2010年7月10日土曜日

別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)

別当城(べっとうじょう)

●所在地 島根県邑智郡邑南町和田下和田
●登城日 2010年1月3日
●築城期 貞応2年(1223)前後
●築城者 久永荘荘官
●標高 437m(比高277m)
●遺構 郭、帯郭、腰郭、土塁、堀切

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
 このところ広島県の山城が続いたので、久しぶりに島根県の山城をとりあげる。

 別当城は、前稿「生田・高橋城」で取り上げた高橋氏も絡んだ山城で、所在地は「生田・高橋城」から国境を越えた石見(島根県)の旧瑞穂町といわれた邑南町にある。
 先ず、概略について現地に設置された説明板より転載する。
【写真左】別当城遠望
 別当城の西麓を流れる出羽川付近から撮ったもので、山容としては屹立したものではないが、築城当時、この後背にある藤掛城の動きを知るためには、地理的にこの場所が最適な場所だったのだろう。


別当城跡
 別当城は、鎌倉時代中頃(13世紀後半)この地域に勢力を広げつつあった出羽氏(二つ山城主)に対抗し、加茂社領久永(ひさなが)荘の別当(荘官)和田氏により築かれたと伝えられる。

 正平16年(1361)二ツ山城を攻略し、出羽郷を領有した阿須那高橋氏にとって、この城は高見地区に進出した小笠原氏(川本)に対する拠点の城として、重要な位置を占めていた。
【写真左】別当城縄張図
 登城ルートは、同図の下部左側に伸びる郭段になる。遺構名としては、本丸・副丸・二の丸・三の丸・四の丸などが記録されている。




 享禄3年(1530)、高橋氏を滅亡させた毛利元就は、強大な勢力となり、やがて石見に進出し、尼子方である小笠原氏と対峙することとなる。

 永禄元年(1558)、毛利の先陣吉川元春は、二ツ山城を本陣として下出羽まで進出し、小笠原氏の拠点黒岩(安田)城を攻略しようとした。これに対して、尼子方の援軍(本城・湯・宇山・牛尾氏ら)は、この別当城に陣を置き、出羽川を挟んで対峙し激戦を戦ったが、戦況不利となり退却した。小笠原氏も川本へ退去した。これを出羽合戦という。

 別当城の今日の姿は、この出羽合戦に際し、尼子の援軍により陣城として改修された時のものであり、郭群の配置に陣城としての特徴をよく残している。
  平成16年11月  下和田集落”


久永荘

 説明板にある加茂(賀茂)社領久永荘とは、別当城のある当地・和田下和田は当然含まれるが、その範囲は確定していない。「石見誌」という史料では、阿須那・高原・出羽・田所・井原・中野・矢上とかなり大きな区域とし、この中の中心を井原・中野・矢上としている。

 この根拠としているのが、邑智郡内に点在している賀茂神社の存在であるが、「石見町誌・上巻」ではそれについて疑問を呈している。地名が消失していると、記録に残らない限り、以外と比定が困難になる。
【写真左】登山道入口
 この位置から約700mとなっている。









久永荘については、当時私営田領主が国司の収奪や、農民の勢力増大から逃れるため、所領を京都賀茂神社に寄進し、自己の保身を図ったものといわれ、その時期は11~12世紀の半ばごろ、すなわち平安後期から鎌倉初期とされる。

 具体的に残る久永荘に言及した記録としては、「賀茂注進雑記」に
 「文治2年(1186)10月1日、源頼朝によって、山城賀茂別雷社領の出雲国福田荘・石見国久永荘の地頭が新儀を行うことをやめさせる。」 とある。

 この中の石見国久永荘が別当城のある地域で、もうひとつの出雲国福田荘とは、現在の島根県雲南市加茂町にあたり、「加茂」町の地名も、件の賀茂(加茂)社領であったことからきたものと考えられる。参考までに、当地にはこのほかに、「宇治」という名称を持つ地区や、貴船神社などもある。
【写真左】登城途中にある「井戸跡」
 写真の右側に「井戸跡」の標識があるが、笹で覆われはっきりと確認できなかった。

 なお、この写真にもあるように、この個所は土橋状の遺構と思われ、左側には人工的な削平地が数段確認できるので、屋敷跡とも考えられる。


出羽氏(富永氏)・高橋氏及び和田氏

 さて、地頭が新儀を行うことをやめさせる、とはおそらく社領時代に行われていた行事と思われ、平家の影響を受けた行事などを、頼朝が徹底的に排除していったことの一つと思われる。

 出羽氏については、以前にも記したように貞応2年(1223)に「二ツ山城」を築いた一族であるが、もとは富永氏といわれている。治承4年(1180)、すなわち源頼朝が、伊豆で挙兵した年に当たるが、この年、富永祐純は近江国(滋賀県)野洲郡三上から、この久永(瑞穂町)へ配流されている。
【写真左】二の丸から北方に本丸を見る
 規模はさほど大きなものではないが、定期的に管理されているようで、分かりやすい。



 配流であるから、論功行賞による入部でなく、敵対する平氏側であったと思われる。ただ、その後地頭として補任された、とあるので、承久の乱などで、戦功を挙げたかもしれない。同じ時期に近くで入ってきたのは、隣国安芸の「壬生城」の壬生氏本家である山県氏である。

富永氏については、以前取り上げた大田市の「富山城(2009年12月17日投稿)」の築城者・富永元保が戦国期に活躍しているが、久永(瑞穂町)荘を中心として活動した富永氏は、姓を当地名から「出羽(氏)」と改めた。
 出羽氏に対抗した荘官とは、別当であり、加茂社領時代の荘園を実際に管理運営する分掌を司った人物と思われる。説明板には、その一族が「和田氏」ではないかと記されている。
【写真左】本丸跡
 広さは約15m四方のもので、写真の左(北方)本丸下段には「副丸」という郭があり、さらに下がると空堀が構築されているということだが、現地は雑木で踏破は困難。

 桜の木のようなものが植えてあり、ベンチが数脚設置されている。



 出羽城を訪れ、下山した折り、付近の畑におられた老婦人に少し話を聞くことができたが、この方の姓も和田で、自分の家の代も大分古く、現在が何代目かわからないぐらい古いという。近くには本家もあり、さらに古いというからおそらく20数代を数えるのではないだろうか。
【写真左】別当城から南南西方面を見る
 写真の右側には「二ツ山城」があるが、現地からは見えないようだ。後方の雪をかぶった山並みを越えると、安芸(広島県)になる。



別当城を築いたとされるこの荘官・和田氏(もしくは後の高橋氏の家臣・野田氏の先祖)は、出羽氏の社領侵害に対して、この城を本拠とし抗戦したようだが、結果として出羽氏が当地も扶植しているので、和田氏らも出羽氏の配下に入ったと思われる。
 その後の経緯については、以前にも記したように出羽氏は高橋氏に凌駕され、当地はしばらく高橋氏の支配となる。

戦国期

 戦国期になると、毛利元就が石見に進出し、吉川元春が川本町の温湯城を攻めはじめる。永禄元年(1558)2月、当時佐田(現出雲市)の高櫓城主であった本城常光(高橋元光の子)は、小笠原氏を支援すべく、尼子方の武将宇山・牛尾らと別当城に拠り、二ツ山城に拠る吉川元春や、熊谷・天野・杉原・出羽・福屋・佐波らと対戦した。

 小笠原氏は高見・八色石・布施・村之郷方面に布陣したが、吉川方の分断作戦によって総退却を余儀なくされ、のちに小笠原長雄は降伏することになる。


出羽ハガネ

 ところで、別当城のある地域も含め、現在の邑南町は鎌倉期から良質な鋼を産出し、「出羽鋼(いずわはがね)」としてその名をとどろかせていたという。当然、当地には優秀な刀工が輩出した。

今でこそ、良質な鋼は、同県の安来ハガネという出雲(奥出雲)が有名だが、当時は産出量ではこの出羽鋼が最も多く、平安後期から鎌倉期に入部してきた一族の目的の一つが、このハガネではなかったかと思われる。

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