2014年8月11日月曜日

新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)

新宮党館(しんぐうとうやかた)

●所在地 島根県安来市広瀬町広瀬新宮
●別名 にいのみや とうやかた・太夫成
●築城期 室町時代
●築城者 尼子国久
●高さ 高さ48m(比高10m)
●種別 居館跡
●遺構 礎石建物・柵列・溝など
●指定 島根県指定史跡
●備考 太夫神社
●登城日 2007年7月25日、2011年9月12日、2014年2月13日

◆解説(参考文献「日本城郭体系第13巻」「尼子物語」等)
 尼子氏本拠城・月山富田城の北麓には新宮谷と呼ばれる谷がある。ここに尼子経久の次男であった紀伊守国久と、その子式部大輔誠久(まさひさ)、及び同左衛門大夫敬久(よしひさ)の父子が率いる尼子氏最強軍団新宮党の館があった。
【写真左】新宮党館遠望
 新宮谷は途中から二つの谷に分かれるが、その中の北の谷を進んだところの棚田の北側丘陵にある。
 手前に見える石碑は、「尼子家 新宮党之霊社」すなわち太夫神社を示したもの。

 奥に最近建立された鳥居が見える。ここからまっすぐに農道を進む。


現地の説明板より

“島根県市指定史跡
 新宮党館跡

 新宮党は尼子経久の次男である国久の一族衆である。その名称は一族が新宮谷周辺に居住したことに由来する。

 新宮党は尼子氏における軍事の中核を担った集団であったが、天文23年(1554)11月、主君である尼子晴久によって滅ぼされた。
 昭和54年に行われた発掘調査では、礎石建物跡や溝跡などが見つかっており、青磁や染付など中国産の陶磁器類の他、将棋の駒など、戦国時代の武士の暮らしぶりが窺える遺物が出土している。
 また、敷地内には、国久とその子である誠久(さねひさ)、敬久(たかひさ)の墓と伝わる石塔群があり、肥前有田の久富二六によって、昭和12年に修復されている。また、新宮党一族を祀った太夫神社がある。

    平成21年10月  安来市教育委員会”
【写真左】館麓の鳥居
 館跡に祀られている太夫神社の鳥居で、平成20年11月に氏子によって移転建立されたと記されている。





尼子国久

 新宮党の党首である。国久が生まれたのは、明応元年(1492)といわれ、父・経久34歳の時の子である。以前にも述べたように、経久の子には男子では、長男・政久、二男・国久、そして三男は塩冶氏に養子に入った興久の3人がいた(甲山城(広島県庄原市山内町本郷)参照)。
【写真左】館に向かう階段
 太夫神社参道と兼ねたもので、6,7m程度高くなっている。







 幼名は孫四郎と名乗っている。一説ではこの頃、経久は孫四郎を月山富田城の東方・吉田荘を支配していた出雲・吉田氏に養子として送り込んでいる(川手要害山城(島根県安来市上吉田町)参照)。
 
 その後の永正8年(1511)すなわち、国久19歳のとき、父・経久に従い京都船岡山の戦いに参陣した(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)。これは細川高国・大内義興連合軍が、細川政賢らの軍を破り、細川澄元らを摂津に敗走させた戦いだが、大内義興に従った経久はじめ、出雲・石見の諸将はこの勝利に大きく貢献したといわれる(益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)参照)。
 この戦いで、孫四郎は大内義興を通じて、幕府管領・細川高国から翌永正9年、偏諱を受け「国久」と名乗ることになる。
【写真左】太夫神社
 神社というより祠に近い小さい社だが、館跡の西側に祀られている。








新宮党

 新宮党については、これまで笹向城(岡山県真庭市三崎)宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)の稿などで少し紹介しているが、改めて述べてみたい。

 国久が新宮党を率いて本格的に活躍し出すのは、大永4年(1524)のいわゆる大永の五月崩れ辺りからと思われる。
【写真左】尼子国久父子の墓・その1
 館跡の片隅に建立されている。
三基あるので、国久・誠久・敬久のものだろう。
【写真左】尼子国久父子の墓・その2
 三基の墓とは別に無記銘の円柱型の墓も祀られているが、国久あるいは誠久・敬久の正室のものかもしれない。


 以前にも述べたように、晴久の父で、国久の兄になる政久が永正15年(1518)大東の阿用城の戦いで不慮の死を遂げたため、経久はその後80歳になるまで一族を率いていくことになる。

 しかし、80歳という当時としては長寿であった経久もさすがに限界を感じたのだろう、また孫の晴久が23歳になっていたため、晴久に家督を譲った。

 そして、この年若い孫に家督を譲るにあたっては、彼を補佐させる人物二人を宛がった。一人は政務担当として、経久の弟久幸(義勝)を、もう一人は軍事担当として次男・国久に指名した。
【写真左】館跡・その1
 東側から見たもので、長径100m×短径50m前後の規模。
 近代になって要所に排水路が設置されている




 国久はこのころから既に尼子氏の中では抜きんでて武功の誉れ高く、父経久も合戦の際は国久に一目置いていたようである。さらには国久の子・誠久(さねひさ)、敬久(たかひさ)も父譲りの力量を持ち併せていた。また、晴久の正室には国久の娘を嫁がせていたので、一族結束の形としてはこれ以上にない体制を敷いていた。

 ところが、新宮党の力が尼子氏一族内で高まるにつれ、その専横ぶりが顕著となり、他の諸将から次第に怨嗟の声が上がり始めた。こうした情報を耳にした毛利元就は、尼子氏の調略を画策した。
 それは、新宮党・国久が毛利氏(元就)と結託し、尼子氏惣領・晴久謀殺を企んでいるという虚偽の密書を作成し、利用するというものである。
【写真左】館跡・その2
 東側付近
 館は南側を開口部とし、館の西・北・東側はご覧のように山に取り囲まれている。
 礎石建物などがあるかと踏査してみたが、かなり整地されたようで、確認できなかった。
 ただ、北側の谷筋から常に水が流れていたので、これらが飲用水として使われていたと考えられる。


新宮党の誅滅

 この計画はまんまと成功し、晴久はその密書を信じてしまった。そして、晴久は叔父である国久率いる新宮党の誅滅を決行した。天文23年(1554)11月1日のことである(別説では同年の正月元旦、年賀の挨拶に登城したときともいわれている)。

 党首・国久と嫡男誠久が富田城登城途中にて若党20余名とともに、晴久らによって謀殺された。
 父及び兄の謀殺を聞いた弟・敬久は、父兄と同じく登城途中であったが、後から来ていたため、急ぎ新宮党の館に立ち返り、手勢2千余騎共に立て籠もって、晴久らと抗戦する態勢を敷いた。

 これに対し、晴久は予想していたのだろう、すぐに5千の軍勢を陣立てし、一気に新宮党の館を取り囲んだ。父国久に劣らぬ武勇を誇った敬久は、瞬く間に晴久方の2,30人を刃に下したが、勝敗は明らかであった。晴久らが見守る中で、もはやこれまでと、敬久は腹を掻き切った。
【写真左】南側付近
 現在は2段程度の段差を設けた斜面になっている。
 館といえども城郭の機能を持たせていたはずである。おそらく麓を流れる現在の用水路などは水濠として機能していたと考えられる。



 ところで、父国久とともに謀殺された長男・誠久には5人の男子(別説では3人)がいた。このうち五男・孫四郎は、家臣・小川重遠が戦火の最中助け出し、しばらく吉田永源寺に匿った。その後、京都東福寺に入って出家することになる。これが後の尼子再興軍旗挙げの際、還俗して山中鹿助らと行動を共にすることになる尼子勝久上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3参照)である。
【写真左】川手要害山側から永源寺方面を見る。
 右手の山が川手要害山で、左奥にみえる山が永源寺方面になる。





 なお、吉田の永源寺という寺院は現在残っていないが、おそらく2001年に報告された「永源寺要害・宮谷1号墳」(島根県松江農林振興センター・安来市教育委員会編)の箇所と思われる。ちなみに、この場所は前述した川手要害山城の吉田川を挟んだ対岸(西方)の丘陵地で、新宮党のある新宮谷の裏手に当たる。

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