2014年8月1日金曜日

須所八幡山城(島根県雲南市三刀屋町須所)

須所八幡山城(すぞはちまんやまじょう)

●所在地 島根県雲南市三刀屋町須所
●高さ 290m(比高50m)
●別名 羽山城か
●築城期 不明
●築城者 不明
●遺構 土塁・郭(馬出し状)・堀切・砦郭等
●備考 須所八幡神社
●登城日 2014年5月10日

◆解説(参考文献『掛合町誌』、『日本城郭体系第14巻』等)
 須所八幡山城は、以前紹介した多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)から、島根県道176号線(掛合大東線)を5キロ程南下した須所(すぞ)に所在する小規模な城砦である。
【写真左】須所八幡山城と須所八幡神社遠望
 南側から見たもので、手前の道路は、名称が不明だが、奥に進むと坂本に繋がり、国道54号線と合流する。


須所


 中世史の中で、須所(すぞ)という地名がはじめて文献上で想定されるのが、「千家文書」の中の、文永8年(127111月「出雲国杵築大社御三月会相撲舞頭役結番事」である。


 この中で、当時の荘郷名として飯石郷というのがあるが、その対象地域として、多久和・中野・六重・神代と併せ須所が比定地といわれている。時の支配者は守護佐々木泰清の被官とされる目黒左衛門道子である。
【写真左】須所八幡神社
 北東に伸びる尾根の東麓部に祀られている社で、本殿はさほど大きなものではないが、地元の方々によって境内含め綺麗に管理されている。

 下って室町期の法王寺文書「文明5年(1473)8月16日付幕府奉行人奉書」によると、子細は不明だが、幕府が牛蔵寺(後の出雲市野尻の法王寺)領を還補し、尼子清貞をはじめ、多賀氏一族等に布達している。

 このうち、多賀穴見に対しては、坂本村内酢園村の横妨を停止させているが、この坂本村というのが中世には、宮内・殿河内・須所など現在の三刀屋町南西部の区域とされている。

【写真左】注連縄
 八幡宮だが出雲にあるため、注連縄も出雲大社風?になっている。








掛合・大東線(県道176号線)


 さて、現在出雲・松江方面から広島県三次市方面を結ぶ道路としては、国道54号線や、最近開通した中国横断自動車道松江・尾道線などが最も多く利用されている。

 中世特に戦国期に至って尼子・毛利の戦いが繰り広げられた際、上記の国道54号線のルートは度々利用されたと思われるが、毛利方の侵攻を基準に考えると、出雲部の掛合に入ってからは、少し外れたルートが主にとられた。それが冒頭で紹介した掛合大東線(県道176号線、以下「176号線」とする。)である。

【写真左】県道176号線(掛合大東線)・その1
 須所八幡山城の南方側から見たもので、この道を少し先に進むと、右側に当城が見えてくる。



 毛利方が広瀬の月山富田城に向かう際、掛合まで至ると、ここからこの176号線を進み、須所を横切り、そのまま北東に進むと、三刀屋町多久和の多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)に繋がる。

 この区間には、今稿の須所八幡山城や、志源京城、羽山城、城の谷城、福谷城、福谷川原上城などがこの街道をはさむように点在している。
【写真左】県道176号線(掛合大東線)・その2
 須所から掛合方面を見る。国道54号線の掛合側からこの道に入ると、すぐにカーブを2,3回繰り返す峠があるが、それを過ぎると比較的緩やかな道となる。

 ただ幅員は狭いので、場所によっては対向車とすれ違う際注意が必要となる。




 そして、多久和城を過ぎ、峠を越えると熊谷の斐伊川に突き当たる。ここから渡河して東岸の西日登に入り、狭い谷間の中小の峠を越えると、大東の阿用に出てくる。ここまでが176号線である。

 このあと、月山富田城方を攻める際、県道24号線沿いを進み、大東町北村の分岐点(海潮)で、県道53号線を使って八雲町熊野(松江市)方面へ、もう一つはそのまま24号線を北上し、中海の南岸側からのルートなどが使われた。
【写真左】この辺りから踏みこむ。
 当城には城名などを示す標識などは全くない。このため、勘を頼りに最高所(主郭)をめざした。

 当城東麓側は、八幡宮と併せ南隣は畑地や休耕地があり、そこから次第に傾斜を伴って尾根に繋がる。

 

須所八幡山城と羽山城
 
 ところで、須所八幡山城は麓に鎮座する須所八幡神社があることからこの城名となったと思われるが、別説では当城は羽山城ではないかともいわれている。

 島根県遺跡データベースでは、須所八幡山城と、羽山城はそれぞれ単独に登録されているが、羽山城の北尾根筋の先端部に須所八幡山城が築かれていることから、当城は羽山城の出丸か、一城別郭の城郭であった可能性もある。
【写真左】尾根ピークを目指す。
 ここから急傾斜となり、直登を避け九十九折しながら進む。
【写真左】北東端の郭
 九十九折しながら登ったものの、結果的に尾根の突端部、すなわち当城の北東端にたどり着いた。

 この辺りには小郭が2,3段の形を残し、先端部は切崖状となっている。

 ここから振り返って、南西方向に主郭を目指す。
【写真左】主郭方向に伸びる尾根。
 この位置からほぼ真っ直ぐに尾根が見えるが、「馬の背」となって次第に細尾根になっている。
【写真左】土橋か
 細尾根というより土橋に近い。両側の法面は急傾斜で、特に左(東側)は切崖となっている。
 規模は大きくないが、見ごたえがある。

 孟宗竹が繁茂し根を張っているため、この遺構が維持されているような感じた。

【写真左】ここから登り勾配
 この辺りから文字通り藪コギとなっており、少し険しい登り勾配。
 孟宗竹に捕まりながら高度を稼ぐ。
【写真左】土塁か
 竹と竹の間を潜り抜けると、やっと平坦地が出てくる。
 東側の方に結果的に進んで行ったが、こちらの方には高さ1m前後の土塁状の痕跡が認められる。
 ここから再び中央部に方向を変えて進む。
【写真左】主郭付近
 既に主郭付近に来ているが、ご覧の通り、ここで再び絶句するような藪コギ行進を強いられる。
 
 衣服も相当引っかかれ、腕に擦り傷も受けたが、こうなったら半ばヤケクソの気分になる。今さら引き返せない。頭を少し低くしながら突進。
【写真左】主郭
 難所を潜り抜けると、後背に土壇を設けた最高所・主郭にたどり着いた。
 中央に地蔵、左側には石碑、右にも小さな地蔵が祀られている。
 
 先ほどの藪コギ付近も含め、ここまで奥行が40m前後ある。形状は南の幅がひろい三角形をしている郭である。
 この奥に腰郭らしき削平地が見えたので、左側の斜面を伝って降りてみる。
【写真左】腰郭
 主郭も含め、この下段にある腰郭の軸も当城の尾根ラインに沿って配置されている。
 このまま南(左)に進むと、羽山城の尾根に繋がるが、現在鞍部となった箇所には民家が数軒建っている。

 おそらくこの箇所にはかなり大きな堀切があったのではないかと思われるが、現在民家を含め畑地などに改変されているため、当時の様子はうかがい知ることは出来ない。

【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
 腰郭から主郭までの比高差は約7,8mあるが、切崖である。

 また、東側にも郭が少し回り込んでいるが、その東端部はさらに傾斜のついた切崖で、当城は全体に東側の防禦に意が用いられている。


 こうしたことを考えると、後半期には対尼子氏を意識した毛利方の城砦ではなかったかと考えられる。

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