2021年11月7日日曜日

田邊城(岡山県津山市中北上・宮部下)

 田邊城(たなべじょう)

●所在地 岡山県津山市中北上・宮部下
●別名 年末砦
●高さ 231m(比高85m)
●築城期 嘉吉元年(1441)
●築城者 山名教清
●城主 山名氏、田邊出雲守権右衛門実成
●遺構 郭、堀切、土塁、竪堀、井戸等
●登城日 2017年4月1日

◆解説(参考資料 HP「津山瓦版」、現地の資料等)
 田邊城は岡山県の津山市中北上と宮部下の間に聳える標高230m前後の山頂部に築かれた城砦である。田邊城の北麓を流れるのが宮部川で、南麓を流れる川は久米川である。両川が当城を南北から挟む形となる。
【写真左】田邊城の石碑
 二の丸付近に建立されているもので、中央に「田邊城址」右側に後段で紹介している城主・「田邊出雲守権右衛門実成」の銘が入り、左側には「戦国武将彼我鎮魂之碑」と筆耕されている。


岩屋城の属城

 南麓側の久米川としばらく並行して走るのが現在の中国自動車道で、久米川からさらに西に進み、岩屋から岩屋川を北上すると、以前紹介した美作を代表する岩屋城(岡山県津山市中北上)に突き当たる。因みに、田邊城から岩屋城までの距離は、直線距離でおよそ5キロほどとなる。
 田邊城は先述した西方に控える岩屋城の属城として歴史を刻んでいる。このためか、田邊城に関する史料はあまり残っていない。従って以下、岩屋城の動きを見ながら田邊城の変遷も推考してみたい。
【写真左】登城開始
 登城口は北東部にある。この右側に駐車場があり、そこから歩いていく。
 軽自動車の四駆なら直接最初の郭(馬場)まで行けるかもしれないが、途中で険しい急勾配があり、お勧めできない。


美作守護・山名教清

 嘉吉元年(1441)6月24日、それまでの美作守護であった赤松満祐が室町幕府将軍足利義教を謀殺するいわゆる嘉吉の乱(鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)参照)が勃発、これに対し、幕府の命を受けた山名宗全、教之、並びに教清らは満祐追討軍に加わり、9月10日、播磨木山城に赤松満祐を自害に追い込んだ。
【写真左】縄張図
 この図では右上に宮部川が流れているが、南を流れる久米川は本丸からおよそ700m前後の位置を東西に流れている。


 この恩賞として教清が新たに美作守護として任じられた。岩屋城はこのとき教清によって築城されたものだが、おそらく岩屋城築城時に併せて当城の東方の防衛の観点から田邊城も築かれたものと思われる。

 岩屋・田邊両城が築城されてからおよそ25年後の応仁元年(1467)、京を舞台に応仁の乱が始まる。そして、西国を中心に主だった一族・諸氏が、京に上り東軍・西軍にそれぞれ分かれて戦いが始まることになる。
【写真左】五輪塔群
 坂を上りきると馬場跡にいたるが、その脇には五輪塔群が祀られている。おそらく田邊氏一族のものだろう。





赤松政則岩屋城奪還

 岩屋城主山名政清は配下の者3千を率いて上洛、宗全の軍に加わった。すると、この機を狙って、赤松政則方の大河原・中村・小瀬の諸氏が岩屋城攻略に動いた。大半が京に向かっていたため、岩屋城は陥落、文明5年(1477)、美作の守護は再び赤松氏(政則)となり、岩屋城主は武功を挙げた大河原治久となった。
【写真左】馬場跡
 上記の縄張図にもあるように、東側に長大な馬場跡がある。近代になって整地されたのだろうか平滑になっている。



 赤松氏が美作守護となってからおよそ40年後の永正15年(1518)、政則から数えて3代目の政村(晴政)のときはすでに当地美作をはじめ、備前・播磨の守護職となり、政村自身は主として播磨の置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)を居城としていた。
【写真左】二の丸に向かう。
 馬場から二の丸を繋ぐ部分だが、整地されたこともあってほぼフラットで歩きやすい。



浦上氏岩屋城奪取

 しかし、そのころ赤松氏の家臣で急激に力をつけ守護代でもあった浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)は、永正17年(1520)の春、主君であった赤松氏に背き、岩屋城を奪取した。そして岩屋城の城主は、中村大和守則久となった。当然ながら赤松氏は再び小寺則職(範職)(御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)参照)・大河原を将として岩屋城奪回に向かった。この戦いはおよそ半年にもわたったが、岩屋城を落とすことはできず、次第に赤松氏の凋落が始まった。
【写真左】二の丸
 冒頭で紹介した石碑とは別に左側には仏像が建立されている。
 それにしても北側はかなり解放された景観で、いつもの山城登城とは大分雰囲気が違う。


尼子氏美作攻略

 天文13年(1544)出雲の尼子経久・晴久らが美作へ侵攻、岩屋城は尼子氏の軍門に降った。時期は同年の秋ごろと思われ、主力部隊は高田城(岡山県真庭市勝山)攻めを行った宇山久信、及び尼子国久(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)らと思われる。
写真左】堀切・その1
 二ノ丸から本丸に向かう途中に構築されたもので、大分埋まっているが当時はもう少し深かったものと思われる。


 このときの岩屋城主は中村則久の嫡男・則治であったが、尼子氏は則治を城主として据え置き、副将として尼子方の将・芦田備後守秀家を付けた。
 ところで、芦田秀家は尼子の将とされているが、尼子氏家臣団の史料ではあまり出てこない。想像だが、芦田氏はおそらく尼子氏の美作攻略開始直前に臣下となったのではないか、また、その姓名から考えて備後の芦田郡周辺(現・広島県福山市芦田町)の一族であったのではないかとも考えられる。
写真左】堀切・その2
 先ほどの堀切で南側に延びるもの。
 奥には南側を東西に横断する旧出雲街道が走り、久米川が流れる。



毛利氏から宇喜多氏へ
 
 永禄9年(1566)11月21日、出雲月山富田城が落城、尼子義久はじめ秀久・倫久の三兄弟は毛利元就に降伏した(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)。
 その2年後の永禄11年(1568)、果せるかな、美作の岩屋城内でも大きな動きが起こった。城主則治は副将・芦田秀家の息子・正家に殺害された。芦田秀家から息子正家となっているが、秀家は永禄11年までに亡くなり、その跡を継いだのが正家だったのだろう。

 尼子の支配が無くなった岩屋城主正家は、次の主君を宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)に求めた。そして、天正元年(1573)に至ると、城主は宇喜多直家の宿将・浜口淡路守家職となった。
【写真左】本丸に向かう。
 二ノ丸から本丸を繋ぐ道も平坦で、少し拍子抜けするが、当時から二の丸と本丸の高低差は余りなかったこともあり、堀切以外の遺構は認められなかった。


 宇喜多氏の居城となったのも束の間、毛利氏は中村大和守頼宗が夜襲をかけ奪い取った。しかし、ほどなくして毛利氏と織田氏との領土堺交渉の結果、再び宇喜多氏は岩屋城を手に入れ、城主は長船越中守(駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)参照)となり、記録上この長船越中守が岩屋城の最後の城主とされている。
 そうしためまぐるしい変遷を経た岩屋城も、天正18年(1590)の野火により焼失、この段階で廃城となったといわれている。
【写真左】本丸
 本丸の北側には祠が祀られ、その後背は宮部川の谷沿いに伸びる集落が見える。





田邊城と田邊氏

 さて、ここまで田邊城の本城とされる岩屋城を長々と述べてきたが、田邊城及び城主といわれる田邊氏について、少し紹介しておきたい。
 田邊氏はもともと赤松氏の系譜に繋がる。つまり嘉吉の乱首謀者・赤松満祐の臣下であったが、上述したように岩屋城が浦上氏に攻略され、さらには出雲の尼子氏が当城を攻め落としたとき、同国(美作)の田邊氏をはじめ13将がそろって尼子氏に降った。
【写真左】岩屋城遠望
 本丸のそばに「岩屋城展望」の標柱が建っており、その方向に目を転ずると霞んでいるが岩屋城が確認できる。



 その後、天正9年(1579)になると、前記したように毛利氏が当城を攻め立てた。攻め立てたのは苫西郡山城村の葛下城主で毛利氏に属した中村頼宗である。
 頼宗が攻め立てたときの田邊城主が、田邊出雲守権右衛門実成といわれ、自裁(自害)したといわれる祠が祀られている。
【写真左】三の丸方面に向かう。
 本丸を過ぎ、三の丸に向かうと少し下り坂になる。







遺構概要

 縄張図を見ても分かるように、城域は東西におよそ600mにわたって構成されている。東側には長大な馬場を配し、そこから西に向かって二の丸、堀切を介して主郭を置き、さらに西に向かって三の丸が配されている。また西端部には北の尾根下に井戸が残り、この付近の尾根にはまとまった郭が3段連続する。

【写真左】三の丸
 特筆されるような遺構ではないが、削平された郭
【写真左】北側に大きな谷
 三の丸を過ぎると途中で北側に見える谷で、左側は北に向かって細い丘陵が伸びる。
【写真左】井戸
長径5m前後はあろうか、大きな岩をくりぬいた構造となっている。
【写真左】土橋・土塁
 写真は、三の丸から大分西に移動した箇所で、現地を踏査した記憶では、途中で中規模な郭段があるものの、土塁・土橋以外は明確な遺構は見当たらなかった。
【写真左】土塁・土橋側から西方に三の丸方面を振り返る。
 三の丸から相当下に降りていたようで、この位置からはかなりの高低差がある。
【写真左】青木の段といわれる個所の神社
 自害した田邊出雲守実成は後に地元に残った田邊株の人々によって祀られている。

 なお、前段で紹介している五輪塔は当時この北麓にあったものと思われ、近年になって馬場跡(駐車場)に移設されたものと思われる。
【写真左】田邊城遠望
 北側から見たもので、右側が本丸から三の丸にかけて解放された箇所と思われる。



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