川手要害山城(かわてようがいさんじょう)
●所在地 島根県安来市上吉田町
●高さ 50m(比高30m)
●築城期 鎌倉期か
●築城者 吉田氏か
●城主 吉田氏、毛利氏か
●遺構 土塁・虎口・郭・堀切・横堀
●登城日 2014年4月12日
◆解説(参考文献「安来市誌上巻」「出雲の山城」、サイト「城郭放浪記」・「島根県遺跡データベース」等)
川手要害山城は、月山富田城の東方を流れる吉田川沿いに築かれた小規模な城砦である。
【写真左】川手要害山城遠望
西側から見たもので、登城口はこの写真の右側にあり、入口には鳥居が設置されている。
吉田荘
川手要害山城のある吉田の地域は平安末期から鎌倉期において、摂関家の一つ近衛家領(冷泉宮領)の荘園で吉田荘といわれた。
その後、承久の乱が勃発した後、いわゆる新補地頭として佐々木氏の一族である佐々木四郎左衛門尉が、恩賞地として吉田荘内に140丁余りを賜った。ちなみに安来地域ではこのほかに、因幡左衛門大夫が宇賀荘を、松田九郎の子息が安来荘などを賜っている。
【写真左】鳥瞰図
資料『出雲の山城』に掲載されている縄張図を基に、作図してみたもの。
小規模な割に複雑な縄張りである。
【写真左】登城口
当城の西南付近にあり、入口には鳥居が建っている。これは後に紹介する主郭に祀られた祠(社)があるためである。
出雲・吉田氏
先ごろ発刊された「出雲の山城」でも当城が紹介されているが、同書によると当地吉田の谷を領有していた吉田氏は、戦国期尼子氏との間に婚姻関係を進めたとされている。
この吉田氏が前記した佐々木氏の系譜で、佐々木義清(玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)参照)の弟・厳秀(別名・佐々木六郎)が、吉田に住して吉田六郎と名乗り、出雲吉田氏の始祖となった。
実際に当地に赴いたのが、六郎の子で前記した佐々木四郎左衛門尉、すなわち、吉田四郎左衛門泰秀である。
【写真左】西側の郭段
川手要害山城は、比高はわずか30mで、東西およそ300m、南北150m前後の小規模な城砦であるが、変化に富んだ構造となっている。
また、東西に郭群が伸びているが、中央の鞍部となった空堀及び削平地で二つに区画された郭群として配置されており、主郭にあたる部分は西側の郭群に配置されている。
下って室町期に起こった明徳の乱(1391)において、幕府方に属して功を挙げた京極高詮が出雲守護となったとき、高詮は弟の高久の子・持久を守護代として出雲に下向させたが、このとき吉田荘地頭吉田氏も尼子氏(持久)に臣従していたといわれる。その後吉田氏は代々尼子氏の家臣として活躍していくことになる。
後段で紹介している永禄年間における毛利氏による尼子攻め(富田城三面攻撃)の際、その末孫・吉田八郎左衛門は、「お子守口」の前線で活躍し、永禄9年(1566)の富田城落城後、尼子義久三兄弟が毛利方によって杵築まで護送されるときには、随行者の名簿に吉田八郎右衛門、吉田三郎右衛門兄弟らの名も見える。
【写真左】主郭に向かう坂道
登城道は予想以上に傾斜があり、従って途中の各郭面から上部の郭までは切崖状となっている。
尼子十砦
ところで、以前にも紹介したように、尼子氏の本拠城・月山富田城の周辺には、本城を守備する支城などが配置されているが、これらを称して「尼子十砦(じっさい)」といった。
尼子十砦は配置された地域によって、次の2つに分けられる。
(1)飯梨川(月山富田城の西麓を流れる川)沿いに分布するもの。
最高所に当たる位置で、祠のある郭の廻りには、北~西~南に小郭が取り巻き、東側には土塁が囲繞する(下の写真)。
【写真左】主郭・その2
東側の土塁
写真左側にあるが、土塁のさらに下方は切崖となって堀切が南北を横断している(下の写真)。
これら二つの川は、月山富田城を挟むように流れている。ただ全体には東方若しくは南東部を扼する位置に築かれている。このことから、尼子氏としては敵の侵入経路は中海を伝った日本海側や、隣国・伯耆国及び、南東方向にあたる美作国からの攻めを意識していたものと思われる。
【写真左】主郭側から空堀を見る。
この辺りの切崖は急傾斜となっており、弱点である比高の低さを補っている。
のちほどこの箇所を紹介する。
これに対し、今稿で取り上げる川手要害山城は、二つの河川に挟まれた吉田川の上流部に築かれた城砦である。
吉田川沿いには当城・川手要害山城とは別に、近接して甲山城、田中要害山城、正福寺裏城といった城砦も築かれていた。これら諸城が前記した吉田氏時代にすべて築城されたかどうかはっきりしないが、要所であった当城・川手要害山城は吉田氏によって築城された可能性もある。
【写真左】井戸跡か
主郭から少し南方へ移動したところ、ご覧の陥没したような穴があった。
直径4m前後はあるだろう。ただ、井戸にしては内部の施工が粗雑である。「出雲の山城」では、井戸もしくは狼煙の施設の可能性もあるとしている。
このあと、南側から直下の郭群に降りて、主郭を取り巻くように、西側から北側へと移動する。
ところで、吉田川と並行して走る現在の布部・安来線(257号線)を遡り、峠を越えると宇波に至り、ここから布部に繋がる。そのため、上吉田町側から月山富田城の東方に聳える独松山の南麓を越え新宮党が本拠とする新宮谷に侵攻することができる。つまり、尼子十砦が防御するラインだけでは十分でないことがわかる。
おそらくこうした弱点をカバーする目的として、特に川手要害山城を含めた上・下吉田町の城砦は、当初宇波の宇波城(うなみ)跡・島根県安来市広瀬町宇波と常に連絡を取りながら、月山富田城の裏手に当たる南東方面の守りとしての役目を負っていたのではないかと考えられる。
【写真左】主郭から下に降りて空堀に向かう。
写真右側の斜面の上に主郭があるが、空堀の最低部から主郭の土塁天端まではおそらく10m前後はあるだろう。
見ごたえがある。
【写真左】空堀
南側から見たもので、主郭は左にある。なお、この空堀は長大なもので長さ100m近くはあろうか。
このあと、空堀を横断して東側の郭群に向かう。
永禄年間の毛利氏による尼子攻め
永禄3年(1560)、月山富田城の城主・尼子晴久が急逝した。晴久の跡を継いだのが嫡男・義久である。これまで度々述べたように、義久の代になると尼子氏は急激に勢威が衰えていく。月山富田城を中心としてきた支配地の地元出雲国東方部は堅持するものの、東隣伯耆国においては日野郡の江尾城主・蜂塚右衛門尉(江尾城(鳥取県日野郡江府町江尾)参照)や、東伯郡の八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の吉田源四郎を除いて、他は悉く毛利方に属するようになった。
【写真左】削平地
東西20m×南北10mの規模を持つもので、当城の郭の中でもっとも整地された箇所。
ここから東に向かうと、次の郭が続く。
永禄8年(1566)8月6日、尼子氏譜代の家臣でもなかったが、最期まで忠義を尽くした蜂塚右衛門尉は、毛利方による強力な鉄砲攻撃によって大敗、江尾城は落城、自刃した。
ところで、江尾城の攻防が繰り広げられていたころ、毛利方はほとんど石見国を押さえ、益田藤兼らに富田城攻めを催促し、さらなる富田城包囲網を形成しつつあった。江尾城落城の17日後、安芸吉田で療養中であった元就は、富田城の攻略の目途が立った報せを受け、元春・隆景らに対し、最後まで手抜かりなきよう、包囲の強化を命じた(「萩閥53」)。
【写真左】東郭群の切崖
先ほどの削平地から比高5m前後の高さをもっているが、切崖は険しくない。
今稿の川手要害山城もこの永禄7,8年頃には既に毛利方の手中に入っていたものと思われ、富田城落城後は廃城になったものと思われる。
【写真左】更に高くなった郭段
上に辿りつくと、さらにもう一段高くなっている。
ここから北に向かって細く伸びているので、そのまま進む。
【写真左】堀切・その1
この箇所は北に向かって尾根が伸びているが、ここで鋭角に切り取られた見事な堀切が見える。
【写真左】堀切・その2
小規模な城砦だが、遺構の密度が高く、整備されればもっと見どころの多いものになるだろう。
【写真左】南側から遠望する。
おそらく中央の低くなったところで、西郭群と東郭群に分かれていると思われる。
なお、周辺部は土地改良された田園が拡がっているが、荘園時代から、この手前の小川と、北側にある小川などが水運の役目をしていたのではないかと考えられる。
そして、これらの川を使って本流吉田川に入り、そのまま船で中海・日本海まで船によって往来していたのではないかと考えられる。
同じような状況としては、戦国期尼子氏の居城・月山富田城の西麓を流れる飯梨川がその役割を果たしていた。
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黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)
●所在地 島根県安来市上吉田町
●高さ 50m(比高30m)
●築城期 鎌倉期か
●築城者 吉田氏か
●城主 吉田氏、毛利氏か
●遺構 土塁・虎口・郭・堀切・横堀
●登城日 2014年4月12日
◆解説(参考文献「安来市誌上巻」「出雲の山城」、サイト「城郭放浪記」・「島根県遺跡データベース」等)
川手要害山城は、月山富田城の東方を流れる吉田川沿いに築かれた小規模な城砦である。
【写真左】川手要害山城遠望
西側から見たもので、登城口はこの写真の右側にあり、入口には鳥居が設置されている。
吉田荘
川手要害山城のある吉田の地域は平安末期から鎌倉期において、摂関家の一つ近衛家領(冷泉宮領)の荘園で吉田荘といわれた。
その後、承久の乱が勃発した後、いわゆる新補地頭として佐々木氏の一族である佐々木四郎左衛門尉が、恩賞地として吉田荘内に140丁余りを賜った。ちなみに安来地域ではこのほかに、因幡左衛門大夫が宇賀荘を、松田九郎の子息が安来荘などを賜っている。
資料『出雲の山城』に掲載されている縄張図を基に、作図してみたもの。
小規模な割に複雑な縄張りである。
【写真左】登城口
当城の西南付近にあり、入口には鳥居が建っている。これは後に紹介する主郭に祀られた祠(社)があるためである。
出雲・吉田氏
先ごろ発刊された「出雲の山城」でも当城が紹介されているが、同書によると当地吉田の谷を領有していた吉田氏は、戦国期尼子氏との間に婚姻関係を進めたとされている。
この吉田氏が前記した佐々木氏の系譜で、佐々木義清(玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)参照)の弟・厳秀(別名・佐々木六郎)が、吉田に住して吉田六郎と名乗り、出雲吉田氏の始祖となった。
実際に当地に赴いたのが、六郎の子で前記した佐々木四郎左衛門尉、すなわち、吉田四郎左衛門泰秀である。
【写真左】西側の郭段
川手要害山城は、比高はわずか30mで、東西およそ300m、南北150m前後の小規模な城砦であるが、変化に富んだ構造となっている。
また、東西に郭群が伸びているが、中央の鞍部となった空堀及び削平地で二つに区画された郭群として配置されており、主郭にあたる部分は西側の郭群に配置されている。
下って室町期に起こった明徳の乱(1391)において、幕府方に属して功を挙げた京極高詮が出雲守護となったとき、高詮は弟の高久の子・持久を守護代として出雲に下向させたが、このとき吉田荘地頭吉田氏も尼子氏(持久)に臣従していたといわれる。その後吉田氏は代々尼子氏の家臣として活躍していくことになる。
後段で紹介している永禄年間における毛利氏による尼子攻め(富田城三面攻撃)の際、その末孫・吉田八郎左衛門は、「お子守口」の前線で活躍し、永禄9年(1566)の富田城落城後、尼子義久三兄弟が毛利方によって杵築まで護送されるときには、随行者の名簿に吉田八郎右衛門、吉田三郎右衛門兄弟らの名も見える。
【写真左】主郭に向かう坂道
登城道は予想以上に傾斜があり、従って途中の各郭面から上部の郭までは切崖状となっている。
尼子十砦
ところで、以前にも紹介したように、尼子氏の本拠城・月山富田城の周辺には、本城を守備する支城などが配置されているが、これらを称して「尼子十砦(じっさい)」といった。
尼子十砦は配置された地域によって、次の2つに分けられる。
(1)飯梨川(月山富田城の西麓を流れる川)沿いに分布するもの。
- 神庭横山城
- 勝山城(出雲・勝山城(島根県安来市広瀬町石原)参照)
- 三笠山城
- 寺山城
(2)伯太川(飯梨川より東方を流れる水系)沿いに分布するもの。
【写真左】主郭・その1最高所に当たる位置で、祠のある郭の廻りには、北~西~南に小郭が取り巻き、東側には土塁が囲繞する(下の写真)。
【写真左】主郭・その2
東側の土塁
写真左側にあるが、土塁のさらに下方は切崖となって堀切が南北を横断している(下の写真)。
これら二つの川は、月山富田城を挟むように流れている。ただ全体には東方若しくは南東部を扼する位置に築かれている。このことから、尼子氏としては敵の侵入経路は中海を伝った日本海側や、隣国・伯耆国及び、南東方向にあたる美作国からの攻めを意識していたものと思われる。
【写真左】主郭側から空堀を見る。
この辺りの切崖は急傾斜となっており、弱点である比高の低さを補っている。
のちほどこの箇所を紹介する。
これに対し、今稿で取り上げる川手要害山城は、二つの河川に挟まれた吉田川の上流部に築かれた城砦である。
吉田川沿いには当城・川手要害山城とは別に、近接して甲山城、田中要害山城、正福寺裏城といった城砦も築かれていた。これら諸城が前記した吉田氏時代にすべて築城されたかどうかはっきりしないが、要所であった当城・川手要害山城は吉田氏によって築城された可能性もある。
【写真左】井戸跡か
主郭から少し南方へ移動したところ、ご覧の陥没したような穴があった。
直径4m前後はあるだろう。ただ、井戸にしては内部の施工が粗雑である。「出雲の山城」では、井戸もしくは狼煙の施設の可能性もあるとしている。
このあと、南側から直下の郭群に降りて、主郭を取り巻くように、西側から北側へと移動する。
ところで、吉田川と並行して走る現在の布部・安来線(257号線)を遡り、峠を越えると宇波に至り、ここから布部に繋がる。そのため、上吉田町側から月山富田城の東方に聳える独松山の南麓を越え新宮党が本拠とする新宮谷に侵攻することができる。つまり、尼子十砦が防御するラインだけでは十分でないことがわかる。
おそらくこうした弱点をカバーする目的として、特に川手要害山城を含めた上・下吉田町の城砦は、当初宇波の宇波城(うなみ)跡・島根県安来市広瀬町宇波と常に連絡を取りながら、月山富田城の裏手に当たる南東方面の守りとしての役目を負っていたのではないかと考えられる。
【写真左】主郭から下に降りて空堀に向かう。
写真右側の斜面の上に主郭があるが、空堀の最低部から主郭の土塁天端まではおそらく10m前後はあるだろう。
見ごたえがある。
【写真左】空堀
南側から見たもので、主郭は左にある。なお、この空堀は長大なもので長さ100m近くはあろうか。
このあと、空堀を横断して東側の郭群に向かう。
永禄年間の毛利氏による尼子攻め
永禄3年(1560)、月山富田城の城主・尼子晴久が急逝した。晴久の跡を継いだのが嫡男・義久である。これまで度々述べたように、義久の代になると尼子氏は急激に勢威が衰えていく。月山富田城を中心としてきた支配地の地元出雲国東方部は堅持するものの、東隣伯耆国においては日野郡の江尾城主・蜂塚右衛門尉(江尾城(鳥取県日野郡江府町江尾)参照)や、東伯郡の八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の吉田源四郎を除いて、他は悉く毛利方に属するようになった。
【写真左】削平地
東西20m×南北10mの規模を持つもので、当城の郭の中でもっとも整地された箇所。
ここから東に向かうと、次の郭が続く。
永禄8年(1566)8月6日、尼子氏譜代の家臣でもなかったが、最期まで忠義を尽くした蜂塚右衛門尉は、毛利方による強力な鉄砲攻撃によって大敗、江尾城は落城、自刃した。
ところで、江尾城の攻防が繰り広げられていたころ、毛利方はほとんど石見国を押さえ、益田藤兼らに富田城攻めを催促し、さらなる富田城包囲網を形成しつつあった。江尾城落城の17日後、安芸吉田で療養中であった元就は、富田城の攻略の目途が立った報せを受け、元春・隆景らに対し、最後まで手抜かりなきよう、包囲の強化を命じた(「萩閥53」)。
【写真左】東郭群の切崖
先ほどの削平地から比高5m前後の高さをもっているが、切崖は険しくない。
今稿の川手要害山城もこの永禄7,8年頃には既に毛利方の手中に入っていたものと思われ、富田城落城後は廃城になったものと思われる。
【写真左】更に高くなった郭段
上に辿りつくと、さらにもう一段高くなっている。
ここから北に向かって細く伸びているので、そのまま進む。
【写真左】堀切・その1
この箇所は北に向かって尾根が伸びているが、ここで鋭角に切り取られた見事な堀切が見える。
【写真左】堀切・その2
小規模な城砦だが、遺構の密度が高く、整備されればもっと見どころの多いものになるだろう。
【写真左】南側から遠望する。
おそらく中央の低くなったところで、西郭群と東郭群に分かれていると思われる。
なお、周辺部は土地改良された田園が拡がっているが、荘園時代から、この手前の小川と、北側にある小川などが水運の役目をしていたのではないかと考えられる。
そして、これらの川を使って本流吉田川に入り、そのまま船で中海・日本海まで船によって往来していたのではないかと考えられる。
同じような状況としては、戦国期尼子氏の居城・月山富田城の西麓を流れる飯梨川がその役割を果たしていた。
◎関連投稿
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