2009年1月8日木曜日

名和長年(1)船上山

◆前回、出雲の守護・塩冶高貞を紹介したので、おなじく太平記がらみで、後醍醐天皇の隠岐脱出から建武新政まで協力者だった、東隣・伯耆の武将・名和長年関係の史跡を取り上げる。



【写真下】船上山遠景
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 船上山は、地形を見るに大山の一支脈として台地状(船上神社付近で海抜680余り)をなし、頂上は相当広い平坦部をなしており、ブナの密林におおわれているが、東北部は、断崖絶壁をめぐらし、そこには雄滝、雌滝と称する2つの滝があり、麓にかけては急傾斜の草原となり、天然の要害となっている。
山上からは、北に日本海が眺められ、山容の雄大さと見事さを兼ね備えた景観である。平安時代に山岳仏教寺院・智積寺(ちしゃくじ)、その他数多くの堂塔が建てられていたというが、かつてあった智積寺等の諸院は、今はなく、ブナの密林の中、現在の船上神社のあたりに遺構として土塁を残しているのみである。

船上山行宮は、元弘3年(1333)閏2月28日から5月23日まで、後醍醐天皇の行在所のあったところで、名和長年一族武家方・佐々木隠岐判官清高兄弟が激戦を重ね、名和長年は、この天険を城塞にして弟・信濃坊源盛のいた大山寺などと通じて、天皇を守護し近国の武士を招集、王政回復の旗を揚げ、いわゆる建武の中興を成し遂げたところで、それゆえに、船上山行宮跡は史跡として国の指定になったものである。 (名和町誌※より

昭和53年7月30日 発行されたもので、編者は名和町誌編纂委員会による。この本には史跡の説明もあるが、むしろ名和長年研究の史料の変遷に重点が置かれ、「伯耆巻」を中心とした他の史料との比較考証にページを割き、江戸期の水戸光圀著「大日本史」から始まって「船上記」等々の詳細な考察論文になっている。あまりにも大著なので、私には読了できなかった。


◆当地へのアクセスは、米子市側(西側)から行く際、山陰自動車道が名和町まで延長され、ずいぶんと楽になった。しかもこの高速道は片山前知事の手腕によって無料道路となっているので、とても助かっている。船上山は中級クラスの登山者にはちょど手頃な山として大山(だいせん)とともに人気がある。何回かこの山の麓は訪れているが、いまだに頂上まで登っていない。なんとなくこの山は、下からの眺望で満足していまいそうで、いつかは上まで登ってみたい。


◆なお、名和町は、2005年3月28日 西伯郡(旧)大山町、名和町、中山町が新設合併し西伯郡(新)大山町となるっている。余談だが、歴史を調べるとき、この合併によって地名や場所を探すのにずいぶん手間取るようになった。

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