本丸跡と思われる。
駐車場も整備され、ここから西側の西出丸と二の丸の間に向かう歩道が整備され、数分で着く。
現地の説明板より
“下津井城跡
この城は、慶長のはじめ宇喜多秀家によって築かれたが、小早川の家臣岡石見が居城、次いで慶長8年(1603)の池田忠継入国と共に、老臣池田河内守長政(禄高32,000石)の守るところとなり、城郭に一大整備がなされ、城は慶長11年に現在の遺構にみるような本格的な形態を整えるに至る。
後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て、一国一城の制令のため、寛永16年(1639)廃城となる。”
【写真左】土塁跡
駐車場から二の丸まで向かう歩道途中に見えたもので、部分的に整備されている。
下津井城は瀬戸内方面を東西にわたって俯瞰できるようにするため、東西650mの長さをもち、南北の幅は最大でも150m程度しかない構造となっている。
大手は港側である南にとり、西から「西出丸」「二の丸」「本丸(天守台)」「三の丸」と続き、ここで一旦堀切を南北に切り、「東出丸」さらに100m以上東方に「独立した東出丸」を設けている。
【写真左】馬場跡
西出丸(西の丸)の北側から西にかけて造られている。
くの字形のもので、長径100m前後。
【写真左】西の丸
ほぼ正方形の形で、一辺が50m程度ある。また北から西にかけては土塁跡がある。
西の丸から東方へ向かって二の丸を抜けると、本丸跡に出る。
二の丸から本丸までの高低差はあまりない。
大きさは、60m×54mのいびつな四角形をなしている。
なお、二の丸は本丸を南側下段で支えるように東西に約100m程度長く伸びている。
【写真左】天守台跡
本丸の北側には1.5m程度高くなった天守台が設けられている。
大きさは13m×12m程度。
【写真左】「本丸から中の丸まで250m」とかかれた位置
本丸の南東部に東方の「中の丸」と書かれた道があるが、ここから少し下り坂になる。
【写真左】二の丸跡
前述したように東西に伸びる二の丸。左に見える建物は展望台。
【写真左】南方に瀬戸内海、讃岐富士を見る
手前に見える島は、坂出市の櫃石島で、左側の橋はせとうち大橋。また奥に見える山は、四国の讃岐富士。
【写真左】三の丸
本丸を中心に、西に西の丸を置き、東には三の丸を置くことによって、東西をバランス良く支え、この後東に一旦大きな堀切で区画している。
三の丸は西の丸に比べるとやや規模が小さい。
【写真左】堀切
三の丸の東側に設置されたもので、現在は南側から登っていくる道と兼ねているようだ。
写真右が本丸側、左に向かうと次に「中の丸」がある。
【写真左】中の丸その1
東の出丸とも言われている個所で、幅は狭いものの、長さは200mと長大だ。
【写真左】中の丸その2
途中にこうした土塁のようなものが残っている。
【写真左】中の丸その3
中の丸の東端部で、現在の瀬戸内大橋が最もよく見える地点である。当時は東方の播磨灘方面を監視する位置として重要だったと思われる。
【写真左】瀬戸内大橋を見る
この写真には写っていないが、左側には「鷲羽山」が見える。
●所在地 岡山県倉敷市下津井
●築城期 文禄年間(1592~96)
●築城者 宇喜多秀家
●城主 岡石見、池田長政、池田由之、荒尾但馬、池田由成
●形態 山城
●遺構 郭・石垣・天守台・枡形・井戸等
●標高/比高 88m/88m
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2011年4月13日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」「城格放浪記」等)
下津井城は、岡山県の児島半島南端部にある下津井港を見下ろす位置に築城されている。
当然、その役目は瀬戸内海航路を監視する役目を担うことが最大の目的で、江戸幕府初期には西国大名に備える内海航路の戦略拠点として造られた。
【写真左】下津井城の満開の桜
登城したこの日(2011年4月13日)、まったく花見の目的はなかったが、城域内に植えられた桜の花が満開だった。
この場所は、西端部の「西出丸」にあったもの。
築城期は、宇喜多秀家が文禄年間に既存の小城を改築し、現在のような近世的城郭構造となったのは下記説明板にもあるように、池田長政の頃であろうとされている。
また、今月紹介した「常山城」(4月11日投稿)でも紹介したように、常山城が解体された際、廃材の一部がこの城の修理にも利用されている。
【写真上】下津井城の遺構図
全体に文字が小さいため読みづらいが、概ね形状は理解できる。
【写真左】下津井城遠望
北側の駐車場からみたもの。左側の高い位置が本丸跡と思われる。
駐車場も整備され、ここから西側の西出丸と二の丸の間に向かう歩道が整備され、数分で着く。
現地の説明板より
“下津井城跡
この城は、慶長のはじめ宇喜多秀家によって築かれたが、小早川の家臣岡石見が居城、次いで慶長8年(1603)の池田忠継入国と共に、老臣池田河内守長政(禄高32,000石)の守るところとなり、城郭に一大整備がなされ、城は慶長11年に現在の遺構にみるような本格的な形態を整えるに至る。
後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て、一国一城の制令のため、寛永16年(1639)廃城となる。”
【写真左】土塁跡
駐車場から二の丸まで向かう歩道途中に見えたもので、部分的に整備されている。
下津井城は瀬戸内方面を東西にわたって俯瞰できるようにするため、東西650mの長さをもち、南北の幅は最大でも150m程度しかない構造となっている。
大手は港側である南にとり、西から「西出丸」「二の丸」「本丸(天守台)」「三の丸」と続き、ここで一旦堀切を南北に切り、「東出丸」さらに100m以上東方に「独立した東出丸」を設けている。
【写真左】馬場跡
西出丸(西の丸)の北側から西にかけて造られている。
くの字形のもので、長径100m前後。
【写真左】西の丸
ほぼ正方形の形で、一辺が50m程度ある。また北から西にかけては土塁跡がある。
左側に見える島は、六口島
【写真左】西の丸から南麓に「下津井古城」を見る。
現在祇園神社がまつられている場所で、「下津井古城」は、おそらく当時は孤島の海城だったと思われる。
南北朝期の建武3年(1336)、5月15日、九州で陣を立て直した足利尊氏は、海路途上中、児島に立ち寄り、下津井の「吹上」において、加地筑前守顕信に迎えられた。
「吹上」という地区はこの下津井城の東方200m付近で、軍船を停泊させたのは、この「下津井古城」だったと思われる。
なお、当城についてはサイト「城格放浪記」さんが紹介しているので、御覧頂きたい。
【写真左】本丸跡南北朝期の建武3年(1336)、5月15日、九州で陣を立て直した足利尊氏は、海路途上中、児島に立ち寄り、下津井の「吹上」において、加地筑前守顕信に迎えられた。
「吹上」という地区はこの下津井城の東方200m付近で、軍船を停泊させたのは、この「下津井古城」だったと思われる。
なお、当城についてはサイト「城格放浪記」さんが紹介しているので、御覧頂きたい。
西の丸から東方へ向かって二の丸を抜けると、本丸跡に出る。
二の丸から本丸までの高低差はあまりない。
大きさは、60m×54mのいびつな四角形をなしている。
なお、二の丸は本丸を南側下段で支えるように東西に約100m程度長く伸びている。
【写真左】天守台跡
本丸の北側には1.5m程度高くなった天守台が設けられている。
大きさは13m×12m程度。
【写真左】「本丸から中の丸まで250m」とかかれた位置
本丸の南東部に東方の「中の丸」と書かれた道があるが、ここから少し下り坂になる。
【写真左】二の丸跡
前述したように東西に伸びる二の丸。左に見える建物は展望台。
【写真左】南方に瀬戸内海、讃岐富士を見る
手前に見える島は、坂出市の櫃石島で、左側の橋はせとうち大橋。また奥に見える山は、四国の讃岐富士。
【写真左】三の丸
本丸を中心に、西に西の丸を置き、東には三の丸を置くことによって、東西をバランス良く支え、この後東に一旦大きな堀切で区画している。
三の丸は西の丸に比べるとやや規模が小さい。
【写真左】堀切
三の丸の東側に設置されたもので、現在は南側から登っていくる道と兼ねているようだ。
写真右が本丸側、左に向かうと次に「中の丸」がある。
【写真左】中の丸その1
東の出丸とも言われている個所で、幅は狭いものの、長さは200mと長大だ。
【写真左】中の丸その2
途中にこうした土塁のようなものが残っている。
【写真左】中の丸その3
中の丸の東端部で、現在の瀬戸内大橋が最もよく見える地点である。当時は東方の播磨灘方面を監視する位置として重要だったと思われる。
【写真左】瀬戸内大橋を見る
この写真には写っていないが、左側には「鷲羽山」が見える。
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