桂城(かつらじょう)
●所在地 広島県安芸高田市吉田町桂
●別名 中山城、三笠山城、三笠城
●高さ H:295m(比高80m)
●指定 安芸高田市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 不明(桂広澄か)
●城主 桂氏
●遺構 土塁、郭、堀等
●別名 中山城、三笠山城、三笠城
●高さ H:295m(比高80m)
●指定 安芸高田市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 不明(桂広澄か)
●城主 桂氏
●遺構 土塁、郭、堀等
●登城日 2017年11月16日
◆解説(参考資料 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド』安芸高田市歴史民俗博物館編、HP『戦国大名探究武将家出自事典』等)
桂城は前稿鈴尾城(広島県安芸高田市吉田町福原)の西方可愛川を挟んで1キロほどの位置に築かれた城郭である。
【写真上】桂城遠望 現地の説明板より
“桂城跡
町史跡指定 1968(昭和43)年9月1日
桂城跡は、標高295m・比高80mで中山城または三笠山城とも呼ばれていた。毛利氏譜代の桂氏の居城で、16世紀初頭頃坂氏から分家した広澄がこの城に入ったとされる。
城郭は、西・中央・東の三群に分かれる。 西郭群は、背後を堀切で区切って北・南西方向に延びる尾根上に小郭を配したもので、小規模な城の体裁をなしている。
中央郭群は、独立丘陵の最高所に位置し、北東に延びる尾根上に堀切と郭を並べており、見張所的なものと考えられる。
1996(平成8)年7月
吉田町教育委員会“
西側を走る国道54号線脇に、安芸・星ヶ城の看板があり、その近くに駐車スペースがあったのでここに停める。 桂城はこの写真では左側の54号線を渡った方向にある。
桂氏
桂氏は説明板にもあるように、坂氏から分家した広澄を始祖とし、当地桂に移り桂氏を名乗ったとされる。
町史跡指定 1968(昭和43)年9月1日
桂城跡は、標高295m・比高80mで中山城または三笠山城とも呼ばれていた。毛利氏譜代の桂氏の居城で、16世紀初頭頃坂氏から分家した広澄がこの城に入ったとされる。
城郭は、西・中央・東の三群に分かれる。
中央郭群は、独立丘陵の最高所に位置し、北東に延びる尾根上に堀切と郭を並べており、見張所的なものと考えられる。
1996(平成8)年7月
吉田町教育委員会“
元就の家督相続
以前にも述べたが、毛利元就が毛利家を継いだのは大永3年(1523)8月のことである。 兄興元が亡くなり、その嫡男幸松丸が跡を継いだものの、9歳で病死、この事態に宿老間で次の後継者を選ぶ協議がなされた。このとき、元就を推挙したのが、下段に示した重臣15名である。
(一族) 志道広良、福原広俊、桂元澄、坂広秀
(譜代家人) 渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、赤川就秀、飯田元親(国人領主) 中村元明、井上就在、井上元盛、井上元貞、井上元吉、井上元兼
もっともこの前には、元就を家督継承者とする意見と、尼子家から養子を迎えようという意見があったが、結果として、一族の志道広良、福原広俊、そして桂元澄らが、尼子家から養子を迎えると、毛利家は乗っ取られるとして衆議がまとまった。当城の東側麓には桂広澄の墓が祀られている。
この家督相続に絡んで、もう一人の候補者で元就の異母弟・元綱や、坂氏及びその一族であった桂広澄も誅殺や自刃に追い込まれている。しかし、広澄の嫡男・元澄は毛利氏の重臣として活躍していく。 国道54号線の東側に設置されている。写真の右側に桂城が見える。ここから少し歩くと、この看板とは別に、➡のついたもう一つの看板があり、そこから向かう。
桂元澄
彼の主な実績としては、安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)の稿で紹介したように、天文24年・弘治元年(1555)の厳島合戦がある。この戦いで敵方・陶晴賢に偽の内応書を送り、陶軍を厳島に導き寄せることに成功した。その後元澄は桜尾城主となり、永禄12年没した。墓は洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)にある。 桂城は東西700m前後の丘陵地に3か所分散して遺構が残っている。このうち、東端部は館跡ともいわれ、中央のものが主郭と思われ、西端部は主に物見櫓のきのうがあったものといわれている。
【写真左】尾根にたどり着く。 上の略図にある「現在地」付近で、西の郭と東(中央)主郭の間の位置に当たる。 先ず、西の郭に向かう。略図には示されていないが、東側から尾根伝いに進むと、最初に堀切が見えてくる。この堀切は二条あり、写真の右(北側)にも堀切の延長上に横堀らしき遺構が確認できる。 このあと上に登って行く。西郭の最高所となる箇所で、東側に土塁が組まれている。郭は丁寧な普請となっている。奥に先ほどの土塁が見える。この付近には質のいい矢竹が生えている。中央の郭から南側に降りると帯郭があり、西に回り込んで囲繞している。 なお、写真には紹介していないが、南側のさらに下に下がった位置にも2,3段の小郭が配置されている。また、西側の鉄塔が建っている箇所にも小規模な堀切が2条残る。このあと、再び分岐点まで戻り、中央の郭(主郭)に向かう。主郭に向かう途中の道は尾根幅が狭くなり、特に南側が険峻な切岸となっている。 略図にもあるように、中央の郭群は手前に段を設けず、いきなり郭が最高所に設置されている。【写真左】主郭の東側 削平は丁寧だが、この郭だけ石ころがやけに多い。石積された基壇のような遺構があったのかもしれない。 主郭を起点にして尾根は北に向きを変えて伸びる。北端部まで進んでみる。北端部の郭幅は狭められて細くなっているが、その短い外周部には土塁が設けられている。 北端部から下を覗くと堀切が見える。降りてみる。 上から見ていた堀切で、主郭は左側の切岸を登ったところにある。 このあとさらに右に進む。【写真左】北に伸びる郭 地形上段々と尾根幅は狭くなるが、奥行は予想以上にある。 降りてみる。 降りてみると、やはりこの個所にも堀切が介してある。 それぞれの段との比高差は平均すると4,5mはあるだろう。 結局主郭下から北に伸びる郭段は連郭式で4から5段程度で構成されている。 南西麓側から見たもので、略図にもあった東端部の郭群は踏査していない。この場所は館跡ともいわれ、現在桂大仙神社が祀られている。 写真で言えば、右側の先端部に当たる。 文字が小さいため分かりにくいが、桂城が中央に記されている。
(譜代家人)
【写真左】尾根にたどり着く。
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