2012年4月15日日曜日

霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1

霜降城(しもふりじょう)・その1

●所在地 山口県宇部市厚東末信
●築城期 鎌倉時代
●築城者 厚東武光
●形態 山城
●高さ 標高250m
●遺構 空堀・土塁等
●備考 前城・本城・後城
●指定 山口県指定史跡
●登城日 2012年1月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 霜降城は山口県宇部市を流れる厚東川の東方に聳える霜降岳に築かれた厚東氏累代の居城である。

【写真左】霜降城遠望
 南方にある男山展望台から見たもので、中央に霜降城の本城が控え、その東方後背に後城(うしろじろ)が見える。

 なお、本城の手前には前城(まえじろ)があり、西方には中城(なかじろ)があるが、この写真では見えない。



現地の説明板より

“山口県指定史跡
 霜降城跡(前城)
    指定年月日 昭和43年7月4日


 霜降城は、厚東氏7代武光によって治承3年(1179)に築城されたと伝えられ、標高約250m、南北約700mにわたってそびえる霜降山の四連峰上に築かれた山城です。厚東川をへだてて厚東氏の居館旧跡と対しています。

 当時の山城は、近世のような天守閣を備えた城ではなく、防備のため山腹や山頂付近に土塁、空堀、柵などが設けられただけのものでした。
 前城の標高は247.7m、頂上部の面積は約870㎡です。遺構は南方向に長さ80m、深さ3m、上部幅6mの空堀があり、これは斜面が緩やかな南側からの侵攻を防ぐためであったと考えられます。頂上付近の巨石と、城の防備との関連については明らかになっていません。

 北には西側に防御遺構をもつ本城(250m)と、北・東側に防御遺構を持つ後城(南峰240m、北峰235m)、西には本城の前衛地であった中ノ城が有機的に構築され、その規模は山口県内では最大級です。

 17代義武のとき、周防山口の大内弘世の攻撃を受け、延文3年(1358)霜降城は落城しますが、それ以降使用された形跡はなく、南北朝時代の山城の景観をよく残す貴重な史跡です。
 なお、許可なく史跡指定区域での左記行為は禁じられていますので、ご協力をお願いいたします。
1、掘削、土砂等の採取、樹木の伐採をすること
2、その他史跡保存に著しく影響を及ぼす行為
平成17年3月
   山口県教育委員会
   宇部市教育委員会”

 この付近には、厚東川を挟んだ西方の棚井地区に厚東氏の平時の居住地があったとされ、浄名寺及び東隆禅寺に同氏関連の墓石が安置されている。また、霜降城の西方を扼する目的で築城されたという「引地城」もある。

 なお、現在厚東川河口は宇部市の工業地帯増設によって、南に延びているが、鎌倉期の当時はこの霜降城のある末信や、対岸の棚井辺りまで周防灘が食い込んでおり、厚東氏が水軍領主としての一面も併せ持っていたことを示す。
【写真左】霜降城配置図
 当城は、本城・前城・後城・中城と四つの峰をもつ山から成り立ち、いわゆる一城別郭の構成となった山城である。















厚東氏と高津長幸

  さて、厚東氏については、これまで
嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)銀山城(広島市安佐南区祇園町)勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)、及び大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)で紹介しているが、同氏の祖は武忠といわれ、物部守屋の末裔武忠がこの棚井に住んだことが始まりといわれている。

 源平合戦の折、7代武光は寿永年間(1182~85)棚井にあって平家を支援、一の谷の戦いにも参戦したという。後には源氏方に与し、壇ノ浦の戦いで功があり、厚東郡の主となった。
【写真左】霜降山登山口
 当山(城)へ向かうにはおよそ6箇所からのコースがあるが、車で近くまで行くにはこの写真にある登山車道を使うことになる。


 写真右側が県道219号線で、左側が登山道。ただし、この先にゲートが設置してあるので、季節時間限定のようだ。



 そして、厚東氏の活躍がもっとも知られるのは南北朝期に入ってからである。

 元弘3年(正慶2年:1333)、隠岐の島配流にあった後醍醐天皇は行在所を脱出し、綸旨を諸国の豪族に発した。石見国では吉見頼行がこの聖旨の報に感涙し、高津長幸はいち早く吉見氏と長門探題攻略に向け、3月征途に上った。

 長門探題北条時直は、関東御教書を受け護良親王と楠正成討伐に向けて東上した。このときつき従ったのが長門の厚東武実と豊田胤藤らである。彼らは瀬戸内を船で向かうも、備後の海上で村上義弘に遮られ、止む無く四国へ兵を向けると、今度は土居・得能の諸氏にも敗戦の苦渋をなめ、本国に帰還せざるを得なくなった。
【写真左】駐車場
 霜降山周辺は「保健保安林」として、キャンプ場を始め、公園・ハイキングコースなどがあり、森林レクリエーションの場として活用されている。
 このため、駐車場も大変広く確保されている。
 車を降りて先ず西方の男山展望台へ向かう。



 ところが、その帰途中、長門へは件の石見の強豪が南下するという報が入った。特に高津長幸は当時「道性」と呼ばれ、四周にその武功の誉れ高く、恐れられていた。

 当時長門探題の本拠地は長府にあったが、「道性来る」の噂におびえた北条時直の妻・上州御台をはじめ、婦女子らは先に当地を去り、筑前筥崎(九州探題)へ奔走した。
【写真左】男山展望台
 男山そのものは、先ほどの駐車場の北にあるが、この場所はさらに西に300m程度むかった丘の頂部で、標高は228m。


 この位置から北方に上掲した本城などが俯瞰できる。
 なお、写真に見える石碑には霜降城の由来が刻文されている。

 男山及びこの展望台付近も霜降城の城域であったかどうか明確ではないが、南端部であったことから出城もしくは物見台としての役割は十分にあったものと思われる。
 このあと前城に向かうため、一旦谷に降りていく。
 

 後醍醐派すなわち宮方として長門の先陣を切った石見の吉見・高津の両軍は、同年(1333)3月29日、大嶺(現在の美祢市大嶺町)において、探題方厚東武実・豊田胤藤・同胤本・同胤長らと相対陣した。あくる30日戦端が開き、特に第一軍を務めた吉見頼繁の軍は、厚東武実・豊田胤藤の二将を敗走させ、凱歌を挙げた。

 一方、第二軍の高津長幸(道性)は、さらに南下し長門の他の諸侯に下賜の綸旨を示し宮方軍への恭順を勧めていった。
 敗走した厚東武実は、その後長幸の熱心な勧誘に意を感じ、直ちに恭順を示し宮方として与することを決心した。このとき、武実は長幸を領内「霜降山の新館」に招き入れ、手厚くもてなしたという。なお、霜降山の新館とは棚井側ではなく、霜降山の所在する末信にあった館と思われる。
【写真左】土橋と空堀
 男山城展望台から北に向かって一旦谷筋に降りると、管理者用の林道中山線と合流するが、そこに冒頭で添付した案内図(保健保安林の説明板)があり、ここから北の前城に向かって再び登り始める。
 しばらくすると、ご覧の空堀や土橋が現れてくる。



 武実は宮方に与したあと、近隣の大嶺の地頭・由利氏や、伊佐の佐々木氏らに武家方から宮方に恭順を勧め与同していった。

 こうしてしばらくは宮方優勢の機運は高まったが、4月に入ると探題北条時直は、九州筑紫探題北条英時の支援を受け、三河守を始めとし、日田肥前権守入道・宗像大宮司・豊前国宇佐・築城・上津妻毛・下津妻毛4郡の軍勢が長門に入った。7日、彼らは門司から長躯霜降山麓に入った。そして怒涛の進撃を加えたので、一旦当城を捨てて敗走した。

 以後、両者の戦は優劣つけがたく混沌とした戦いが続いたが、最終的には高津長幸らによる長門探題攻略が宮方の優位をもたらした。
【写真左】前城・その1
 中央部にある巨石
 前城の主郭部分に残るものだが、物見櫓的な用途があったものと思われる。
【写真左】前城・その2
 手前の方に小規模な郭段が残り、その周囲を先ほどの空堀が巻いている。






大内弘世

 その後、多少の変化はあったものの、霜降城は厚東氏の居城としてしばらく続いた。しかし、大内氏が弘世の代になると、長門国は大きく動き始めた。

 大内氏は当初北朝方(幕府方)についていたが、尊氏と直義との対立が生じると、直冬に属し、南朝の武将として満良親王を奉じて勢力を拡大、南朝から周防守護職に任じられた。
【写真左】前城から南方を見る。
 霜降城で眺望が利くのはこの前城ぐらいで、のちほど紹介する本城は残念ながらほとんど利かない。



 そして、当時長門守護職であった厚東義武を再三にわたって攻略、ついに延文3年(1358)正月、霜降城は落城、城主義武は長門を捨て豊前に奔った。この結果、弘世は長門守護職も獲得することになる。

 霜降城が落城したのは正月2日であるが、厚東川対岸にある厚東氏を祀る恒石八幡宮では、現在でもこの日、落城の日を悼むため太鼓を打つことは止めているという。

本城については、次稿で紹介することにしたい。

◎関連投稿
花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)
筑前・白山城(福岡県宗像市山田)
長門・由利城(山口県美祢市大嶺町東分字中村)
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