2009年1月12日月曜日

名和長年(5)船上山周辺の動き

◆2月28日に伯耆の湊に疲労困憊の状態でたどり着いた後醍醐天皇が、あくる29日は船上山へ登っている。背負われて登ったということだが、そのあとすぐに幕府方(佐々木隠岐守清高ら)が麓までやってきている。そして長年側は数6,70人で、数千騎の幕府方に勝利する。(戦記物は、話を面白くするためとかく誇張が多い。よって、数値的なものは割り引いて考えたい)

◆名和方(天皇方)のほうは、割と詳しくメンバーを記しているが、幕府方が上記の佐々木清高2,000騎(大手側)、清高の弟・能登守清秋1,000騎(搦手側)と大雑把な表記になっている。下段に示すように、地元の武士大半が名和方に与しているので、幕府方は同じ地元から、これだけの兵力を短期間によく集められたものだと感心する(糟谷氏らが居たという)。
【写真右】名和神社付近から見た、大山


◆3月3日午後に、やっと近国の武士が集まる。太平記によると下記の面々

石見=佐波・三隅
出雲=塩冶高貞・富士名義綱・朝山二郎
伯耆=金持一党・大山衆徒
安芸=熊谷・小早川
美作=菅一族・江見・方賀・渋谷・南三郷
備後=江田・広沢・宮・三吉
備中=新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁
備前=今木・大富幸範・和田範長・知間親経・藤井・射越範貞・小嶋・中吉・美濃権介・知気季経・石生彦三郎

これら合わせて、総勢2,000余騎とのこと。

◆現実的に考えると、この3日に参集した時点から本格的な戦が始まったのではないかと思えるのだが。

◆なお、この中で、塩冶高貞、富士名判官は、すぐに駆けつけず、しばらく安来あたりで様子をうかがい、形勢が判明したころやってきたと、太平記などには書いてある。

 出雲守護という幕府方の出先機関の長であれば、他の土豪武士らと同じ行動はとれなかったのもうなずける。

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