2010年7月14日水曜日

神主城(島根県江津市二宮町神主)

神主城(かんぬしじょう)

●所在地 島根県江津市二宮町神主
●登城日 2010年1月26日
●築城期 鎌倉期(縄文、弥生、中世等)
●築城主 神主(都野氏)内蔵助
●城主 都野氏、宇津巻氏
●備考 高田城

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系第13巻」等)

 神主城跡は、江津市を走る山陰道・江津道路の南麓にあり、「島根県遺跡データベース」(以下「データベース」とする)では、中世山城跡とは別に、縄文・弥生・中世・近世と幅広い時代に使用された遺跡としても扱っている。
【写真上】現地・江津市二宮町に設置された史跡案内図

 この案内図は大分前に作成されたようで、文字も薄れ読み難いため、管理人によって加工修正している。
 神主城は同図の中央の№26「高田城跡」にあたる。

 なお、この図では他の山城として、中央の川を上ったところに、№9「神村城跡」、№38「羽代城跡」、№39「飯田城跡」が記載されている。

 また、おそらく武将の墓地と思われるものとしては、№7「神村下野守長武公墓所」、№8「山藤美濃守玄英公墓所」、№10「山藤美濃守奥方墓所」、№14「神主兵庫重武之墓所」などが図示されている。



 その理由は、現在国道9号線と並行して走る山陰道の建設当時、この付近を調査したところ各所に古墳が発見され、神主城跡付近も含め各年代が重層する遺跡群であったことからである。(「データベース」のサイトには、調査時の現地写真が数枚紹介されている。)

 また、当城に関しては、「日本城郭大系第13巻」(以下「13巻」とする)では、「神主城」とは別に、同じ所在地ながら「高田城」という城砦が挙げられているものの、場所は図示されていない。
 ただ、この城に関しては、「都野氏の一族大崎民部少輔氏隆の築城で、要害山(標高96m)にあった。」と記している。
 ところが、「データベース」では、「高田城」をこの神主城と同一のものとし、標高は75mとなっている。
【写真左】多鳩神社鳥居
 神主城の南東麓にある神社で、石見国二宮 元県社という。祭神は積羽八重事代主命(通称エビスさん)で、文安年中(1444~48)に現地に奉還したとある。





 標高が違うことを考慮すると、やはり「神主城」と「高田城」は別のものと思われるが、主郭位置は違うものの、同じ稜線上に築かれたと推測される。

 なお、当ブログの標題の項目には、築城者として、「神主(都野氏)内蔵助の築城、のち宇津巻氏の居城」としているが、これは「13巻」からの記載である。
【写真左】神主兵庫重武之墓所
 上記写真(多鳩神社鳥居)の位置にから東に少し歩いた高台に建立されている。

 神主兵庫重武がいつの時代の武将なのか資料がないため判断がつかないが、都野氏と神主氏の関係を考えると、神主氏は都野氏から分家し、主にこの多鳩神社宮司としての職を主とし、戦の際は神主城主たる都野氏に合力していたと考えられる。
【写真左】同上兵庫重武墓石跡
 御覧のように墓石がほとんど破損しているため、何基建立されていたのか不明だが、土台を見る限り宝篋印塔形式のようだ。

 なお、この墓地からさらに上に上っていくと、郭段らしき平坦地が数段確認できたので、神主城の支城跡でもあったかもしれない。



 さて、築城者はどちらにしても都野氏であることは間違いないが、築城期については上記2件の参考資料には記載されていない。そこで、以前取り上げた同じ江津市内にある松山城(島根県江津市)の中で、末尾にこの都野氏を少し紹介しているが、今稿で改めて同氏について整理しておきたい。

 松山城は、江の川河口より6キロ余り上った同川の北岸部に築かれているが、神主城はこの位置から大分離れた江の川の南岸より北西へ5キロ余り入った丘陵地にある。
【写真左】多鳩神社
 規模はさほど大きなものではないが、非常に丁寧に管理されている。
 入口付近には、「石見王と太宰姫」の像が建立されている。

 説明板より

“天平元年(729)左大臣長屋王(天武天皇の孫)は、皇位継承をめぐり藤原氏の策謀によって無実の罪で一族と生涯をとじた。「二宮村史」によれば、孫の石見王は生母太宰姫とこの地に逃れた。

 日夜多鳩神社に帰参を祈り、後子孫大いに栄えたという。この伝説を後世に伝え顕彰する。
 平成14年3月吉日建立 宮の谷自治会”



 松山城については、嘉元元年(1303)、川上(河上)孫二郎が築城されたとしているが、始祖は近江国(滋賀県)から、弘安の役(1281)ののち、当地・川上荘の地頭としてやってきた藤原氏後裔の中原氏とされている

 中原氏には兄弟がおり、兄・房隆、後に名を中原房隆から、当地名をとって件の川上孫二郎房隆と改め、松山城を築く。

 弟の中原三左衛門正隆は、江の川の対岸である都野郷に入って、都野(三左衛門)正隆と名乗り、都野氏の始祖となった。
【写真左】神主城の近くにある「万葉(恵良媛)の里」の歌碑と絵図

 当地も含め、石見は柿本人麻呂に関する史跡が大変に多い。この絵図が設置されているところは、恵良(えら)という地区で、柿本人麻呂が慶雲2年(705)、石見国初代の国守として赴任した際、地元の豪族の娘・恵良媛(ひめ)をみそめ、妻とした。

 上段に見える歌碑はほとんど、恵良媛の歌である。また、この絵図が設置されているところ(同図右側)が、恵良媛生誕の地といわれている。


 神主城は、左側の山で、「高田城・要害山」と記されている。



 今稿で取り上げる神主城は、都野正隆もしくはその子らが築城していると思われるが、当城の前に築きあげたと思われるのが、兄が築いた松山城から江の川沿いを少し下った対岸の月出城と考えられる。

 月出城については、データベースなどには付記されていないが、おそらく別名「都野城」と呼ばれた城跡と考えられ、都野氏の始祖である弟・正隆が築城した可能性が高い。築城期については、したがって兄の松山城築城期と同じ嘉元元年(1303)前後と推測される。

 中原兄弟がそれぞれの領地を治めて間もない興国2年(1341)8月22日に、「都野保通大和田城で北朝党・武田氏俊に降伏する(吉川家文書)。」という記録が見える。
【写真左】神主城遠望
 多鳩神社から戻る際の東南麓から撮ったもので、左側には高圧電線の鉄塔が建っている。





 大和田城とは、前記した松山城より江の川を下った河口付近北側にある山城である。大和田城はおそらく松山城の支城だったと思われる。

 この記録からすれば、このときは北朝方に降伏しているので、直前までは南朝方ということになる。そして武田氏に降伏し、北朝方になったわけである。

 大和田城に拠った都野保通とは、おそらく都野氏始祖・正隆の子、もしくは孫になるのだろう。

 その後、興国4年(1343)3月には、「内田致景都野孫三郎の拠る都野城を3日から18日まで攻囲したことを報ずる(内田)。」とある。

 都野城は、前記したように「月出城」のことと思われるが、おそらく都野氏の当時の本拠城は、この城であった可能性が高いが、確証はない。
【写真左】神主城の中腹付近
 上記写真にみえた鉄塔と思われるが、写真に見える平坦地は鉄塔用に造成されたもので、郭跡ではない。





 さて、上記の大和田城の戦いから2年後のことであるが、内田致景は、高津城(島根県益田市高津町上市)でも記したように、南朝方の武将で二本松城(益田市豊田郷地頭)主である。

 この記録は、北朝方に降った都野氏に対し、南朝方の内田致景が、益田からやって攻撃したという内容である。そしてこの合戦の結果は、下段の記録でもわかるように、南朝方(内田致景)が敗北しているようだ。

 「興国4年、8月21日、 益田兼見、2月2日都野城攻め、翌日縿巻での戦い、7月29日岡見在陣、8月13日同所での軍忠を書き、上野頼兼の証判を求める(益田家文書)。」

 益田兼見は、益田七尾城主で、石見北朝方のリーダーである。上野頼兼は、北朝・足利尊氏方から派遣された将軍である。兼見は各所で戦功を挙げた武将の記録を作成し、派遣将軍・上野頼兼に逐次戦果の報告を行っていた。
【写真左】堀切のような窪み
 現地には神主城という看板もなく、したがって登城路のようなルートは皆無である。
 冒頭で記した縄文・弥生時代の遺跡については、山陰道(江津道路)建設時露出していたかもしれないが、その後は全く手が加えられていないので、荒れ山状態となっている。

 写真に見える部分も明確な形状を残したものでないので、断定はできない。



 正平4年(1349)ごろになると、中央では南北朝の対立に加えて、足利直冬が九州から蜂起し、天下は三つ巴の戦いとなった。

  直冬の下に馳せ参じたのは、以前取り上げた生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)高橋氏のほか、石見で主だった一族としては、三隅兼連・兼繁父子、佐波顕連などがいる。この動きを知った足利尊氏は、その鎮圧のため、高師泰を石見に送った。

 翌正平5年2月、佐波顕連は、三隅・福屋・吉見の諸族と連合し、高師泰側と対峙することになる。このあたりからの動きは戦況が度々変化するため、詳細は省くが、節目となったのは、同年8月25日の夜、佐波方の拠った鼓ヶ﨑(つつみがさき)城を、大場孫三郎(日和の大場氏:小笠原氏麾下で師泰方)らが攻め入り、佐波顕連が討死したことである。

 当時、佐波氏は矢飼城を本拠とし、江の川の周辺部(現在の美郷町区域)から、出雲国赤名・来島まで、また日本海側の邇摩地域までも領有するという広大な勢力を持っていた。

 鼓ヶ﨑城、矢飼城とも、現美郷町の江の川が大きく曲がった位置にあり、矢飼城(矢飼ヶ城)は正治元年(1199)三善氏が築城した山城である。なお、佐波氏のもうひとつの本拠城として知られているのは、鼓ヶ﨑城の1キロ東隣に築かれた「青杉ヶ城」で、この周辺にはこのほか、丸屋城などもあり、戦略的にこの位置からは、江の川沿いの上下流の動きをもっともよく視界にとらえられる場所である。
【写真左】 飯田八幡宮
 神主城の北を走る江津道路を挟んで北西麓にある神社だが、当社が祀られている丘陵は神主城の出丸のような形をしている。

 特に東~北面にかけての傾斜はかなり険峻なもので、位置的に考えると、東西に走っている江津道路付近に堀切などがあった可能性が高い。



 佐波顕連の討死は直冬方にとっては大きなショックであったが、顕連死の翌年・正平6年(1351)2月、石見国から摂津国に帰っていた高師直・師泰兄弟は、上杉頼憲に殺された。

 さて、正平7年(1352)10月30日付で、「足利直冬、内兼成の都野城の軍忠を賞する(萩閥)。」という記録がある。
【写真左】飯田神社から神主城を遠望する。

 江津道路が建設されたため、北側斜面は大幅に改変されている。
 当時飯田神社付近から、神主城本丸方面に向かう登城路や郭段が数カ所設けられていたと考えられるが、痕跡はほとんどないだろう。




 この年は、南北朝期の大きな節目でもある。すなわち、2月26日、足利尊氏は、実弟である直義を鎌倉において毒殺してしまう。

 直冬にとって、実父は尊氏だが、彼には疎んじられ、それをみかねた直義が養子として引き取ったわけである。育ての親であった直義の死は、直冬にとっては大きなショックだったに違いない。

 同年11月12日、西国にやってきた尊氏軍によって、直冬は長門国豊田城(一般的には、長門国豊田城となっているが、実際には長門国ではなく、石見国・益田の豊田郷にあった豊田城と思われる)で敗れ、南朝方に降った。

 以降石見国を中心とした南北朝期の動きについては、いずれ他の山城を取り上げる際に記すことがあると思うので、今稿ではこのくらいにして、神主城そのものについての記録を取り上げたい。とはいっても、当城が具体的に記録された文献資料は、残念ながら手元に持ち合わせていない。

 標題の築城主として記している「都野(神主)内蔵助」なる人物が、どのような時期と経緯で登場しているのかよくわからない。ただ、前段で示した都野氏の初期のころの武将・神主であったことは想像できる。

 さて、記録では神主城が所在する二宮町神主という地において、確実に都野氏が領知したものとしては、
 「寛正元年(1460)9月26日、幕府、都野保重に石見国二宮神主を管理させる(萩閥43)。」というのがある。

 同じ年の11月には、「幕府、石見国有福内生越分を周布元兼に安堵する(萩閥7)。」という記録も見える。幕府とは、室町幕府8代将軍・義政の時代である。義政は知られているように、政治については、本人の資質もあってほとんど興味がなく、遊興におぼれていった。

 しかも日野富子といった将軍の側近や女性たちが政治に介入し、管領細川勝元と四職家の一人山名持豊(宗全)の対立もあり、やがてその権力闘争は応仁の乱へと発展していく。

 前掲の二つの文書は、いずれも幕府(義政)からのものだが、実際には管領細川勝元派(畠山持富・政長)から出されたものだろう。というのも、同年(寛正元年)10月、義政は、益田兼堯に対し「畠山政長に従って河内へ行き、畠山義就を討つよう」度々命じている(萩閥7)。

0 件のコメント:

コメントを投稿