近世宇土城(きんせい うどじょう)
●所在地 熊本県宇土市古城町
●別名 宇土城、鶴ノ城
●指定 宇土市指定史跡
●築城期 天正17年(1589)
●築城者 小西行長
●城主 小西行長・加藤清正
●形態 水城・平山城
●遺構 本丸・二の丸・三の丸、堀等
●登城日 2013年10月13日
◆解説
前稿に続いて、宇土市にある近世城郭・宇土城(以下「宇土城」とする)を取り上げる。
所在地は、前稿の宇土古城から東に約500m程向かった宇土城山公園内にある。築城者はキリシタン大名として名をはせた小西行長である。
【写真左】近世宇土城内に建立された小西行長像
後段でも述べているように、宇土城は寛永年間のとき、廃城となったが、その際かなりの遺構が破壊されてしまった。
このため、近代になって公園として整備されたため、見どころは少なくなったが、地元市民に憩いの場として親しまれている。
この写真は、整備された本丸跡付近に建つ小西行長の銅像で、かなり大きなものである。
現地の説明板より・その1
“近世宇土城跡
宇土市古城町
昭和33年(1958)3月14日 市指定史跡
キリシタン大名・小西行長が築城した近世城郭である。通称「城山」と呼ばれる小高い丘の最高位(標高約16m)に内堀で囲まれた本丸が位置し、二ノ丸や三ノ丸がそれぞれ本丸西側と南側及び東側に配置されている。これらを大規模な外堀が取り囲むという堅固な縄張りで、外堀まで含めた城域は南北500m、東西550m、面積は約20万㎡と広大である。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修を行った。しかし、隠居することなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により破却された。
さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊されたため、往時の姿はとどめていない。
【写真左】航空写真で見た近世宇土城
1962年に撮影されたもので、中央やや左下に本丸、その左に二の丸、内堀を挟んで南に三の丸が配置されている。
家臣屋敷は本丸の北側にあったことから、船ですぐに島原湾に向かうことができたのだろう。城下町は東側にあって、やや距離を置いている。
昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行われ、石垣などの城郭遺構が検出された。また、本丸跡の公園整備工事に伴う発掘調査(昭和53~57年)が実施され、新事実が次々と明らかになった。
調査の結果、当初「小西時代」と考えられてきた石垣や門礎、排水溝などの城郭遺構(上層期遺構)の、さらに1.5~2mほど地下から、石塁や礎石建物跡などの下層遺構が発見された。下層期遺構は「小西時代」、上層期遺構は「加藤時代」の城郭遺構に相当するとみられ、宇土城跡の変遷を考えるうえで大きな成果となった。
出土品は、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、国産陶磁器(備前焼、瀬戸焼、唐津焼)、銃弾、瓦などがある。なお、本丸周辺では大砲の一部や「慶長十三銘」の滴水瓦が採集されている。”
【写真左】本丸に向かう階段
旧二ノ丸側に設置されているもので、二ノ丸から本丸までの比高は約10m程度ある。
現地の説明板より・その2
上掲のものと重複するところもあるが、抄出しておく。
“キリシタン大名・小西行長の居城
近世宇土城跡(城山)
昭和33年(1958)3月14日 市指定史跡
■キリシタン大名・小西行長
永禄元年(1558)に大坂の堺の豪商・小西隆佐(りゅうさ)の子として京都で生まれ、秀吉の側近として水軍を率いて活躍。国衆一揆(肥後の武士層が起こした反乱)後の天正16年(1588)、宇土・益城・八代などの肥後南半部(約14万6千石)の領主として宇土を本拠としました。
入国翌年の築城開始後、文禄・慶長の役(1592~98)で先鋒として2度にわたり朝鮮半島に出陣しており、実際に宇土で活動した時期は1年半程度と考えられています。慶長5年(1600)、西軍に属した行長は、関ヶ原合戦で敗戦、京都六条河原で処刑され、42歳の生涯をとじました。”
【写真左】本丸・その1
この日はたまたま地元町内会主催による運動会が開かれていた。
本丸跡で運動会が開かれているというのも珍しい。
小西行長と加藤清正
小西行長が最初に仕えたのは西国の梟雄・宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)等参照)といわれている。
のちに秀吉に仕え舟奉行として水軍を率いて活躍することになるが、これは、おそらく直家時代に培ったものだろう。直家は以前にも述べたように、瀬戸内における海賊衆や、瀬戸内を往来して商売を行った商人たち(特に長船)と密接な関係を築いていた。
【写真左】本丸・その2
運動場としてのトラック全周の大きさは規模が限られているため、小ぶりなものとなっている。
また、完全に均していないためか、若干起伏が残る。
開始前の朝だったため、運動会に参加する地元の皆さんと一緒に雑談しながら会場(本丸跡)に向かう。熊本弁というのだろうか、賑やかな会話を楽しんだ後、周辺部の散策に向かう。
肥後の宇土城を本拠とした行長に対し、前肥後国領主であった佐々成政の執政改易によって、新たに入ったのが熊本城を本拠とする加藤清正である。領国が接するという関係もあったが、行長と清正は度々対立している。行長はキリシタンであり、清正は日蓮宗信者であることから、天正17年の天草国人5人衆の乱(天草国人一揆)において、両者の作戦は一致を見ず後味の悪い戦後処理となった。
そして関ヶ原の合戦では、行長は西軍方に清正は東軍方にそれぞれ分かれて戦うことになる。京都六条河原で処刑された行長の遺体は、イエズス会宣教師に引き取られ、7年後の1607年イタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が創られたという。
【写真左】本丸跡から下方を見る。
この写真は確か北側の辺りだったと思うが、かなりの傾斜と比高差がある。
■近世宇土城跡の概要
織田信長や豊臣秀吉の時代に築かれた礎石建物や、高石垣などで構成される規格化された城を織豊系城郭と呼んでいます。宇土城は熊本を代表する織豊系城郭で、江戸初期に幕府の命令により2度にわたる破却を受けたため、不明な点はありますが、縄張り(城の測量図)の検討や発掘調査の成果、絵図の検討などから往時の宇土城の姿を推定することができます。
【写真左】帯郭
本丸の東側部分に当たるところで、帯郭状の遺構が残る。
宇土城は、幅約20mの堀で囲まれた本丸(標高約16m)を核として、二ノ丸や重臣が居住した三の丸を幅約30~40mの大規模な堀で防御し、本丸北側に家臣屋敷群を整備するなど、本丸を中心とする堅固な城郭でした。さらに、本丸の北側には、緑川河口部に通じる運河が開削され、船が行き来したと考えられています。まさにイエズス会宣教師から「海の司令官」と呼ばれた行長らしい城といえます。
関ヶ原合戦後、清正は宇土城を自身の隠居所とするために大規模な改修を行いましたが、隠居することなく慶長16年(1611)に亡くなりました。清正の死の翌年、幕命により城は破却され、寛永14年(16379の天草島原の乱後にも徹底的に破壊されました。
【写真左】本丸の南側付近
西側の二の丸から回り込んで伸びる箇所で、駐車スペースが確保されている。
この写真の手前には内堀があり、さらにその南方には現在住宅などが建っている三の丸があった。
近世宇土城及び宇土古城周辺の地勢
説明板にもあるように、この辺りの地勢を見てみると、現在は陸地となっているが、海抜は殆ど0mに近い低さである。両城の北方には緑川河口で合流する浜戸川が湾曲して迫り、緑川との間には、走潟町・新開町といった近世に新たに干拓された陸地が造られている。
このことから、宇土城及び宇土古城とも元々は、島原湾(有明海)を使った海上交通の要衝とする水城として築城された可能性が高い。
【写真左】近世宇土城跡と城下町想像図
現地に表示されているもので、南西方向から見た図。
おそらく堀(濠)の引込は、当時の地勢から考えて施工が順調に行われたのだろう。
■本丸の発掘調査
本丸の発掘調査(昭和53~57年)の結果、門跡や礎石建物跡、排水溝跡、石垣などの城郭遺構を検出し、上層期遺構と下層期遺構の2時期の遺構の存在や、本丸の平面プランが概ね明らかになりました。
【写真左】発掘調査地点
色が薄くなって判然としないが、緑が下層期、青が上層期とされている。
上方が北を示す。
上層期遺構は、加藤清正の改修に伴う城郭施設、下層期遺構は小西行長が築城した当時の城郭施設に対応すると考えられます。つまり、小西時代の城郭施設は、加藤期改修に伴う盛土(1m以上)や石垣普請などによって内部に完全に埋め込まれたことが判明しました。
また、瓦や国内製・中国製の陶磁器など、当時使われていた貴重な品々が豊富に出土しました。
【写真左】石塁遺構の写真
下層期遺構、即ち小西行長時代のものとされている。
■塩田家臣屋敷群(城山塩田遺跡)について
家臣屋敷が存在したとされる本丸北側一帯の古城町字塩田には、明治時代の字図や終戦後撮影の航空写真から、碁盤の目状に堀がめぐる屋敷群跡や運河の跡と想定される痕跡が残されていました。
このことを検証するための発掘調査(平成12年)で、屋敷地を囲む大小の堀跡を検出し、建物の部材や日常生活で使われていたとみられる陶磁器が出土。幻の家臣屋敷の存在が実証されました。
南北方向の6筋の道は、等間隔(約40間〔約72m〕)で敷設、その道沿いに整然と並ぶ屋敷地は、間口が狭く奥行が長い長方形(短冊形地割)で、極めて計画的な造成が行われたことが判明しました。
【写真左】出土した陶磁器
行長が宇喜多直家に仕えていたことから、備前焼なども出土している。
■近世城下町の形成と特徴
宇土城下については、16世紀代の名和氏段階である程度できていたとみられる城の東側の町筋を城とセットとして整備し、本町筋や新町筋沿いには商工業者らが居住していました。
さらにその東側には、物流の要だったと考えられる宇土川(船場川)や「外構え」として城下町を守る石ノ瀬城(加藤軍による宇土城攻め〔1600年〕の激戦地)が配されました。
【写真左】大砲の破片
本丸北側低地より出土したとあるから、船戦の際使われたのだろう。
行長入国以前の肥後においては到底考えられなかった城と家臣屋敷、町屋がセットになり、身分的な階層関係が反映された城下町が、いち早く宇土の地に出現したことは歴史的に重要なことです。
行長が理想とする領国経営の拠点として機能するはずだった宇土城。宇土を中心とし、九州全体の支配まで視野に入れていたと考えられる行長の夢は、関ヶ原合戦の敗戦により志半ばで途絶えたのでした。
平成23年12月 宇土市教育委員会”
●所在地 熊本県宇土市古城町
●別名 宇土城、鶴ノ城
●指定 宇土市指定史跡
●築城期 天正17年(1589)
●築城者 小西行長
●城主 小西行長・加藤清正
●形態 水城・平山城
●遺構 本丸・二の丸・三の丸、堀等
●登城日 2013年10月13日
◆解説
前稿に続いて、宇土市にある近世城郭・宇土城(以下「宇土城」とする)を取り上げる。
所在地は、前稿の宇土古城から東に約500m程向かった宇土城山公園内にある。築城者はキリシタン大名として名をはせた小西行長である。
【写真左】近世宇土城内に建立された小西行長像
後段でも述べているように、宇土城は寛永年間のとき、廃城となったが、その際かなりの遺構が破壊されてしまった。
このため、近代になって公園として整備されたため、見どころは少なくなったが、地元市民に憩いの場として親しまれている。
この写真は、整備された本丸跡付近に建つ小西行長の銅像で、かなり大きなものである。
現地の説明板より・その1
“近世宇土城跡
宇土市古城町
昭和33年(1958)3月14日 市指定史跡
キリシタン大名・小西行長が築城した近世城郭である。通称「城山」と呼ばれる小高い丘の最高位(標高約16m)に内堀で囲まれた本丸が位置し、二ノ丸や三ノ丸がそれぞれ本丸西側と南側及び東側に配置されている。これらを大規模な外堀が取り囲むという堅固な縄張りで、外堀まで含めた城域は南北500m、東西550m、面積は約20万㎡と広大である。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修を行った。しかし、隠居することなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により破却された。
さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊されたため、往時の姿はとどめていない。
【写真左】航空写真で見た近世宇土城
1962年に撮影されたもので、中央やや左下に本丸、その左に二の丸、内堀を挟んで南に三の丸が配置されている。
家臣屋敷は本丸の北側にあったことから、船ですぐに島原湾に向かうことができたのだろう。城下町は東側にあって、やや距離を置いている。
昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行われ、石垣などの城郭遺構が検出された。また、本丸跡の公園整備工事に伴う発掘調査(昭和53~57年)が実施され、新事実が次々と明らかになった。
調査の結果、当初「小西時代」と考えられてきた石垣や門礎、排水溝などの城郭遺構(上層期遺構)の、さらに1.5~2mほど地下から、石塁や礎石建物跡などの下層遺構が発見された。下層期遺構は「小西時代」、上層期遺構は「加藤時代」の城郭遺構に相当するとみられ、宇土城跡の変遷を考えるうえで大きな成果となった。
出土品は、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、国産陶磁器(備前焼、瀬戸焼、唐津焼)、銃弾、瓦などがある。なお、本丸周辺では大砲の一部や「慶長十三銘」の滴水瓦が採集されている。”
【写真左】本丸に向かう階段
旧二ノ丸側に設置されているもので、二ノ丸から本丸までの比高は約10m程度ある。
現地の説明板より・その2
上掲のものと重複するところもあるが、抄出しておく。
“キリシタン大名・小西行長の居城
近世宇土城跡(城山)
昭和33年(1958)3月14日 市指定史跡
■キリシタン大名・小西行長
永禄元年(1558)に大坂の堺の豪商・小西隆佐(りゅうさ)の子として京都で生まれ、秀吉の側近として水軍を率いて活躍。国衆一揆(肥後の武士層が起こした反乱)後の天正16年(1588)、宇土・益城・八代などの肥後南半部(約14万6千石)の領主として宇土を本拠としました。
入国翌年の築城開始後、文禄・慶長の役(1592~98)で先鋒として2度にわたり朝鮮半島に出陣しており、実際に宇土で活動した時期は1年半程度と考えられています。慶長5年(1600)、西軍に属した行長は、関ヶ原合戦で敗戦、京都六条河原で処刑され、42歳の生涯をとじました。”
【写真左】本丸・その1
この日はたまたま地元町内会主催による運動会が開かれていた。
本丸跡で運動会が開かれているというのも珍しい。
小西行長と加藤清正
小西行長が最初に仕えたのは西国の梟雄・宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)等参照)といわれている。
のちに秀吉に仕え舟奉行として水軍を率いて活躍することになるが、これは、おそらく直家時代に培ったものだろう。直家は以前にも述べたように、瀬戸内における海賊衆や、瀬戸内を往来して商売を行った商人たち(特に長船)と密接な関係を築いていた。
【写真左】本丸・その2
運動場としてのトラック全周の大きさは規模が限られているため、小ぶりなものとなっている。
また、完全に均していないためか、若干起伏が残る。
開始前の朝だったため、運動会に参加する地元の皆さんと一緒に雑談しながら会場(本丸跡)に向かう。熊本弁というのだろうか、賑やかな会話を楽しんだ後、周辺部の散策に向かう。
肥後の宇土城を本拠とした行長に対し、前肥後国領主であった佐々成政の執政改易によって、新たに入ったのが熊本城を本拠とする加藤清正である。領国が接するという関係もあったが、行長と清正は度々対立している。行長はキリシタンであり、清正は日蓮宗信者であることから、天正17年の天草国人5人衆の乱(天草国人一揆)において、両者の作戦は一致を見ず後味の悪い戦後処理となった。
そして関ヶ原の合戦では、行長は西軍方に清正は東軍方にそれぞれ分かれて戦うことになる。京都六条河原で処刑された行長の遺体は、イエズス会宣教師に引き取られ、7年後の1607年イタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が創られたという。
【写真左】本丸跡から下方を見る。
この写真は確か北側の辺りだったと思うが、かなりの傾斜と比高差がある。
■近世宇土城跡の概要
織田信長や豊臣秀吉の時代に築かれた礎石建物や、高石垣などで構成される規格化された城を織豊系城郭と呼んでいます。宇土城は熊本を代表する織豊系城郭で、江戸初期に幕府の命令により2度にわたる破却を受けたため、不明な点はありますが、縄張り(城の測量図)の検討や発掘調査の成果、絵図の検討などから往時の宇土城の姿を推定することができます。
【写真左】帯郭
本丸の東側部分に当たるところで、帯郭状の遺構が残る。
宇土城は、幅約20mの堀で囲まれた本丸(標高約16m)を核として、二ノ丸や重臣が居住した三の丸を幅約30~40mの大規模な堀で防御し、本丸北側に家臣屋敷群を整備するなど、本丸を中心とする堅固な城郭でした。さらに、本丸の北側には、緑川河口部に通じる運河が開削され、船が行き来したと考えられています。まさにイエズス会宣教師から「海の司令官」と呼ばれた行長らしい城といえます。
関ヶ原合戦後、清正は宇土城を自身の隠居所とするために大規模な改修を行いましたが、隠居することなく慶長16年(1611)に亡くなりました。清正の死の翌年、幕命により城は破却され、寛永14年(16379の天草島原の乱後にも徹底的に破壊されました。
【写真左】本丸の南側付近
西側の二の丸から回り込んで伸びる箇所で、駐車スペースが確保されている。
この写真の手前には内堀があり、さらにその南方には現在住宅などが建っている三の丸があった。
近世宇土城及び宇土古城周辺の地勢
説明板にもあるように、この辺りの地勢を見てみると、現在は陸地となっているが、海抜は殆ど0mに近い低さである。両城の北方には緑川河口で合流する浜戸川が湾曲して迫り、緑川との間には、走潟町・新開町といった近世に新たに干拓された陸地が造られている。
このことから、宇土城及び宇土古城とも元々は、島原湾(有明海)を使った海上交通の要衝とする水城として築城された可能性が高い。
【写真左】近世宇土城跡と城下町想像図
現地に表示されているもので、南西方向から見た図。
おそらく堀(濠)の引込は、当時の地勢から考えて施工が順調に行われたのだろう。
■本丸の発掘調査
本丸の発掘調査(昭和53~57年)の結果、門跡や礎石建物跡、排水溝跡、石垣などの城郭遺構を検出し、上層期遺構と下層期遺構の2時期の遺構の存在や、本丸の平面プランが概ね明らかになりました。
【写真左】発掘調査地点
色が薄くなって判然としないが、緑が下層期、青が上層期とされている。
上方が北を示す。
上層期遺構は、加藤清正の改修に伴う城郭施設、下層期遺構は小西行長が築城した当時の城郭施設に対応すると考えられます。つまり、小西時代の城郭施設は、加藤期改修に伴う盛土(1m以上)や石垣普請などによって内部に完全に埋め込まれたことが判明しました。
また、瓦や国内製・中国製の陶磁器など、当時使われていた貴重な品々が豊富に出土しました。
【写真左】石塁遺構の写真
下層期遺構、即ち小西行長時代のものとされている。
■塩田家臣屋敷群(城山塩田遺跡)について
家臣屋敷が存在したとされる本丸北側一帯の古城町字塩田には、明治時代の字図や終戦後撮影の航空写真から、碁盤の目状に堀がめぐる屋敷群跡や運河の跡と想定される痕跡が残されていました。
このことを検証するための発掘調査(平成12年)で、屋敷地を囲む大小の堀跡を検出し、建物の部材や日常生活で使われていたとみられる陶磁器が出土。幻の家臣屋敷の存在が実証されました。
南北方向の6筋の道は、等間隔(約40間〔約72m〕)で敷設、その道沿いに整然と並ぶ屋敷地は、間口が狭く奥行が長い長方形(短冊形地割)で、極めて計画的な造成が行われたことが判明しました。
【写真左】出土した陶磁器
行長が宇喜多直家に仕えていたことから、備前焼なども出土している。
■近世城下町の形成と特徴
宇土城下については、16世紀代の名和氏段階である程度できていたとみられる城の東側の町筋を城とセットとして整備し、本町筋や新町筋沿いには商工業者らが居住していました。
さらにその東側には、物流の要だったと考えられる宇土川(船場川)や「外構え」として城下町を守る石ノ瀬城(加藤軍による宇土城攻め〔1600年〕の激戦地)が配されました。
【写真左】大砲の破片
本丸北側低地より出土したとあるから、船戦の際使われたのだろう。
行長入国以前の肥後においては到底考えられなかった城と家臣屋敷、町屋がセットになり、身分的な階層関係が反映された城下町が、いち早く宇土の地に出現したことは歴史的に重要なことです。
行長が理想とする領国経営の拠点として機能するはずだった宇土城。宇土を中心とし、九州全体の支配まで視野に入れていたと考えられる行長の夢は、関ヶ原合戦の敗戦により志半ばで途絶えたのでした。
平成23年12月 宇土市教育委員会”
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