三笠城(みかさじょう)・その1
●別名 牛尾城跡、三笠山城跡●登城日 2008年6月4日
●所在地 雲南市 大東町 南村 三笠他
●時代 中世 ●遺跡種別 城館跡
●指定 未指定 ●標高 302 m
●築城主 室町時代、牛尾弾正忠が築城
●遺構種別 溝 その他 ●遺構概要 郭 腰郭 土塁 石垣 虎口 井戸 (島根県遺跡データベースより)
◆解説
この日(2008年6月4日)の地元紙・山陰中央新報にたまたま、写真のような記事を見つけ、衝動的に「三笠城」「牛尾氏」の地元・大東町南村に車を走らせた。
同紙の掲載内容は次の通り。
“雲南・大東の中世領主「先祖」牛尾氏 の活躍ぶりしのぶ
中世の室町・戦国期の約300年間、旧大原郡(現雲南市)で勢力を張った国人領主・牛尾氏(本姓は中沢氏)の出身地・長野県駒ケ根市中沢地区の一行14人が6月3日、牛尾氏が本拠とした雲南市大東町海潮地区を訪れ、墓所などを見学して尼子氏に仕えた盛時の活躍ぶりをしのんだ。
墓所など見学
一行は中沢公民館中沢郷土学習会(30人)のメンバー。牛尾氏は中沢地区から旧大原郡に入部した新補地頭で、30年前から同学習会では海潮地区訪問を願っており、今回実現させた。
この日は、大東町南村の海潮公民館で海潮地区振興会の宮川昇会長、同町の郷土史家・松田勉さん、古代鉄歌謡館の高橋勲館長らが歓迎。一行は同振興会が用意した牛尾氏の歴史資料などを基に説明を聞いたあと、牛尾氏の墓所がある近くの弘安寺を訪問し、400年ほど前に建立されたという五輪塔などを見た。
また、弘安寺から牛尾氏の居城だった三笠山城跡や出城の高平山城跡を遠望し、旧大原郡内から神門郡(簸川郡)まで統治を広げたという牛尾氏の時代に思いをはせた。
この後、和歌発祥の地とされるスサノウノミコト(須佐之男命)ゆかりの須我神社や同歌謡館も廻った。
同学習会の上村睦生会長は「中沢地区と海潮地区は山が多く、景色が似ている。先祖にあったような気がする」と感激していた。“
【写真左】牛尾氏墓所がある弘安寺門前
なお、同寺は、天正6年、牛尾大蔵左衛門によって開基されたとあるので、牛尾氏の祖である中沢氏が下向したときの代の墓は、この写真のものかどうかはわからない。
境内には出雲観音霊場第15番札所である観音堂も建っている。
【写真左】牛尾氏(神・中澤氏)の墓
墓所は、弘安寺の境内から外れた西の傾斜面に設置されている。
宝篋印塔型のものが2,3基あり、その左右には直系の一族のものと思われる墓が横に一列に並び、さらに手前の段には、家臣のものと思われる墓が寄り添うように建っている(下の写真参照)。
【写真左】牛尾氏家臣のものと思われる墓
【写真左】弘安寺側から見た三笠城遠望
本丸の位置はこの写真中央にある山のさらに奥の方にある。
登城口は写真右の谷を少しのぼった位置にある。
なお、三笠城の出城であった高平城は、この写真には入っていないが、左の丘陵地付近にあった。
【写真左】三笠城登城口手前に鎮座する海潮(うしお)神社
同社の縁起一部を掲載する。
“延喜式内社 元郷社 海潮神社御由緒
御祭神 宇(う)能(の)治比(ちひ)古(この)命(みこと)
(前段省略)
…降(くだ)って、出雲式社考あるいは雲陽誌には、大森大明神と称し、天正9年11月(420年前)造営の棟札があり、以後17回の社殿造営の記録がある。
古来武将部門の崇敬篤く、中世のころ、この海潮の地を領した尼子氏の重臣・牛尾弾正忠は、三笠城に拠り当社を祈願社と定め、社地社領の寄進をし、祈願神事に用いたと伝える獅子頭を今も社蔵している。
明治維新までは、年々御札下げにて社領来の寄進があったが、王政復古を期して廃止された。
明治5年1月新制度により郷社に列格、郡政下にあっては例大祭に郡長の参向が続き、明治・大正・昭和の初期までは大森さんと称して親しまれ、遠近を問わず崇敬されてきた。
創立以来千数百年、社地社殿等の移転もなく今日に至っている由緒ある神社である。
境内社 稲荷神社 恵美須社
八幡宮 高平社
社日社 総荒神社
鷲神社
三大祭 例大祭 10月20日
祈念祭 3月22日
新嘗祭 11月27日
平成13年10月20日 正遷座祭斎行記念
宮司 新田 有一 職“
なお、三笠城そのもののについては、次稿で紹介したい。
●所在地 雲南市 大東町 南村 三笠他
●時代 中世 ●遺跡種別 城館跡
●指定 未指定 ●標高 302 m
●築城主 室町時代、牛尾弾正忠が築城
●遺構種別 溝 その他 ●遺構概要 郭 腰郭 土塁 石垣 虎口 井戸 (島根県遺跡データベースより)
◆解説
この日(2008年6月4日)の地元紙・山陰中央新報にたまたま、写真のような記事を見つけ、衝動的に「三笠城」「牛尾氏」の地元・大東町南村に車を走らせた。
同紙の掲載内容は次の通り。
“雲南・大東の中世領主「先祖」牛尾氏 の活躍ぶりしのぶ
出身地長野から学習会一行
中世の室町・戦国期の約300年間、旧大原郡(現雲南市)で勢力を張った国人領主・牛尾氏(本姓は中沢氏)の出身地・長野県駒ケ根市中沢地区の一行14人が6月3日、牛尾氏が本拠とした雲南市大東町海潮地区を訪れ、墓所などを見学して尼子氏に仕えた盛時の活躍ぶりをしのんだ。
墓所など見学
一行は中沢公民館中沢郷土学習会(30人)のメンバー。牛尾氏は中沢地区から旧大原郡に入部した新補地頭で、30年前から同学習会では海潮地区訪問を願っており、今回実現させた。
この日は、大東町南村の海潮公民館で海潮地区振興会の宮川昇会長、同町の郷土史家・松田勉さん、古代鉄歌謡館の高橋勲館長らが歓迎。一行は同振興会が用意した牛尾氏の歴史資料などを基に説明を聞いたあと、牛尾氏の墓所がある近くの弘安寺を訪問し、400年ほど前に建立されたという五輪塔などを見た。
また、弘安寺から牛尾氏の居城だった三笠山城跡や出城の高平山城跡を遠望し、旧大原郡内から神門郡(簸川郡)まで統治を広げたという牛尾氏の時代に思いをはせた。
この後、和歌発祥の地とされるスサノウノミコト(須佐之男命)ゆかりの須我神社や同歌謡館も廻った。
同学習会の上村睦生会長は「中沢地区と海潮地区は山が多く、景色が似ている。先祖にあったような気がする」と感激していた。“
【写真左】牛尾氏墓所がある弘安寺門前
なお、同寺は、天正6年、牛尾大蔵左衛門によって開基されたとあるので、牛尾氏の祖である中沢氏が下向したときの代の墓は、この写真のものかどうかはわからない。
境内には出雲観音霊場第15番札所である観音堂も建っている。
【写真左】牛尾氏(神・中澤氏)の墓
墓所は、弘安寺の境内から外れた西の傾斜面に設置されている。
宝篋印塔型のものが2,3基あり、その左右には直系の一族のものと思われる墓が横に一列に並び、さらに手前の段には、家臣のものと思われる墓が寄り添うように建っている(下の写真参照)。
【写真左】牛尾氏家臣のものと思われる墓
【写真左】弘安寺側から見た三笠城遠望
本丸の位置はこの写真中央にある山のさらに奥の方にある。
登城口は写真右の谷を少しのぼった位置にある。
なお、三笠城の出城であった高平城は、この写真には入っていないが、左の丘陵地付近にあった。
【写真左】三笠城登城口手前に鎮座する海潮(うしお)神社
同社の縁起一部を掲載する。
“延喜式内社 元郷社 海潮神社御由緒
御祭神 宇(う)能(の)治比(ちひ)古(この)命(みこと)
(前段省略)
…降(くだ)って、出雲式社考あるいは雲陽誌には、大森大明神と称し、天正9年11月(420年前)造営の棟札があり、以後17回の社殿造営の記録がある。
古来武将部門の崇敬篤く、中世のころ、この海潮の地を領した尼子氏の重臣・牛尾弾正忠は、三笠城に拠り当社を祈願社と定め、社地社領の寄進をし、祈願神事に用いたと伝える獅子頭を今も社蔵している。
明治維新までは、年々御札下げにて社領来の寄進があったが、王政復古を期して廃止された。
明治5年1月新制度により郷社に列格、郡政下にあっては例大祭に郡長の参向が続き、明治・大正・昭和の初期までは大森さんと称して親しまれ、遠近を問わず崇敬されてきた。
創立以来千数百年、社地社殿等の移転もなく今日に至っている由緒ある神社である。
境内社 稲荷神社 恵美須社
八幡宮 高平社
社日社 総荒神社
鷲神社
三大祭 例大祭 10月20日
祈念祭 3月22日
新嘗祭 11月27日
平成13年10月20日 正遷座祭斎行記念
宮司 新田 有一 職“
なお、三笠城そのもののについては、次稿で紹介したい。
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