天神山城(てんじんやまじょう)・その2
登城したこの日は、残念ながら太鼓丸城には登城していないが、度々参考にさせていただいている「城格放浪記」さんのサイトには、詳細な太鼓丸の写真が掲載されているので、ぜひご覧いただきたい。
【写真左】本丸跡に建つ石碑
石碑には「浦上遠江守宗景之城址」とあり、「陸軍大将 宇垣一成 書」と刻まれている。
宇垣一成は、地元(現・岡山市東区瀬戸内町)の生まれ、昭和13年、近衛内閣で外務大臣を務めている。
本丸の規模は長さ55m、最大幅17mの長方形だが、いびつな形状である。
【写真左】本丸付近の標識
この場所から太鼓丸へは700m、二の丸へ400m、桜の馬場へ300mと記されている。
【写真左】天津社
天文2年(1533)、本丸築城の時、山麓に遷宮した、とされている。
この社は前稿の登山口付近に建つ神社で、現在の「天石門別神社」である(下の写真参照)。
【写真左】天石門別神社本殿
【写真左】飛騨の丸
本丸を過ぎると次には「飛騨の丸」という郭が控えている。
規模は、長さ24m、幅8~17m程度で、この辺りから幅はやや狭くなってくる。
【写真左】南櫓台
上記の飛騨の丸を過ぎると、「馬屋の段」という廓があり、それを過ぎると、この「南櫓台」がある。
南櫓台は、天神山本城(後期築城のもの)の東端部に当たり、東方の峰に築城された「太鼓丸城」との連絡を主たる目的として造られている。
【写真左】天瀬侍屋敷
上記の南櫓台から一旦飛騨の丸付近まで戻り、そこから南に降ると、「天瀬侍屋敷」に繋がる。
天神山城の平時の生活場所だったと考えられているが、この外にも東西麓に家臣団の屋敷があったと推定されているが、遺構は未確認である。
【写真左】侍屋敷の「中の段」
天瀬侍屋敷については、後段の写真を参照していただきたいが、主だったものとしては、
【写真左】天瀬侍屋敷配置図
現地を踏査すると、吉井川に面した天神山稜線の傾斜がかなり急角度のため、こうした場所に段を設け屋敷を構えていたことは驚きである。
これまでも相当数の崩落個所が残っており、戦国期でもこの屋敷に住んでいる際は、おそらく度々屋敷周りの土木改修に追われていたのだろう。
【写真左】天瀬侍屋敷から下ったところ
なお、以前は吉井川沿いに「片上鉄道」という線路があったようだが、現在は無くなり、その鉄道跡が舗装され写真のような歩道となっている。
この写真でいえば、右側に侍屋敷があり、道路の奥に向かうと、最初の登山口に戻る。
【写真左】清流50選 天神淵付近
上記の歩道を進み、振り返ってみたもので、右に見える道路は国道374号線、及び吉井川。また左の岩は天神山側。
【写真左】歩道付近から見えた奇岩
天神山全体が岩山で構成されているが、歩道側にはこうした奇岩が多くみられる。
地震が起きたら、そうとうの規模で落石が発生するような光景である。
●所在地 岡山県和気郡和気町田土●登城日 2008年12月17日
◆解説
前稿に引き続き、本稿では天神山城の本丸を含め東方側、及び侍屋敷跡などを紹介したい。
ところで、前稿で紹介した「鳥瞰図」は天正初年頃のもので、これとは別に南東方向の尾根伝い300mの地点に、前期天神山城がある。これは別名「太鼓丸城」とよばれるもので、当初浦上宗景はここに拠ったとされる。
◆解説
前稿に引き続き、本稿では天神山城の本丸を含め東方側、及び侍屋敷跡などを紹介したい。
ところで、前稿で紹介した「鳥瞰図」は天正初年頃のもので、これとは別に南東方向の尾根伝い300mの地点に、前期天神山城がある。これは別名「太鼓丸城」とよばれるもので、当初浦上宗景はここに拠ったとされる。
おそらく西方に新しく造った天神山城と併せて、後には出城としての機能を持たせたものと思われる。
登城したこの日は、残念ながら太鼓丸城には登城していないが、度々参考にさせていただいている「城格放浪記」さんのサイトには、詳細な太鼓丸の写真が掲載されているので、ぜひご覧いただきたい。
【写真左】本丸跡に建つ石碑
石碑には「浦上遠江守宗景之城址」とあり、「陸軍大将 宇垣一成 書」と刻まれている。
宇垣一成は、地元(現・岡山市東区瀬戸内町)の生まれ、昭和13年、近衛内閣で外務大臣を務めている。
本丸の規模は長さ55m、最大幅17mの長方形だが、いびつな形状である。
【写真左】本丸付近の標識
この場所から太鼓丸へは700m、二の丸へ400m、桜の馬場へ300mと記されている。
【写真左】天津社
天文2年(1533)、本丸築城の時、山麓に遷宮した、とされている。
この社は前稿の登山口付近に建つ神社で、現在の「天石門別神社」である(下の写真参照)。
【写真左】天石門別神社本殿
【写真左】飛騨の丸
本丸を過ぎると次には「飛騨の丸」という郭が控えている。
規模は、長さ24m、幅8~17m程度で、この辺りから幅はやや狭くなってくる。
【写真左】南櫓台
上記の飛騨の丸を過ぎると、「馬屋の段」という廓があり、それを過ぎると、この「南櫓台」がある。
南櫓台は、天神山本城(後期築城のもの)の東端部に当たり、東方の峰に築城された「太鼓丸城」との連絡を主たる目的として造られている。
【写真左】天瀬侍屋敷
上記の南櫓台から一旦飛騨の丸付近まで戻り、そこから南に降ると、「天瀬侍屋敷」に繋がる。
天神山城の平時の生活場所だったと考えられているが、この外にも東西麓に家臣団の屋敷があったと推定されているが、遺構は未確認である。
【写真左】侍屋敷の「中の段」
天瀬侍屋敷については、後段の写真を参照していただきたいが、主だったものとしては、
- ぐるみの段
- 土塁の段
- 上の段
- 中の段
- 下の段
【写真左】天瀬侍屋敷配置図
現地を踏査すると、吉井川に面した天神山稜線の傾斜がかなり急角度のため、こうした場所に段を設け屋敷を構えていたことは驚きである。
これまでも相当数の崩落個所が残っており、戦国期でもこの屋敷に住んでいる際は、おそらく度々屋敷周りの土木改修に追われていたのだろう。
【写真左】天瀬侍屋敷から下ったところ
なお、以前は吉井川沿いに「片上鉄道」という線路があったようだが、現在は無くなり、その鉄道跡が舗装され写真のような歩道となっている。
この写真でいえば、右側に侍屋敷があり、道路の奥に向かうと、最初の登山口に戻る。
【写真左】清流50選 天神淵付近
上記の歩道を進み、振り返ってみたもので、右に見える道路は国道374号線、及び吉井川。また左の岩は天神山側。
【写真左】歩道付近から見えた奇岩
天神山全体が岩山で構成されているが、歩道側にはこうした奇岩が多くみられる。
地震が起きたら、そうとうの規模で落石が発生するような光景である。
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