2020年5月3日日曜日

但馬・轟城(兵庫県豊岡市竹野町轟字城山)

但馬・轟城(たじま・とどろきじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市竹野町轟字城山 
●別名 青葉城
●高さ H:147.1m(比高 130m)
●築城期 不明(永享2年(1430)か)
●築城者 不明(垣屋国時又は豊茂か)
●城主 垣屋豊続
●遺構 郭・堀切・竪堀・土塁等
●備考 秋葉神社
●登城日 2016年12月19日

解説(参考資料 第20回国史跡指定記念見学会 竹野・轟(青葉)城跡見学会(山名氏城跡保存会主催)資料(2015年8月23日)等)

 但馬・轟城(以下「轟城」とする。)は、垣屋氏の居城であったといわれている。場所は、日本海に注ぐ竹野川とその支流大谷川の間に挟まれた標高150m足らずの青葉山に築かれている。
【写真左】轟城鳥瞰図
 縄張図を基に管理人が描写したもので、この図では描いていないが、南側から大谷川が流れ、東側で竹野川と合流している。


 築城者は垣屋隆国の三男国時が築城した(『因幡垣屋系図』)とされているが、史料的には確認できていない。城主として確認できているのが、駿河守豊続(宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)参照) だけで、『高畑垣屋文書』では、豊保→豊続→知継が駿河家の系譜と記されている。

城の構造

 当城の縄張構成は特徴的なものは見られないが、鳥瞰図にもあるように、主郭(A)から(E)までの郭は規模は中規模ながら、施工精度もよく、保存状態も良好である。
主郭には現在秋葉神社が祀られている。参考までに主だった郭の規模を下段に示す。
  • 主郭(A) 南北45m×東西25m
  • B郭    南北22m×37m
  • C郭    南北44m×26m
  • D郭    29m×18m
  • E郭    43m×10m
 このほか主郭を挟んで、北西の尾根筋に堀切が3か所あり、南西のには小郭3段のあと東の尾根に1条の堀切(大手筋)、また南に分かれる尾根筋に2条の堀切が構築されている。
写真左】轟城遠望
 東麓側を南北に走る日高竹野線(1号線)から見たもので、手前の橋の下を流れるのは竹野川。写真の右方向が下流で日本海へそそぐ。
【写真左】登城開始
 当初東麓側に登城道があるものと思い周辺部を探索したが見つからず、南麓側を流れる竹野川支流の大谷川沿いまで回り込んだ。
 しばらくすると、木製の橋が架かっているところを見つけ、それらしき道があったので進んだ。
 ところが、これは途中にある墓地専用の道で、この先には道がなく、やむを得ず藪コギ覚悟の道なき道をひたすら登って行く。
【写真左】尾根筋にたどり着く。
 途中で旧道らしき窪道が確認できたが、現地は孟宗竹などの繁茂で度々行く手を阻まれ、かなり体力を消耗した。
 やっとたどり着いたのが御覧の尾根筋。主郭から南東方向に伸びる尾根で、上図鳥瞰図でいえば、郭(G群)の先端部に当たる。
【写真左】南東尾根先端部の郭
 さきほどの尾根筋から一旦下っていくと、まとまった小規模な郭が出てきた。郭(G群)の一つと思われ、この尾根軸を更に下ると2条の堀切があり、また尾根軸の右下にも一条の堀切が配置されているが、当日はそこまで向かっていない。
 このあと主郭をめざして登って行く。
【写真左】南東側郭
 上掲した鳥瞰図では小規模な郭群として描写しているが、この個所は尾根幅が狭いものの、長軸は3か所の郭が連続していることもあり全長では50~60m前後ある。
【写真左】郭と堀切
 郭(G)群の最高所付近で、東に向かって堀切が残る。
 このあと、しばらく九十九折しながら主郭の方向へ向かう。
【写真左】主郭の南東端が見えてきた。
【写真左】主郭・その1
 南側から見たもので、右下には後ほど紹介する郭(C)が控える。
【写真左】主郭・その2
 光線の具合で分かりずらいが、中央やや左に秋葉神社が祀られている。
【写真左】主郭北側
 左側には秋葉神社の建物が見える。この右下には後段で紹介する郭(B)が控える。
【写真左】郭(C)から主郭を見上げる。
左側には主郭に向かう道が見え、その開口部は虎口の跡を残している。
 なお、この位置から右側に向かうと郭(B)に繋がる。
【写真左】郭(C)
 主郭下の郭で、奥行きはさほどないが、幅がある。
【写真左】郭(B)
 郭(C)から北西の方向に向かうと、細長い郭(B)が配置されている。
 このあと、先端部まで進んでみる。
【写真左】堀切
 郭(B)の先をさらに尾根伝いに降りて行くと堀切が見える。写真では樹木があるため分かりにくい。
【写真左】堀切側から郭(E)の方へ回り込む。
 堀切のほぼ最下点辺りまできたところで、高度を上げずそのまま切岸面をトラバースし、郭(E)の方向へ向かう。
【写真左】郭(E)
 上段の郭に比べ、劣化が進んでいるが、細長い形状は残している。
【写真左】郭(D)
 郭(E)から再び上に上がり、郭(D)を見る。ちょうど郭(C)に繋がる連絡路が見える。
【写真左】下城開始
 この途中には小規模な単発の郭や、竪堀群などもあるが、明瞭な写真が撮れなかったため割愛させていただく。
 下城コースは、登城コースとは反対側、すなわち大手と思われる東側の方へ降りるようになっている。
【写真左】鳥居
 降りてくると、鳥居が建っている。結局下城コースは、主郭に祀られている秋葉神社への参道だったことになる。
 鳥居には、宝暦の年号が刻まれている。
さらにその下には、
「別當 蓮華寺朝禅」
と筆耕された文字が確認できる。宝暦は、江戸期の寛延後の1751~64年の期間で、鳥居と同じころ、主郭に秋葉神社が祀られたものだろう。
 この鳥居を寄進した蓮華寺とは、轟城の東麓に所在する古刹である。

峰山 蓮華寺

 但馬西国第31番霊場で、木月道人(もくげつどうじん)の書画・襖絵で飾られていることから別名木月寺とも呼ばれている同寺は、慶雲4年(707)行基開創と伝わる。
 大門坊、宝積院、鎮守社拝殿、本坊、松尾坊、愛染堂、不動堂といった多くの坊舎等があったが、現在はほとんどその跡を残すのみである。
【写真左】蓮華寺入口付近
【写真左】参道
 当院とは別に、北側には「阿古谷神社」「森神社」が祀られている。神仏混交の時代を残しているのだろう。
【写真左】蓮華寺の文化財説明板
当院には多くの文化財が残る。


 主だったものとしては、次のものがある。



①絹本著色大日如来像(鎌倉時代後期)
絹本著色愛染明王像(鎌倉時代末期)
③木造聖観音菩薩立像(平安時代中期から後期)
④木造十一面観音菩薩立像(平安時代後期)
⑤その他


【写真左】不動堂跡付近


【写真左】蓮華寺から轟城を遠望する。


0 件のコメント:

コメントを投稿