岩屋城(いわやじょう)・その1
●所在地 岡山県津山市中北上
●築城期 嘉吉元年(1441)
●築城者 山名教清
●標高/比高 483m/310m
●指定 岡山県指定史跡
●城主 山名氏、赤松氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏等
●遺構 郭・堀切・井戸・池・水門・石垣等多数
●登城日 2008年5月20日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
山陰から山陽側に向かっていく際、管理人はよく米子自動車道を利用するが、本道が中国自動車道と合流する直前の久世ICから落合JCTの区間で、左手に瞬間この岩屋城が顔を覗かせている時がある。
【写真左】岩屋城遠望
南麓部からみたもの
もっとも運転中だから、時間的には1秒も見ていないので、助手席の連れ合いにその都度、よく見えたかどうか確認している。今では、この個所を通る時のお決まりのパターンとなっている。
登城したのは、3年前の2008年だが、実はこの岩屋城の登り口を探し出すまではずいぶんと時間がかかった。およその位置は分かり、しかも南麓の標識も確認できたのにも拘わらず、肝心の道を突き止めるのに1年もの時間が過ぎていた。
岩屋城については、今月取り上げた美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも少し紹介しているが、天文17年(1548)、高田城主・三浦貞勝が尼子氏に攻められた際、この城に逃れている。
【写真左】岩屋城概要図
岩屋城は全体に整備が行き届いており、登城口付近には数台の駐車ができる駐車場も完備されている。
また、この場所には左の写真にある全体図が設置されている。この日登城したコースは、同図にある南側の登り口から入り、帰りは北側の「下り口」コースを選んだ。
現地の説明板より
“岡山県指定史跡
岩屋城跡
岩屋城は、嘉吉元年(1441)、山名敬清が赤松満祐討伐の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。
その後、応仁の乱の勃発(応仁元年‐1467)に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明5年(1473)政則が美作国の守護となったことから、岩屋城には部将の大河原治久が在城した。
永正17年(1520)春、赤松氏の部将であった備前の浦上村宗が謀叛し岩屋城を奪取、部将の中村則久を岩屋城においた。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年4月、部将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。
【写真左】慈悲門寺跡
登城口から登っていくと、慈悲門寺下の砦跡という個所に出くわす。慈悲門寺という寺院は、円珍(814~91)の開基による天台宗のもので、岩屋城の築城より大分古い。戦国期になると、当院も含め、城砦施設のひとつとしても利用された。
この写真は寺院跡地で、今でも礎石が残り、瓦片や備前焼の破片が多数残っているという。
なお、砦としては、「慈悲門寺 下の砦」と「同 上の砦」の2カ所が確認される。
このことから24年後の天文13年(1544)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は、尼子氏に従属した。しかしながら、永禄11年(1568)頃、中村則治は、芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力をのばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、5年後の天正元年(1573)には、宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。
その後、しばらくは比較的平穏であったが、天正7年(1579)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから、再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、天正9年(1581)、毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や、大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより、岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり、再び毛利氏の勢力下となった。
【写真左】山王宮跡
登りコースの途中から少し外れた場所にあるもので、当時はこの写真にある小詞までは嶮しい道だったため、一般の参拝者は手前にあった拝殿を参拝していたという。
祭神は山王(山王大権現)で近江の日吉神社である。明治になって鶴坂神社に合祀された。
ちなみに、この小詞が祀られている岩山に向かう道が設置されているが、今でも道幅が狭く、足を踏み外すと崖に落ちてしまう。
織田氏と毛利氏の攻防は、天正10年(1582)、備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることについて、美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が部将花房職秀を将として行われた。
この接収戦は、長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後の鞆にいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。
これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。しかしながら、6年後の天正18年(1590)8月、野火により焼失し廃城となったと伝えられている。
(岡山県指定史跡 昭和62年4月3日指定)
久米町教育委員会”
【写真左】水門跡付近
山王宮から再び登城ルートに戻り、谷筋を登って行くと、写真にある水門跡に出てくる。水門跡はこの写真の左下にあったらしく、休憩小屋(写真)の位置には、水神が祀られ、小屋の奥には龍神池という小さなため池が残る。
築城期である嘉吉元年(1441)、山名教清が本拠地伯耆国赤松池に倣ってこの池を造ったという。
この位置にくると、左側には馬場跡を皮切りに本丸が続き、正面には二ノ丸、更に右に三の丸などが取り囲んでいる。
説明板にもあるように、岩屋城も波乱にとんだ歴史を持つ。
永正17年の赤松氏による岩屋城攻めが失敗に終わったことは、守護大名であった赤松氏の衰退を意味し、逆に守護代であった浦上氏(三石城(岡山県備前市三石)参照)の備前・美作支配を強めた。
【写真左】馬場跡
南北108m、東西約20mと本丸付近の中では最も規模が大きい。
天正10年の備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)開城によって、織田氏と毛利氏の攻防が一応おさまったことになっているが、説明板にもあるように、宇喜多氏が毛利から織田氏に属したことが美作国衆にとっては承服できず、高山城(津山市油木)の草刈重継、竹山城(岡山県美作市下町)の新免弥太郎、および当城・岩屋城の中村則宗らが、特に領界確定について最期まで抵抗したという。
【写真左】馬場跡付近から西方に本丸及び本丸東砦群を遠望する
馬場跡の西端からは南方に別の郭群(小分場跡・石橋上砦・椿ヶ峪砦)が伸びているが、この写真は、西から北に延びる本丸・本丸東砦群のものである。
このため、秀吉によって天正11~12年にかけて、黒田官兵衛(篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)参照)と蜂須賀正勝が当地に赴き、最終的には、高梁川を境に、備中西半分は毛利氏、備中東半及び備前・美作両国は宇喜多秀家に与えられた。
天正18年に当城は、野火により焼失し廃城となっているが、おそらくこの野火もそうした宇喜多氏に抗していた者による仕業かもしれない。
【写真左】本丸付近
岩屋山頂部を削平し、東西60m×南北20mの規模を持つ。
本丸北側には「落とし雪隠(せっちん)」という切崖があり、天正9年(1581)の毛利氏による攻撃の際、同氏の将・中村大炊助頼宗が32人と共にこの切崖をよじ登り、城内に侵入し火を放った。この作戦が成功し落城したといわれている。
【写真左】本丸から二ノ丸方面の間にある本丸東砦跡
本丸から二ノ丸へ向かう途中にはこうした規模の大きい郭が連続している。
【写真左】二ノ丸
二ノ丸は岩屋城の北端部に位置し、搦手側の防御を主な役目としていたのだろう。東隣りの三の丸と連携した城砦区域である。
【写真左】大堀切
当城最大の堀切で、二ノ丸から東南に向かう三の丸付近までの途中に設けられている。
【写真左】三の丸へ向かう
この日訪れたとき、三の丸はあまり整備されておらずまともな写真が撮れなかった。現地の説明板によると、三カ所の段状をなした郭群で、この場所からも備前焼の破片が採取されたという。
【写真左】てのくぼり跡
三の丸の東麓に残るもので、幅5m、深さ2m、長さ100m以上の竪堀が12本掘られている。
●所在地 岡山県津山市中北上
●築城期 嘉吉元年(1441)
●築城者 山名教清
●標高/比高 483m/310m
●指定 岡山県指定史跡
●城主 山名氏、赤松氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏等
●遺構 郭・堀切・井戸・池・水門・石垣等多数
●登城日 2008年5月20日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
山陰から山陽側に向かっていく際、管理人はよく米子自動車道を利用するが、本道が中国自動車道と合流する直前の久世ICから落合JCTの区間で、左手に瞬間この岩屋城が顔を覗かせている時がある。
【写真左】岩屋城遠望
南麓部からみたもの
もっとも運転中だから、時間的には1秒も見ていないので、助手席の連れ合いにその都度、よく見えたかどうか確認している。今では、この個所を通る時のお決まりのパターンとなっている。
登城したのは、3年前の2008年だが、実はこの岩屋城の登り口を探し出すまではずいぶんと時間がかかった。およその位置は分かり、しかも南麓の標識も確認できたのにも拘わらず、肝心の道を突き止めるのに1年もの時間が過ぎていた。
岩屋城については、今月取り上げた美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも少し紹介しているが、天文17年(1548)、高田城主・三浦貞勝が尼子氏に攻められた際、この城に逃れている。
【写真左】岩屋城概要図
岩屋城は全体に整備が行き届いており、登城口付近には数台の駐車ができる駐車場も完備されている。
また、この場所には左の写真にある全体図が設置されている。この日登城したコースは、同図にある南側の登り口から入り、帰りは北側の「下り口」コースを選んだ。
現地の説明板より
“岡山県指定史跡
岩屋城跡
岩屋城は、嘉吉元年(1441)、山名敬清が赤松満祐討伐の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。
その後、応仁の乱の勃発(応仁元年‐1467)に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明5年(1473)政則が美作国の守護となったことから、岩屋城には部将の大河原治久が在城した。
永正17年(1520)春、赤松氏の部将であった備前の浦上村宗が謀叛し岩屋城を奪取、部将の中村則久を岩屋城においた。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年4月、部将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。
【写真左】慈悲門寺跡
登城口から登っていくと、慈悲門寺下の砦跡という個所に出くわす。慈悲門寺という寺院は、円珍(814~91)の開基による天台宗のもので、岩屋城の築城より大分古い。戦国期になると、当院も含め、城砦施設のひとつとしても利用された。
この写真は寺院跡地で、今でも礎石が残り、瓦片や備前焼の破片が多数残っているという。
なお、砦としては、「慈悲門寺 下の砦」と「同 上の砦」の2カ所が確認される。
このことから24年後の天文13年(1544)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は、尼子氏に従属した。しかしながら、永禄11年(1568)頃、中村則治は、芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力をのばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、5年後の天正元年(1573)には、宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。
その後、しばらくは比較的平穏であったが、天正7年(1579)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから、再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、天正9年(1581)、毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や、大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより、岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり、再び毛利氏の勢力下となった。
【写真左】山王宮跡
登りコースの途中から少し外れた場所にあるもので、当時はこの写真にある小詞までは嶮しい道だったため、一般の参拝者は手前にあった拝殿を参拝していたという。
祭神は山王(山王大権現)で近江の日吉神社である。明治になって鶴坂神社に合祀された。
ちなみに、この小詞が祀られている岩山に向かう道が設置されているが、今でも道幅が狭く、足を踏み外すと崖に落ちてしまう。
織田氏と毛利氏の攻防は、天正10年(1582)、備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることについて、美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が部将花房職秀を将として行われた。
この接収戦は、長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後の鞆にいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。
これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。しかしながら、6年後の天正18年(1590)8月、野火により焼失し廃城となったと伝えられている。
(岡山県指定史跡 昭和62年4月3日指定)
久米町教育委員会”
【写真左】水門跡付近
山王宮から再び登城ルートに戻り、谷筋を登って行くと、写真にある水門跡に出てくる。水門跡はこの写真の左下にあったらしく、休憩小屋(写真)の位置には、水神が祀られ、小屋の奥には龍神池という小さなため池が残る。
築城期である嘉吉元年(1441)、山名教清が本拠地伯耆国赤松池に倣ってこの池を造ったという。
この位置にくると、左側には馬場跡を皮切りに本丸が続き、正面には二ノ丸、更に右に三の丸などが取り囲んでいる。
説明板にもあるように、岩屋城も波乱にとんだ歴史を持つ。
永正17年の赤松氏による岩屋城攻めが失敗に終わったことは、守護大名であった赤松氏の衰退を意味し、逆に守護代であった浦上氏(三石城(岡山県備前市三石)参照)の備前・美作支配を強めた。
【写真左】馬場跡
南北108m、東西約20mと本丸付近の中では最も規模が大きい。
天正10年の備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)開城によって、織田氏と毛利氏の攻防が一応おさまったことになっているが、説明板にもあるように、宇喜多氏が毛利から織田氏に属したことが美作国衆にとっては承服できず、高山城(津山市油木)の草刈重継、竹山城(岡山県美作市下町)の新免弥太郎、および当城・岩屋城の中村則宗らが、特に領界確定について最期まで抵抗したという。
【写真左】馬場跡付近から西方に本丸及び本丸東砦群を遠望する
馬場跡の西端からは南方に別の郭群(小分場跡・石橋上砦・椿ヶ峪砦)が伸びているが、この写真は、西から北に延びる本丸・本丸東砦群のものである。
このため、秀吉によって天正11~12年にかけて、黒田官兵衛(篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)参照)と蜂須賀正勝が当地に赴き、最終的には、高梁川を境に、備中西半分は毛利氏、備中東半及び備前・美作両国は宇喜多秀家に与えられた。
天正18年に当城は、野火により焼失し廃城となっているが、おそらくこの野火もそうした宇喜多氏に抗していた者による仕業かもしれない。
【写真左】本丸付近
岩屋山頂部を削平し、東西60m×南北20mの規模を持つ。
本丸北側には「落とし雪隠(せっちん)」という切崖があり、天正9年(1581)の毛利氏による攻撃の際、同氏の将・中村大炊助頼宗が32人と共にこの切崖をよじ登り、城内に侵入し火を放った。この作戦が成功し落城したといわれている。
【写真左】本丸から二ノ丸方面の間にある本丸東砦跡
本丸から二ノ丸へ向かう途中にはこうした規模の大きい郭が連続している。
【写真左】二ノ丸
二ノ丸は岩屋城の北端部に位置し、搦手側の防御を主な役目としていたのだろう。東隣りの三の丸と連携した城砦区域である。
【写真左】大堀切
当城最大の堀切で、二ノ丸から東南に向かう三の丸付近までの途中に設けられている。
【写真左】三の丸へ向かう
この日訪れたとき、三の丸はあまり整備されておらずまともな写真が撮れなかった。現地の説明板によると、三カ所の段状をなした郭群で、この場所からも備前焼の破片が採取されたという。
【写真左】てのくぼり跡
三の丸の東麓に残るもので、幅5m、深さ2m、長さ100m以上の竪堀が12本掘られている。
◎関連投稿
0 件のコメント:
コメントを投稿