2011年4月16日土曜日

撫川城(岡山県岡山市撫川)

撫川城(なつかわじょう)

●所在地 岡山県岡山市撫川
●築城期 平安末期又は永禄2年(1559)
●築城者 妹尾(瀬尾)兼康、又は三村家親
●遺構 本丸・石垣・濠・礎石等
●形態 沼城・平城
●別名 高下ノ城・芝揚城・泥城・小倉城
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2010年11月21日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿「庭瀬城」より西に約200mほど行くと、庭瀬城と同じく濠に囲まれた「撫川城」がある。
 説明板にもあるように、初期は「庭瀬城」と「撫川城」は元は一体の城砦だった。
【写真左】撫川城の濠
 南側に入口があり、濠にかけられている橋を渡ると門が控えている。
 写真はその橋の袂から西の方向に濠を見たもの。




 現地の説明板より

“岡山県指定史跡

 撫川城跡

 撫川城は、泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、東西77m、南北57mの長方形を示し、幅15mの濠がぐるりを巡っています。西半に高さ4m強の高石垣(野面積み)と、東半には土塁が現存しています。また、北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。

 この城は、永禄2年(1559)に、備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正10年(1580))には、毛利方の国境防備の城「境目7城」の一つとなり、当時の城主井上有景と、秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり、廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
【写真上】撫川城の位置図
 前稿「庭瀬城」の西隣にあり、撫川城は全周囲が濠で囲まれている。
 現在、2城の周囲は住宅団地が並び、道路も当時の区割りのままのせいか、入り組んで狭い道が多い。



 戸川氏は安風(やすかぜ)(4代目)で断絶しますが、その弟達冨(みちとみ)が撫川領分を継ぎ、「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。

 撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
 なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
 昭和30年(1957)5月、県の史跡に指定されました。
 平成9年3月
   岡山市教育委員会”
【写真左】撫川城の入口・大手門
 この門は、戸川氏時代のもののようだ。
 現在当城の中は公園になっている。
 





妹尾兼康

 築城期及び築城者については諸説あり、確定していない。最も古いといわれているのが、平安末期当地(妹尾郷)の平氏として活躍した妹尾兼康で、最期は木曽義仲に討たれた。

 妹尾という地は、この撫川城の南方にあるが、この地域の湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水を開削したといわれているのが、兼康とされ、撫川城や、また庭瀬城の初期の普請でも彼が関わった可能性は高いだろう。
【写真左】井戸跡
 沼城のため、井戸深さは極めて浅い。











戦国期

 中世から近世城郭へと変わりつつあった当城の改修者は、三村家親とされている。当時三村家親は、現在の高梁市成羽町成羽にあった成羽城鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)を本拠とし、永禄年間に東国備前から侵攻してきた宇喜多直家に備えるため築城したといわれている。

 撫川城のさらに前線基地として使われたのが、今月投降した常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)である。このため、家親は、愛娘・舞姫を常山城主・上野隆徳に嫁がせた。

【写真左】土塁跡その1
 ほぼ全域にわたって土塁跡が見られるが、子の北東部は特に高く残っている。









 さて、天正年間には当時の伊賀左衛門尉久隆が当城で切腹している。伊賀久隆は、虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)主で、宇喜多直家の妹婿になり、宇喜多直家が当城を三村氏より奪った後、当城を任せられていた。

 なお、久隆の切腹という記録もあれば、毒殺という説もある。亡くなった年も、はっきりしないが、おそらく天正9年(1581)といわれている。

 この間の動きについては目まぐるしいものがあり、本稿では整理できないが、翌天正10年になると、秀吉によって落城させられ、宇喜多氏の部将が城番として在城し、慶長年間に至って戸川達安の所領となった。
【写真左】土塁跡その2
 東側の平坦地は地元の子供たちの遊び場となっている。この場所なら交通事故の心配はない。

 こうした場所で遊んだりする経験は、大人になってから特に懐かしくなり、いい思い出として残るだろう。
【写真左】三神社
 北側中央部に祀られている。

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