人吉城(ひとよしじょう)
●所在地 熊本県人吉市麓町18番地
●史跡 国指定史跡
●築城期 建久9年(1198)以前、又は元久年間(1204~1206)
●築城者 矢瀬主馬祐(平頼盛代官)又は、相良長頼
●城主 相良氏
●廃城年 明治4年(1871)
●形態 梯郭式平山城
●遺構 石垣・郭・土塁・礎石その他
●登城日 2013年10月13日
◆解説(参考文献『〈相良氏の居城〉史跡人吉城跡 2010年人吉市教育委員会編』など)
人吉城は、前稿の佐敷城(熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町)から、東に佐敷川沿いの佐敷道(人吉街道)を遡り、神瀬で球磨川本流に合流し、人吉本街道(国道219号線)を約17キロほど上った人吉市に築かれた城館である。
【写真左】人吉城遠望
西側から見たもので、手前の左側に人吉城歴史館、右側には武家屋敷跡がある。
中央奥に中世人吉城時代の内御城(近世人吉城時代の本丸)などが見える。
人吉城は、築城されてから廃城まで約800年という長い歴史を持つ。このため、当城は大まかにいえば、
冒頭でも示したように、築城期については建久2年(1198)説と、元久年間(1204~1206)説の二説があり、確定していないが、城郭として確立したのはおそらく相良長頼が入城してからだろう。
建久9年(1198)遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市相良)から地頭として人吉庄に下向した相良長頼は、当時人吉城を本拠とし、平頼盛の代官であった矢瀬主馬祐を滅ぼし、翌年から当城の修築を行ったとされている。
【写真左】上から見た人吉城
南西方向から見たもので、近世城郭は中世城郭区域にほぼ重なるが、さらに手前左側の球磨川沿いに曲輪(削平地)を増設し、武家屋敷などを置いた。
南北朝期から戦国期
この時期は各地であったように宮方と武家方に分かれた戦いがこの人吉地方でも行われた。文安5年(1448)、第11代当主長続が、当時多良木(人吉市から東方へ約20km)を支配していた上相良氏を滅ぼし、球磨郡を統一。以後、相良氏は葦北・八代・北薩摩まで支配を広げ、戦国大名となっていく。
【写真左】相良神社
相良氏を祀ったもので、周囲には御館跡の礎石群や井戸跡がある。
この写真の右側から少し高くなった位置に三の丸などが繋がる。
秀簹書状
読みはおそらく「しゅうとう」と思われるが、文明2年(1470)、時の当主為続は、従五位下に任じられた。この写真はそのとき大内政弘の僧・秀簹から贈られた祝いの文書で、宛名に「人吉御城 日人々御中」と記されている。
【写真左】秀簹書状(影写本)
人吉市教育委員会所蔵
人吉城の史料上初見とされる文書である。
このころは、応仁の乱が最も激しくなった頃で、相良為続は大内政弘側から祝いの書状を拝受していることから、西軍に属して戦ったと思われる。
【写真左】三の丸・二の丸・本丸へ向かう階段
進入口はこれ以外に北側の御下門跡からも向かうことができる。
八代古麓城
ところで、相良氏が人吉地方を中心として、葦北・八代・北薩摩まで支配を広げていたことは前述の通りだが、戦国期まで常に人吉城を本拠としていたわけでもないようだ。
『八代日記』という文書によれば、大永4年(1524)ごろには、相良氏は本拠を八代古麓城に置き、人吉城には同族の上村頼興を城代として置いている。
具体的に八代古麓城を本拠城としていたのは、
第16代・義滋(~1546)から、第17代・春廣(~1555)~第18代・義陽(~1581)までである。
【写真左】城郭配置詳細図
これまで何度も改築された関係上、時代によって遺構部名称に違いがあるが、主だった箇所はほぼ固定している。
【写真左】三の丸西側下段部
相良神社と三の丸の間には忠霊塔があり、そこから南に進むと、三の丸にたどり着く。
写真左側が三の丸
水俣合戦
さて、第18代・義陽の代となった天正9年(1581)、薩摩の島津義久の北方進出における水俣合戦において敗れ、所領としていた葦北・八代を失った。そして、その後義久に降った義陽は、宇城市の響野原において討死した。
【写真左】三ノ丸
単独で残るものとして規模は長径100m×短径50mの規模を持つもので、北東部の井戸を介して、飛び地の三の丸が二か所ある。
また、三の丸の北東端には中の御門跡がある。
【写真左】二ノ丸
三の丸の東側に構築され、中央に南北方向に本丸に向かう道が設置されている。
写真奥には、本丸に繋がる階段が見える。
【写真左】二の丸側から本丸を見る。
本丸付近は二の丸に比べ周辺部の樹木などは伐採されておらず、こんもりとした景観となっている。
【写真左】本丸
中世には「高御城(たかおしろ)」と呼ばれ、主として宗教的空間として使われていたという。
江戸期に入って、護摩堂が建てられ、さらに付近には太鼓屋、山伏番所などがあったという。
礎石群は当時の二階建て四間四方の護摩堂のものが残る。
近世人吉城
現在残る人吉城、すなわち近世城郭として着手したのは、第20代・頼房である。別名長毎(ながつね)ともいう。なお、相良氏にはもう一人同じ長毎がいるが、これは第13代当主で戦国前期(文明元年~永正15年)に活躍した城主である。
【写真左】近世人吉城時代の構成
現在残る本丸・二の丸・三の丸は慶長3年(1598)に改築され、中央にある相良神社付近は慶長6年(1601)それぞれ改築されている。
また、左側の角櫓・二棟の多門櫓などは正保年間にそれぞれ手が加えられた。
【写真左】下台所跡・犬童(いんどう)市衛門屋敷跡
江戸初期の絵図によれば、球磨川と後口馬場に挟まれた区域は相良清兵衛屋敷及び息子の内蔵助屋敷などがあり、同じく写真付近には下台所や犬童市衛門屋敷などがあったという。
左奥の建物は人吉市役所。
天正15年(1587)における秀吉の九州島津氏討伐においては、当初島津氏に属していたが、家臣・深水長智の働きによって、秀吉(秀長)との交渉により所領の安堵をみた。しかし、その後肥後を治めていた佐々成政が、同国の国人一揆平定の際、取り返しのつかない判断ミスを犯してしまう。
【写真左】御下門跡付近
本丸を探訪した後、今度は北側の球磨川沿いに向かうルートを降ると、御下門という場所に出る。
周囲の石垣群に囲まれ、さらには色鮮やかな樹木が頭上に揺れる。
紅葉の時期になれば、もっと楽しめるだろう。
それは、一揆平定のために、秀吉が島津義弘らを肥後に支援に向かわせるようにしたところ、成政は島津氏らが自らを攻めてくるものと勘違いし、相良頼房は成政の命に従って、義弘入国を阻止してしまった。激怒した秀吉は、翌天正16年閏5月14日、成政をその責によって自害させた。
相良氏はすぐさま、深水長智を大阪に向かわせ、秀吉に詫びを請い、また島津氏との誤解を解くため奔走、かろうじて相良氏は処罰を逃れた。
【写真左】水の手門跡・その1
慶長12年(1607)から球磨川沿いに石垣工事が始まり、外曲輪が川沿いにかけて構築された。さらに、球磨川沿いに7か所の船着場が設置された。
この水の手門跡はその中で最大のもの。
奥に見えるのが球磨川で、橋は「木ノ手橋」。
人吉城の改築
頼房が具体的に人吉城を近世城郭として改築を開始したのは、その翌年の天正17年(1589)からである。特に石垣普請については、豊後から多数の石工を呼び寄せている。
慶長3年(1598)になると、御館の普請・作事、同5年には本丸・二の丸及び三の丸などが、また翌6年には御本丸・二の丸・堀・櫓御門などが完成した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、直前まで豊臣方に与する方針だったが、重臣相良清兵衛の機転によって、一転して徳川方につき、改易を逃れた。その後、慶長12年(1607)、寛永3年(1626)と断続的に近世城郭としての機能を持たせた改築を行っていった。
【写真左】水の手門跡・その2
西側から見たもので、手前の礎石状のものは間米蔵跡のもの。
船で運ばれた米など食糧などはこの蔵に備蓄されたのだろう。
その後の人吉城
江戸期に至ると、他藩がそうであったように、人吉藩にもお家騒動の記録が残る。
特に、寛永17年(1640)、犬童(田代)半兵衛等清兵衛一族による「お下の乱」において、西外曲輪の北半分が焼失した。この事件をきっかけに石垣普請は断念され、大手門から南の岩下門までの石垣は設置されなくなったという。
●所在地 熊本県人吉市麓町18番地
●史跡 国指定史跡
●築城期 建久9年(1198)以前、又は元久年間(1204~1206)
●築城者 矢瀬主馬祐(平頼盛代官)又は、相良長頼
●城主 相良氏
●廃城年 明治4年(1871)
●形態 梯郭式平山城
●遺構 石垣・郭・土塁・礎石その他
●登城日 2013年10月13日
◆解説(参考文献『〈相良氏の居城〉史跡人吉城跡 2010年人吉市教育委員会編』など)
人吉城は、前稿の佐敷城(熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町)から、東に佐敷川沿いの佐敷道(人吉街道)を遡り、神瀬で球磨川本流に合流し、人吉本街道(国道219号線)を約17キロほど上った人吉市に築かれた城館である。
【写真左】人吉城遠望
西側から見たもので、手前の左側に人吉城歴史館、右側には武家屋敷跡がある。
中央奥に中世人吉城時代の内御城(近世人吉城時代の本丸)などが見える。
人吉城は、築城されてから廃城まで約800年という長い歴史を持つ。このため、当城は大まかにいえば、
- 中世人吉城
- 近世人吉城
の2期に分けられる。
中世人吉城
冒頭でも示したように、築城期については建久2年(1198)説と、元久年間(1204~1206)説の二説があり、確定していないが、城郭として確立したのはおそらく相良長頼が入城してからだろう。
【写真左】中世人吉城時代の構成
左上の区域が現在残る近世城郭(本丸・二の丸・三の丸など)中心部で、中世時代には、既にこれとは別に、右側に、下原城、その下に原城外廻、中央に中原城、その下に上原城、その左(西側)西の丸などがあり、大規模なものである。
これをさらに詳細に示した図面が下段のもの。
【写真左】中世人吉城時代の配置図
相良氏が入国した鎌倉時代から縄張として平山城を構築していったものと思われるが、その大きさに改めて驚かされる。
左上の区域が現在残る近世城郭(本丸・二の丸・三の丸など)中心部で、中世時代には、既にこれとは別に、右側に、下原城、その下に原城外廻、中央に中原城、その下に上原城、その左(西側)西の丸などがあり、大規模なものである。
これをさらに詳細に示した図面が下段のもの。
【写真左】中世人吉城時代の配置図
相良氏が入国した鎌倉時代から縄張として平山城を構築していったものと思われるが、その大きさに改めて驚かされる。
相良長頼(さがらながより)
建久9年(1198)遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市相良)から地頭として人吉庄に下向した相良長頼は、当時人吉城を本拠とし、平頼盛の代官であった矢瀬主馬祐を滅ぼし、翌年から当城の修築を行ったとされている。
【写真左】上から見た人吉城
南西方向から見たもので、近世城郭は中世城郭区域にほぼ重なるが、さらに手前左側の球磨川沿いに曲輪(削平地)を増設し、武家屋敷などを置いた。
南北朝期から戦国期
この時期は各地であったように宮方と武家方に分かれた戦いがこの人吉地方でも行われた。文安5年(1448)、第11代当主長続が、当時多良木(人吉市から東方へ約20km)を支配していた上相良氏を滅ぼし、球磨郡を統一。以後、相良氏は葦北・八代・北薩摩まで支配を広げ、戦国大名となっていく。
相良氏を祀ったもので、周囲には御館跡の礎石群や井戸跡がある。
この写真の右側から少し高くなった位置に三の丸などが繋がる。
秀簹書状
読みはおそらく「しゅうとう」と思われるが、文明2年(1470)、時の当主為続は、従五位下に任じられた。この写真はそのとき大内政弘の僧・秀簹から贈られた祝いの文書で、宛名に「人吉御城 日人々御中」と記されている。
【写真左】秀簹書状(影写本)
人吉市教育委員会所蔵
人吉城の史料上初見とされる文書である。
このころは、応仁の乱が最も激しくなった頃で、相良為続は大内政弘側から祝いの書状を拝受していることから、西軍に属して戦ったと思われる。
【写真左】三の丸・二の丸・本丸へ向かう階段
進入口はこれ以外に北側の御下門跡からも向かうことができる。
八代古麓城
ところで、相良氏が人吉地方を中心として、葦北・八代・北薩摩まで支配を広げていたことは前述の通りだが、戦国期まで常に人吉城を本拠としていたわけでもないようだ。
『八代日記』という文書によれば、大永4年(1524)ごろには、相良氏は本拠を八代古麓城に置き、人吉城には同族の上村頼興を城代として置いている。
具体的に八代古麓城を本拠城としていたのは、
第16代・義滋(~1546)から、第17代・春廣(~1555)~第18代・義陽(~1581)までである。
【写真左】城郭配置詳細図
これまで何度も改築された関係上、時代によって遺構部名称に違いがあるが、主だった箇所はほぼ固定している。
【写真左】三の丸西側下段部
相良神社と三の丸の間には忠霊塔があり、そこから南に進むと、三の丸にたどり着く。
写真左側が三の丸
水俣合戦
さて、第18代・義陽の代となった天正9年(1581)、薩摩の島津義久の北方進出における水俣合戦において敗れ、所領としていた葦北・八代を失った。そして、その後義久に降った義陽は、宇城市の響野原において討死した。
【写真左】三ノ丸
単独で残るものとして規模は長径100m×短径50mの規模を持つもので、北東部の井戸を介して、飛び地の三の丸が二か所ある。
また、三の丸の北東端には中の御門跡がある。
【写真左】二ノ丸
三の丸の東側に構築され、中央に南北方向に本丸に向かう道が設置されている。
写真奥には、本丸に繋がる階段が見える。
【写真左】二の丸側から本丸を見る。
本丸付近は二の丸に比べ周辺部の樹木などは伐採されておらず、こんもりとした景観となっている。
【写真左】本丸
中世には「高御城(たかおしろ)」と呼ばれ、主として宗教的空間として使われていたという。
江戸期に入って、護摩堂が建てられ、さらに付近には太鼓屋、山伏番所などがあったという。
礎石群は当時の二階建て四間四方の護摩堂のものが残る。
近世人吉城
現在残る人吉城、すなわち近世城郭として着手したのは、第20代・頼房である。別名長毎(ながつね)ともいう。なお、相良氏にはもう一人同じ長毎がいるが、これは第13代当主で戦国前期(文明元年~永正15年)に活躍した城主である。
【写真左】近世人吉城時代の構成
現在残る本丸・二の丸・三の丸は慶長3年(1598)に改築され、中央にある相良神社付近は慶長6年(1601)それぞれ改築されている。
また、左側の角櫓・二棟の多門櫓などは正保年間にそれぞれ手が加えられた。
【写真左】下台所跡・犬童(いんどう)市衛門屋敷跡
江戸初期の絵図によれば、球磨川と後口馬場に挟まれた区域は相良清兵衛屋敷及び息子の内蔵助屋敷などがあり、同じく写真付近には下台所や犬童市衛門屋敷などがあったという。
左奥の建物は人吉市役所。
天正15年(1587)における秀吉の九州島津氏討伐においては、当初島津氏に属していたが、家臣・深水長智の働きによって、秀吉(秀長)との交渉により所領の安堵をみた。しかし、その後肥後を治めていた佐々成政が、同国の国人一揆平定の際、取り返しのつかない判断ミスを犯してしまう。
【写真左】御下門跡付近
本丸を探訪した後、今度は北側の球磨川沿いに向かうルートを降ると、御下門という場所に出る。
周囲の石垣群に囲まれ、さらには色鮮やかな樹木が頭上に揺れる。
紅葉の時期になれば、もっと楽しめるだろう。
それは、一揆平定のために、秀吉が島津義弘らを肥後に支援に向かわせるようにしたところ、成政は島津氏らが自らを攻めてくるものと勘違いし、相良頼房は成政の命に従って、義弘入国を阻止してしまった。激怒した秀吉は、翌天正16年閏5月14日、成政をその責によって自害させた。
相良氏はすぐさま、深水長智を大阪に向かわせ、秀吉に詫びを請い、また島津氏との誤解を解くため奔走、かろうじて相良氏は処罰を逃れた。
【写真左】水の手門跡・その1
慶長12年(1607)から球磨川沿いに石垣工事が始まり、外曲輪が川沿いにかけて構築された。さらに、球磨川沿いに7か所の船着場が設置された。
この水の手門跡はその中で最大のもの。
奥に見えるのが球磨川で、橋は「木ノ手橋」。
人吉城の改築
頼房が具体的に人吉城を近世城郭として改築を開始したのは、その翌年の天正17年(1589)からである。特に石垣普請については、豊後から多数の石工を呼び寄せている。
慶長3年(1598)になると、御館の普請・作事、同5年には本丸・二の丸及び三の丸などが、また翌6年には御本丸・二の丸・堀・櫓御門などが完成した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、直前まで豊臣方に与する方針だったが、重臣相良清兵衛の機転によって、一転して徳川方につき、改易を逃れた。その後、慶長12年(1607)、寛永3年(1626)と断続的に近世城郭としての機能を持たせた改築を行っていった。
【写真左】水の手門跡・その2
西側から見たもので、手前の礎石状のものは間米蔵跡のもの。
船で運ばれた米など食糧などはこの蔵に備蓄されたのだろう。
その後の人吉城
江戸期に至ると、他藩がそうであったように、人吉藩にもお家騒動の記録が残る。
特に、寛永17年(1640)、犬童(田代)半兵衛等清兵衛一族による「お下の乱」において、西外曲輪の北半分が焼失した。この事件をきっかけに石垣普請は断念され、大手門から南の岩下門までの石垣は設置されなくなったという。
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