2012年4月11日水曜日

美和山城(岡山県津山市二宮)

美和山城(みわやまじょう)

●所在地 岡山県津山市二宮
●築城期 不明
●築城者 立石中務丞漆高国、または立石中務丞高志
●形態 丘城
●高さ 標高154m(比高30m)
●遺構 郭・土塁・井戸
●備考 古墳跡
●指定 国指定 美和山古墳群
●登城日 2011年6月20日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿の美和山城は、古墳跡を利用して築城されたという特異なケースの丘城である。
所在地は、津山市にあって、中国自動車道と国道179号線(出雲街道)に挟まれた二宮の丘にある。
 この場所から西に約2キロほど向かうと、以前取り上げた院庄館(岡山県津山市院庄)がある。
【写真左】美和山城(美和山古墳)
 前方後円墳の1号古墳といわれるもので、前方部突端から後方部まで細長く土塁跡が残る。



現地の説明板より

 “国指定史跡 美和山古墳群
     指定年月日 昭和52年3月8日
     指定面積  32,025㎡


 美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群です。北から1号墳(前方後円墳・全長83m)・2号墳(円墳・直径40m)・3号墳(円墳・直径約40m)の3古墳で構成され、地元では、伝説に基づきそれぞれ胴塚・蛇塚・耳塚と呼びならわしています。
 いずれの古墳も、盛土の表面を人頭大の河原石でおおい、2号墳・3号墳からは、円筒形の埴輪破片が発見されています。
 その埴輪破片や、1号墳の墳形などからみて、これらは古墳時代前半期(4~5世紀)にこの地域一帯で勢力を伸ばした豪族の墓と考えられます。
【写真左】配置図
 この図でいえば、左側の前方後円墳(1号古墳)に、土塁の位置が表示されている。




 また、この地には、戦国時代(15~16世紀)に、美和山城が築かれていました。
 1号墳の前方部前面から後円部後方まで、東西に土塁状の遺構が残されており、1号墳北側のくびれ部に井戸跡もあります。これらはその美和山城に関連する遺構でしょう。


  昭和60年3月31日 
   津山市教育委員会”
【写真左】土塁跡・その1
 北側に川が流れており、それに沿うように土塁が配されているので、北~東面の防御が目的だったことが分かる。



美作・立石氏


 美和山城の築城者といわれている立石中務丞漆高国・高志の出自は、美作から遠く離れた九州豊前国宇佐郡立石村とされている。
この地区は現在の大分県宇佐市立石地区で、宇佐神宮から東方5キロほどの位置にある。
【写真左】宇佐神宮
 所在地 大分県宇佐市









 美作立石氏の本姓は漆島氏で、後に漆間と改称し、美和山城の南方500mにある高野神社(龍神社)の神社職を得て勢力を伸ばしたといわれる。
【写真左】土塁跡・その2
 初夏に訪れたため草丈が伸び、遺構の確認としては今一つだが、およその形状は分かる。







 立石氏が豊前国から美作国へ移住してきた経緯は不明だが、神社職を得たという点から考えると、八幡宮の総本宮である宇佐神宮が関わっていた可能性は高い。

 なお、漆間姓を名乗ったころ、庶流は久米郡稲岡荘に移り、そこから後に浄土宗を興した法然が出ている(下の写真参照)。
【写真左】法然上人誕生の聖地とされる美作・誕生寺
 所在地 岡山県久米郡久米南町誕生寺里方
 建久4年(1193)、熊谷直実が師とした法然上人の命を奉じ、旧邸だったところを寺院に改めた。




当城の記録が見えるのは、室町期である。『日本城郭体系第13巻』によれば、

“明応7年(1498)城主・立石景泰のとき、三星城の後藤勝国が手兵120騎を美和山城を攻撃、景泰は城の東の笠松山に兵80人を従えてこれに反撃した。


また、その4年後(文亀2年:1502)景泰の子久朝のとき、勝政の子後藤勝基が金室山城(勝北町)の城主浦上行重と共に兵300を以て「三和山」に迫り、小田中に布陣。久朝は一族郎党200騎で城の東の亀ヶ淵で防戦したが、後藤は背後から城に入って火を放った。このため、立石方は敗走し、久朝以下17人は薬師堂に入って自刃した。しかし、久朝の子弥次郎は死を免れた。”

と記されている。
【写真左】北麓の歩道を歩く。
 上述したように1号古墳の上部北面は、土塁の一部としても活用されているため、改変の跡が残る。
 なお、この下の歩道から古墳頂部までの高さはおよそ7,8m程度ある。



ここに記されている「三星城」というのは、現在の美作市明見にある城砦で、三星城(岡山県美作市明見)のことだが、別名「妙見城」ともいわれ、戦国期に至ると、勝基の時代を迎える。ただ、上掲の下線した勝基の時代が、文亀2年(1502)となっており、これに対し、勝基の活躍した時代は、「三星城」の稿では永禄3年(1561)ごろとされている。
【写真左】三星城
所在地 岡山県美作市明見
築城期 応保年間(1161~63)








 約60年もの開きがあり、錯誤とも思われるが、永禄年間の勝基は先祖の武功を崇敬し、同じ名を名乗った可能性もあるかもしれない。

 美和山城主立石久朝の遺児・弥次郎はその後、久勝と名乗り、その子・久胤、久泰らによって家名再興が図られ、毛利輝元に仕えたという。
【写真左】1号古墳の頂部
 上にあがった位置から見たもので、手前が後円部だが、写真でも少しわかるように、南側が少し高くなっている。


この箇所も土塁的な加工が加えられているようだ。
【写真左】井戸跡
 案内図では井戸跡が後円部と前方部の接点部にあるとされているが、草の繁茂で確認できなかった。

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