布部要害山城(ふべようがいさんじょう)
●登城日 2007年12月8日
●所在地 安来市 広瀬町 布部
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 不明
●標高 183m
●別名 布弁城、布部城、一円山・飯ヶ山・古城山
●遺跡の現状 遺構一部破損
●備考 郭、腰廓、堀切、虎口、土塁、竪掘
◆解説(現地の説明板より)
“要害山由来
要害山は、火山系安山岩で出来ており、別名一円山ともいわれ、標高180mあり、布部は尼子と毛利の天下分け目の戦場となったところで、尼子の武将・森脇市正久仍(ひさより)が陣取った山城の一つである。
【写真左】布部要害山城遠望
東麓を走る国道432号線からみたもの。
【写真右】説明板の図面
戦の場所は、当城の他に、3か所でも行われていた。
元亀元年(1570)2月14日、毛利輝元率いる14,000の将兵と、尼子勝久率いる武将・山中鹿之助幸盛の7,000の兵が激突した。しかし、多勢に無勢で、尼子方は300の死者を出し、広瀬富田城奪還の夢破れ、ついに山佐方面に総退却せざるを得なかった。
両軍の戦死者の霊を慰める山中祭は、毎年2月14日に行われ、陣粥がふるまわれる。なお、山頂の祠は、120年前、西の谷から移され、祭神は加具槌の神(いざなぎ いざなみの命の子)で、火の災いを鎮めるように祀ったと古事記は伝えている。地元では、愛宕神社と呼び、8月に神事や、夏まつりの点灯でにぎわう。“
【写真左】要害山山頂部
上記の説明板と、祠、小屋が設置してある。
【写真左】要害山城から月山富田城方面を見る。
【写真左:上下】要害山城の南にある布部神社。
上段の説明文と重複するが、「ひろせ史蹟名勝ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編」(月山尼子ロマンの里づくり委員会)によると、もともと布部山(一円山)に愛宕神社があり、「軻遇突智命(かぐとちのみこと)」を祀っていた。
元亀元年(1570)布部合戦のとき、神社が被害に及んではと、現在地の清和山に奉還されたということらしい。
この布部山の脇を通る432号線は、戦国時代、大内氏や毛利氏がたびたび月山冨田城攻めの際利用した道で、このルートから攻め入る際には物理的にも上流部にある三沢氏の存在が重要になる。
尼子氏を南方から攻めるとき、三沢氏が毛利に与していたから成し得たわけで、同氏や三刀屋氏が毛利に降礼をとらなかったら、尼子の滅亡ももう少し遅くなっていたと思われる。
なお、布部合戦で毛利が勝利したもうひとつの理由の一つとして、地元の「老婆」が毛利方に布部の詳しい山道を教えたこと伝えられているが、なんとなく「できすぎた話」にも思える。
別の史料によれば、実際には、地元布部の土豪(小藤・小林・安部・椿氏など)を、吉川元春が買収し、その間道を教えてもらったという記録がある。
この戦いは戦力の大小も関係しているが、毛利方の事前の情報収集(特に地理的なルート)によるところが大きい。
鹿助は、同合戦の大敗北によって、山佐方面へ逃げる。
●登城日 2007年12月8日
●所在地 安来市 広瀬町 布部
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 不明
●標高 183m
●別名 布弁城、布部城、一円山・飯ヶ山・古城山
●遺跡の現状 遺構一部破損
●備考 郭、腰廓、堀切、虎口、土塁、竪掘
◆解説(現地の説明板より)
“要害山由来
要害山は、火山系安山岩で出来ており、別名一円山ともいわれ、標高180mあり、布部は尼子と毛利の天下分け目の戦場となったところで、尼子の武将・森脇市正久仍(ひさより)が陣取った山城の一つである。
【写真左】布部要害山城遠望
東麓を走る国道432号線からみたもの。
【写真右】説明板の図面
戦の場所は、当城の他に、3か所でも行われていた。
元亀元年(1570)2月14日、毛利輝元率いる14,000の将兵と、尼子勝久率いる武将・山中鹿之助幸盛の7,000の兵が激突した。しかし、多勢に無勢で、尼子方は300の死者を出し、広瀬富田城奪還の夢破れ、ついに山佐方面に総退却せざるを得なかった。
両軍の戦死者の霊を慰める山中祭は、毎年2月14日に行われ、陣粥がふるまわれる。なお、山頂の祠は、120年前、西の谷から移され、祭神は加具槌の神(いざなぎ いざなみの命の子)で、火の災いを鎮めるように祀ったと古事記は伝えている。地元では、愛宕神社と呼び、8月に神事や、夏まつりの点灯でにぎわう。“
【写真左】要害山山頂部
上記の説明板と、祠、小屋が設置してある。
【写真左】要害山城から月山富田城方面を見る。
【写真左:上下】要害山城の南にある布部神社。
上段の説明文と重複するが、「ひろせ史蹟名勝ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編」(月山尼子ロマンの里づくり委員会)によると、もともと布部山(一円山)に愛宕神社があり、「軻遇突智命(かぐとちのみこと)」を祀っていた。
元亀元年(1570)布部合戦のとき、神社が被害に及んではと、現在地の清和山に奉還されたということらしい。
この布部山の脇を通る432号線は、戦国時代、大内氏や毛利氏がたびたび月山冨田城攻めの際利用した道で、このルートから攻め入る際には物理的にも上流部にある三沢氏の存在が重要になる。
尼子氏を南方から攻めるとき、三沢氏が毛利に与していたから成し得たわけで、同氏や三刀屋氏が毛利に降礼をとらなかったら、尼子の滅亡ももう少し遅くなっていたと思われる。
なお、布部合戦で毛利が勝利したもうひとつの理由の一つとして、地元の「老婆」が毛利方に布部の詳しい山道を教えたこと伝えられているが、なんとなく「できすぎた話」にも思える。
別の史料によれば、実際には、地元布部の土豪(小藤・小林・安部・椿氏など)を、吉川元春が買収し、その間道を教えてもらったという記録がある。
この戦いは戦力の大小も関係しているが、毛利方の事前の情報収集(特に地理的なルート)によるところが大きい。
鹿助は、同合戦の大敗北によって、山佐方面へ逃げる。
祖母の先祖が、布部の小藤家で先祖のことを調べていてこのページにたどり着きました。
返信削除吉川元春が、布部の間道を知るために地元の4豪族を買収した話の資料元がわかれば教えていただけないでしょうか?