2012年4月5日木曜日

備中松山城(岡山県高梁市内山下)

備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市内山下
●築城期 仁治元年(1240)
●築城者 秋庭重信
●城主 秋庭氏・高橋氏・高氏・上野氏・庄氏・尼子氏・三村氏・毛利氏・小堀氏・水野氏・水谷氏・浅野氏など
●高さ 標高480m
●遺構 天守・二重櫓・土塀・平櫓・本丸南門・東門・路地門その他
●指定 国指定史跡
●備考 日本三大山城の一つ
●登城日 2011年7月11日(最新)、その他

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
  備中松山城は、前稿と同じく高梁市にある山城で、日本三大山城の一つとされる。残りの二つは、岐阜県の岩村城(いわむらじょう)跡・岐阜県恵那市岩村町字城山、奈良県の高取城(奈良県高取町)である。
【写真左】備中松山城遠望
 高梁市街地の南を走る国道484号線の展望台から見たもの。
 写真左下に高梁の町並みが広がる。



 さて、当城については改めて紹介するまでもないほど有名で、備中の代表的な観光史跡として多くの観光客が訪れる。

 管理人が初めて当城に登城したのはもうずいぶん前で、そのころは全くの観光気分で訪れていて、遺構の踏査などはしていなかった。そんなこともあって、久しぶりに昨年改めて登城した。

 当城の概略については、下段に示すように詳細な説明板が現地にあったので、先ずこれに依りたい。
【写真左】立体見取り図
 麓の「御根小屋跡」を始めとし、上に向かって「下太鼓の丸跡」「中太鼓櫓跡」「小松山城跡」「相畑城戸跡」「天神の丸跡」「大松山城跡」とあり、最北端に「切通・番所跡」が示されている。


現地の説明板より

“備中松山城の沿革
 備中松山城は、延応2年(1240)に有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭秋庭三郎重信が臥牛山(がぎゅうさん)の大松山に砦を築いたことに始まる。


 元弘年中(1331~34)には、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎佐衛門宗康(※)が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。
【写真左】松山城主一覧表
 現地に設置されているもので、大まかな動きが分かる。





 その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は、高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と変わり、永禄4年(1561)には、安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が、尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。


 元亀3年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。

 天正2年(1574)冬から翌3年夏にかけて、毛利・宇喜多連合軍と、三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は、小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえる。


 また、居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかでない。
【写真左】石垣と岩盤の組合せ箇所
 この景観も松山城の見どころの一つだが、岩盤に亀裂がみつかり、危険であることが判明したため、岩盤変動システムという崩落を防ぐ設備が使われている。




 関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として、小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。

 小堀氏は、頼久寺において政務を執っていたが、政一は慶長10年(1606)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永19年(1642)、水谷勝隆が入城する。
【写真左】二の平櫓跡付近
 向こう側に櫓跡があったという。










 水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の3代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や、高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。

 さらに二代の勝宗は、天和元年(1681)から3年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成している。しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため、水谷氏は改易となっている。


元禄6年(1693)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は、1年近く在番として備中松山城にとどまっている。


 その後、安藤重博・同信友次いで正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に石川氏に代わって、伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝晙・勝職・勝静・勝弼と7代続き、廃藩置県を迎える。
【写真左】大手御門・上番所・三の丸の側面
 この箇所を横から見ると、改めてその高度な築城技術・石積み工法に驚かざるを得ない。













(※)
高橋九郎佐衛門宗康

 説明板にある高橋九郎佐衛門宗康は、秋庭氏の後に入った城主とされている。

 元弘年中(1331~34)に高橋九郎宗康が入城とある。この高橋氏は備後の三好氏の一族と記されている。ただ、細かいことになるが、備後の「みよし」氏の姓文字は、正式にいえば「三吉」である。平安末期近江国から備後三吉郷に入った兼範の子兼宗を備後三吉氏の初代としているからである(比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)・その1参照)。

 ところで、鎌倉幕府が滅亡したのは元弘3年・正慶2年(1333)5月である。この年の2月河内赤坂城は陥落し、千早城の攻防戦も激化した。5月7日、六条忠顕・足利尊氏・赤松則村(円心)らは、京都六波羅を攻略、8日には新田義貞が上野で挙兵、21日に至って義貞は鎌倉を陥れ、北条高時は自害した。ここに鎌倉幕府が滅亡することになる。
【写真左】三の丸から二の丸へ向かう。
 二の平櫓を抜けると足軽番所につくが、この後方には広い削平地・三の丸があり、隣接部には上番所がある。

 足軽番所を抜け、二の丸に向かうと、途中からほぼ直角に右に折れ、四の平櫓及び二の櫓門が配置されている。


 尊氏らが六波羅を攻め入った際、六波羅探題北方は北条仲時で、南方は時益であった。

 六波羅が完全に尊氏らに取り囲まれると、夜陰に乗じて仲時・時益は、光厳天皇と後伏見・花園両上皇を伴って東方へ奔った。時益は山科辺りで落馬によって亡くなり、野伏の襲撃を受けながらも9日、番場(現在の滋賀県米原市)の宿までたどり着いた。

 しかし、向かう東方(鎌倉)までは長道中であるばかりか、山賊・野伏などが峠を塞ぎ、その上美濃に入れば尊氏らの軍が行く手を阻んでいた。

 仲時ら残兵は、もはやこれまでと覚悟を決め、当地番場の一向堂(蓮華寺)で枕を並べて自刃した。その数432人という。
 そして、その中には、備中松山城主・高橋光国及びその子・時任(ときとう)、仲光もいた(『石見町誌上巻』)。
この高橋光国が、九郎佐衛門宗康のことで、時任は又四郎といわれる。
【写真左】天守閣
 おなじみの光景で、中央に天守が見える。手前の櫓は、五の平櫓。

 今回は天守内には入らず、まわりの散策とした。




 ところで、父の九郎佐衛門宗康(光国)とその子・時任(又四郎)父子は番場で自害したわけだが、その末裔は備中窪屋郡流山城(るざんじょう)に移ったとされている。

 しかし、宗康の三男・光義は畿内に転戦せず、備中松山城にあって、父とは逆に尊氏に協力したといわれている。そしてその子師光は高師泰の石見宮方討伐に従軍し、困難な撤退作戦を成功させ、播磨に帰った後、尊氏・直義の内訌に巻き込まれ、正平6年(1351)石見阿須那・口羽に地頭として補任し、石見(安芸)の高橋氏として再興させることになる(生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)参照)。
【写真左】腕木御門
 二の丸から上に上がらず、東側の通路(犬走りか)を進むと、腕木御門という箇所がある。

 この直下に搦手門が設置されている。
 さらに後方に向かう。
【写真左】後曲輪と番所付近
 この日訪れたときは、補修工事をしていて一部踏み込めない箇所があったが、全体の配置はおおむね理解できた。
【写真左】後方の二重櫓付近
 天守閣の後方については、山の地形上尾根幅が狭くなり、櫓の基礎である石垣も相当苦労しているような跡がうかがえる。
【写真左】後曲輪と九の平櫓跡
 手前の平坦地が後曲輪で、その左奥の補修中の石垣が九の平櫓跡である。

 地盤が弱いのか、奥の石積みが大分崩れている。




 ところで、管理人は不覚にも、この天守のある「小松山城跡」を踏査した段階で満足してしまい、この後背に残る「相畑城戸跡」「天神の丸跡」「大松山城跡」「切通・番所跡」を見過ごしてしまった。

 登城したこの日は7月という暑い夏の盛りで、大汗をかいていると、こんな調子で登城前の計画を完全に忘れてしまう。困ったものである。

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