2021年11月20日土曜日

備後・長崎城(広島県尾道市因島土生町)

備後・長崎城(びんご・ながさきじょう)

●所在地 広島県尾道市因島土生町2254-6
●高さ 15m(比高15m)
●形態 海城
●築城期 室町前期(15世紀初頭)
●築城者 村上新左衛門か
●城主 因島村上氏
●史跡 広島県史跡
●遺構 船繋留用杭等
●備考 ナティーク城山
●登城日 2017年4月5日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第13巻」等)
 備後・長崎城(以下「長崎城」とする。)は瀬戸内の因島南西側に所在する水軍城(海城)で、三島村上氏の一つ、因島村上水軍の初期の居城といわれている。
【写真左】長崎城
 中央奥の建物がホテル「ナティーク城山」で、ホテルの右側が少し海側に突き出している。




現地の説明板より・その1

“広島県史跡
因島村上氏の城跡(長崎城跡)

 因島村上氏の重要な拠点として重なり合った島々と、潮流の天然の条件で燧灘方面に活躍する典型的水軍基地である。
 海岸に面した岸盤には往時船を繋留するのに用いた杭の跡が認められる。
【写真左】下から見上げる。
 側面はコンクリート壁となっており、現地に立つとほぼ垂直に見える。上にホテルがある。



 現地の説明板より・その2

“村上水軍

 村上水軍には「因島村上」「能島村上」「来島村上」の三島村上家がある。
 室町時代から戦国時代にかけて、布刈瀬戸と尾道水道をおさえ、ここを通る船から通行税を徴収し、水先案内をするなど海の猛者として威勢を振るった。
 八幡大菩薩の旗をかかげ朝鮮中国から遠く東南アジアまで押し渡り「倭冠」の名を海外に轟かせた。また、中国地方の雄“毛利元就”を助け「厳島の合戦」で毛利軍に勝利させた。
因島島内には多くの城跡があり、往時の活躍が偲ばれる。
 当ホテル「ナティーク城山」は因島村上水軍の本城「長崎城」跡(広島県史跡)に建っている。
                            ナティーク城山“
【写真左】説明板
 この長崎城(ホテル)周辺は通りが狭く、多くの建物が密集していて長崎城の遠望写真が撮りづらい。





因島村上水軍

 長崎城の城主因島村上水軍については、既に千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)余崎城(広島県尾道市向島町立花)などでも紹介しているが、長崎城は因島村上水軍が初期に築城したものではないかとしている(「日本城郭体系 第13巻」)。

 そしてその時期は15世紀前半ごろであったとしている。その理由は、それまでの因島、弓削島などの島々は小早川氏(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の勢力が強く、一時は伊予側の島嶼までもが同氏(小早川氏)が扶植していたといわれ、15世紀に入ると、小早川氏に代わって三島村上氏の勢力が拡大していったことが種々の文書で明らかになっている。
【写真左】ホテルの方へ向かう。
 下から階段を使ってホテル・ナティーク城山の方へ登って行く。






 具体的には応永27年(1420)、それまでの小早川氏庶家・小泉氏に代わり、来島村上氏(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の流れを持つ者が弓削荘(現在の弓削島)の所務代官職を得ており、さらに因島村上氏の菩提寺・金蓮寺(下の写真参照)に残る宝徳元年(1449)の棟札には同所の領主として因島村上吉資の名が記されている。
【写真左】金蓮寺墓地にある村上水軍の墓石群
 現在水軍史料館や模擬天守などが建つ「因島水軍城」(尾道市因島中庄町3228)エリアに金蓮寺があり、その境内に建立されている。

 金蓮寺は元々中庄町東南・外浦町の谷間にあって、この地に移転した際、それまで分散していた墓石・石塔類をこちらに移したという。


 そして、同年(宝徳元年)小早川惣領家、すなわち沼田小早川家の煕平(ひろひら)米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)参照)は、東寺からの申し出により幕府から因島地頭職を明け渡すよう再三にわたって命ぜられている。

 この理由ははっきりしないが、この当時、東寺の荘園であった弓削島(「塩の荘園」と呼ばれた)が小早川氏領内に近接しており、このため小早川氏が横妨してしてきた背景があると思われ、それを荘園領主であった東寺が幕府に訴えていったものと思われる。
 またちょうどこの年に室町幕府は8代将軍に足利義成(のちの義政)が任命されているので、このタイミングに合わせて、東寺が訴えたものと思われる。
【写真左】先端部周辺・その1
 少し海側に突き出した形が残っているので、この付近は物見櫓的な場所だったのだろう。
 対岸は愛媛県側の生名島。

遺構

 写真でも分かるように現在は「ナティーク城山」というホテルが建っており、長崎城の城域だったと思われる大部分をホテルが占有している。件のホテルが建つ前はその隣にある日立造船因島工場の敷地となっていた。このためこの造船工場ができた段階で主だった遺構は消滅していた可能性が高い。
【写真左】先端部周辺・その2
 上の写真よりさらに北方方面を見たもので、中央に見える小さな島は鶴島、左側が生名島。




 しかし、ホテルが建っているものの、その小高い小丘部分は当時の面影を残すもので、小規模ながらこの場所が、備後(因島)と伊予(生名島・弓削島)といった島嶼に挟まれた水道の国境を監視する上でも重要な場所であったことは間違いないだろう。
【写真左】長崎城(ナティーク城山)からフェリー乗り場を見る。
 この場所はフェリー乗り場となっており、生名島・弓削島・佐島方面に運航する船が発着する。
【写真左】下を見る。
 赤いデッキは、フェリー乗り場で、ここから生名島などに向かって運航されている。
【写真左】南側から遠望する。
【写真左】下から見上げる。
 高さは15m前後とされるが、ほぼ垂直の傾斜なので、威圧感がある。
【写真左】長崎城側から対岸の生名島を見る。
 左側に立石港が見える。
 その奥に霞んで見える山は、生名島の西隣にある岩城島の山で、近年桜の名所として有名になった積善山。

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