矢滝城(やたきじょう)
●所在地 島根県大田市温泉津町湯里 西田
●築城期 享禄元年(1528)以前
●築城者 大内氏
●城主 大内氏、小笠原氏等
●高さ 634m
●指定 世界遺産登録、国指定史跡
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、虎口
●登城日 2013年4月5日
◆解説(『日本城郭体系第14巻』『山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡 改訂版 史跡整備ネットワーク会議編』等)
【写真左】矢滝城遠望・その1
南麓部の谷を走る県道201号線(湯里停車場祖式線)の南側から見たもので、この箇所で大きく道が谷を跨いでカーブしている。
この方向からみた矢滝城はかなり険峻な山容を見せる。
現地の説明板より
“矢滝城跡
矢滝城跡は、標高634mの矢滝城山の頂上にあります。戦国時代に石見銀山の支配権をめぐって激しい争奪戦がありましたが、その争奪戦の拠点のひとつが矢滝城で、遅くとも享禄元年(1528)には築城されていたと思われます。
【写真左】矢滝城遠望・その2
同じく県道201号線から見たものだが、当城から西に約2キロ余り下った西田地区から見たもの。
矢滝城の北側には石見銀山から温泉津港に至る銀山街道(温泉津・沖泊)があり、更にその北側には矢筈城跡があります。銀山街道をはさむ形で築かれた矢滝城と矢筈城が一対となって銀山防衛、交通路掌握の機能を担っていました。
山頂部の北側曲輪群には枡形をした入口(虎口)や竪堀、南側曲輪群には堀切などが残っています。
❶曲輪
城の一つの区画
❷竪堀
山の斜面の上下方向に堀を掘って敵の移動や侵入を防ぐもの
❸堀切
山の峰つづきの所などを掘って敵の侵入を防ぐもの”
【写真左】石見銀山遺跡図
この図には登録された当城の他、石見城・矢筈城および、山吹城などが図示されている。
世界遺産の石見銀山
矢滝城については、これまで石見(いわみ)城(島根県大田市)および温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)でも紹介してきたが、石見銀山・山吹城(島根県大田市大森銀山)の稿でも紹介したように、2007年6月に世界遺産として登録された石見銀山の登録対象の中の一つで、当城以外の山城としては、前出の山吹城・石見城と併せ、もう一つは未投稿だが、矢筈城がある。
【写真左】矢滝城要図
上部が北を示し、南北に長く伸びた縄張である。構成は単純なものとなっているが、登城道途中の東斜面が天険の要害となっている。
世界遺産登録された当初、石見銀山の観光客は大変なにぎわいを見せたものだが、さすがに6年も経つとだいぶ落ち着いてきているようで、むしろ現在では観光客の減少に歯止めをかける方策が講じられているようだ。
さて、この矢滝城については、登録された中心部である大森・銀山地区のエリアから少し離れた南端部に築城されている。この位置は数コースある石見銀山街道の中の、温泉津沖泊道の降路坂側にあって、この道の南に矢滝城、北側に矢筈城があり、両城がいわばこの道の西側を守備するための城砦として築かれたという。
【写真左】登城口付近
県道201号線のトンネルで、東側の祖式側から見たもの。登城口はこの写真の左側にある。なお、その手前には車2,3台分程度の駐車スペースがある。
登城ルートはここからすぐに北に向かって尾根を進み、このトンネルの真上を通ることになる。
毛利氏と尼子氏の銀山争奪戦
説明板にもあるように、銀山を守備するこれらの城砦については、特に温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)において記したように、戦国期の享禄4年(1531)4月、小笠原長隆が大内氏に反旗を掲げ、矢滝城を急襲、一時は銀山を支配下に置いている。
しかし、それから20年余りの弘治3年(1557)毛利元就が銀山を支配すると、出雲の尼子晴久が翌永禄元年(1558)、大挙して来攻、特に銀山中心地の山吹城は孤立し、結果尼子氏の手に入った。おそらく矢滝城も同じような状況になっていたと思われる。
【写真左】登城道・その1
尾根道は最初に北に進み、途中から西に向かう。
道の周囲は整備されており、歩きやすい。
ところが、永禄3年(1561)になると、再び毛利元就は捲土重来を期して銀山奪還をはかった。当時、山吹城を守備していたのは尼子氏の麾下にあった本城常光(本城常光(ほんじょうつねみつ)について参照)である。
彼については以前にも述べたように、武勇にはひときわ秀でていた武将ではあったが、利にさとく、しかも麾下としてあっても忠義はほとんどなく、主従関係つまり命に従うことを嫌い、その横妨さには目に余るものがあった。こうした常光の能力・性格を知っていた元就は、謀略をもって常光を誘降し、山吹城は元就の手に落ちた。その後、石見銀山は尼子氏の手に戻ることなく、毛利氏の支配下となった
【写真左】登城道・その2
途中から西側に向かって尾根道が続く。この先に少し高い土壇のような箇所がある。城域の西麓直下にあたり、しかも北方には山吹城が俯瞰できるので、物見台的なものがあったと思われる。
さて、このころの矢滝城については詳細な記録が残っていないが、おそらく山吹城が毛利氏の手中に入った永禄年間以後、不要となったものと考えられる。
【写真左】南側曲輪群の東斜面
この位置からいよいよ南側曲輪群の始点となり、急峻な東側斜面をトラバースしながら高度を上げる。
【写真左】南曲輪群と北曲輪群の中間点
先ほどの斜面をしばらく進むと、南曲輪群と北曲輪群の中間点である尾根鞍部にたどり着く。
この写真の左側が南曲輪群で、右に行くと長い郭があり、その先に主郭が見えてくる。
【写真左】主郭・その1
先ほどの位置から約50m程北に向かって進むと、主郭が見えてくる。
【写真左】虎口跡
主郭に向かって西側に3か所の虎口が現地の要図に示されているが、現場はご覧のように明瞭ではない。
この虎口は2番目のもので、大分劣化しているようだ。
【写真左】主郭・その2
主郭はほぼ円形に近いもので、長径20~25m前後。北東部にはご覧のような鉄筋コンクリート製の建物跡がある。電波施設のようなものだろうか。現在は廃墟となっている。
【写真左】虎口か
要図にはこの位置に虎口があったものとして記され、実際このような窪みが残る。
ただ、前掲した施設施工の際、この付近も改変されたような跡が残ることから、果たしてこれを虎口と比定してよいものか管理人には判断しかねる。
【写真左】主郭西側の郭
主郭周辺には連続するような帯郭はなく、単発の小規模な腰郭が点在している。
このうち、西側に幅3m×長さ5m前後のものと、北側に少し離れて小規模な腰郭が残っている。
この写真はそのうちの西側のもの。
【写真左】山吹城を遠望する
主郭跡から北東方向に山吹城が見える。
標高634mの矢滝城に対し、山吹城は412mと約200mほど低い。
秋から初冬にかけて、山吹城の本丸付近はかなり明瞭に見えるだろう。
【写真左】仙の山を遠望する
山吹城からさらに東に目を転ずると、矢滝城から直線距離で約2キロ余りの位置には最も多くの銀が産出されたという仙の山(H:538m)が見える。
【写真左】矢筈城及び城上山、高山を遠望する。
北西方面には、左側に矢筈城、その奥には城上山及び高山が見える。
なお、これらの山並みの奥に霞んで見えるのは日本海。
●所在地 島根県大田市温泉津町湯里 西田
●築城期 享禄元年(1528)以前
●築城者 大内氏
●城主 大内氏、小笠原氏等
●高さ 634m
●指定 世界遺産登録、国指定史跡
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、虎口
●登城日 2013年4月5日
◆解説(『日本城郭体系第14巻』『山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡 改訂版 史跡整備ネットワーク会議編』等)
【写真左】矢滝城遠望・その1
南麓部の谷を走る県道201号線(湯里停車場祖式線)の南側から見たもので、この箇所で大きく道が谷を跨いでカーブしている。
この方向からみた矢滝城はかなり険峻な山容を見せる。
現地の説明板より
“矢滝城跡
矢滝城跡は、標高634mの矢滝城山の頂上にあります。戦国時代に石見銀山の支配権をめぐって激しい争奪戦がありましたが、その争奪戦の拠点のひとつが矢滝城で、遅くとも享禄元年(1528)には築城されていたと思われます。
【写真左】矢滝城遠望・その2
同じく県道201号線から見たものだが、当城から西に約2キロ余り下った西田地区から見たもの。
矢滝城の北側には石見銀山から温泉津港に至る銀山街道(温泉津・沖泊)があり、更にその北側には矢筈城跡があります。銀山街道をはさむ形で築かれた矢滝城と矢筈城が一対となって銀山防衛、交通路掌握の機能を担っていました。
山頂部の北側曲輪群には枡形をした入口(虎口)や竪堀、南側曲輪群には堀切などが残っています。
❶曲輪
城の一つの区画
❷竪堀
山の斜面の上下方向に堀を掘って敵の移動や侵入を防ぐもの
❸堀切
山の峰つづきの所などを掘って敵の侵入を防ぐもの”
【写真左】石見銀山遺跡図
この図には登録された当城の他、石見城・矢筈城および、山吹城などが図示されている。
世界遺産の石見銀山
矢滝城については、これまで石見(いわみ)城(島根県大田市)および温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)でも紹介してきたが、石見銀山・山吹城(島根県大田市大森銀山)の稿でも紹介したように、2007年6月に世界遺産として登録された石見銀山の登録対象の中の一つで、当城以外の山城としては、前出の山吹城・石見城と併せ、もう一つは未投稿だが、矢筈城がある。
【写真左】矢滝城要図
上部が北を示し、南北に長く伸びた縄張である。構成は単純なものとなっているが、登城道途中の東斜面が天険の要害となっている。
世界遺産登録された当初、石見銀山の観光客は大変なにぎわいを見せたものだが、さすがに6年も経つとだいぶ落ち着いてきているようで、むしろ現在では観光客の減少に歯止めをかける方策が講じられているようだ。
さて、この矢滝城については、登録された中心部である大森・銀山地区のエリアから少し離れた南端部に築城されている。この位置は数コースある石見銀山街道の中の、温泉津沖泊道の降路坂側にあって、この道の南に矢滝城、北側に矢筈城があり、両城がいわばこの道の西側を守備するための城砦として築かれたという。
【写真左】登城口付近
県道201号線のトンネルで、東側の祖式側から見たもの。登城口はこの写真の左側にある。なお、その手前には車2,3台分程度の駐車スペースがある。
登城ルートはここからすぐに北に向かって尾根を進み、このトンネルの真上を通ることになる。
毛利氏と尼子氏の銀山争奪戦
説明板にもあるように、銀山を守備するこれらの城砦については、特に温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)において記したように、戦国期の享禄4年(1531)4月、小笠原長隆が大内氏に反旗を掲げ、矢滝城を急襲、一時は銀山を支配下に置いている。
しかし、それから20年余りの弘治3年(1557)毛利元就が銀山を支配すると、出雲の尼子晴久が翌永禄元年(1558)、大挙して来攻、特に銀山中心地の山吹城は孤立し、結果尼子氏の手に入った。おそらく矢滝城も同じような状況になっていたと思われる。
【写真左】登城道・その1
尾根道は最初に北に進み、途中から西に向かう。
道の周囲は整備されており、歩きやすい。
ところが、永禄3年(1561)になると、再び毛利元就は捲土重来を期して銀山奪還をはかった。当時、山吹城を守備していたのは尼子氏の麾下にあった本城常光(本城常光(ほんじょうつねみつ)について参照)である。
彼については以前にも述べたように、武勇にはひときわ秀でていた武将ではあったが、利にさとく、しかも麾下としてあっても忠義はほとんどなく、主従関係つまり命に従うことを嫌い、その横妨さには目に余るものがあった。こうした常光の能力・性格を知っていた元就は、謀略をもって常光を誘降し、山吹城は元就の手に落ちた。その後、石見銀山は尼子氏の手に戻ることなく、毛利氏の支配下となった
【写真左】登城道・その2
途中から西側に向かって尾根道が続く。この先に少し高い土壇のような箇所がある。城域の西麓直下にあたり、しかも北方には山吹城が俯瞰できるので、物見台的なものがあったと思われる。
さて、このころの矢滝城については詳細な記録が残っていないが、おそらく山吹城が毛利氏の手中に入った永禄年間以後、不要となったものと考えられる。
【写真左】南側曲輪群の東斜面
この位置からいよいよ南側曲輪群の始点となり、急峻な東側斜面をトラバースしながら高度を上げる。
【写真左】南曲輪群と北曲輪群の中間点
先ほどの斜面をしばらく進むと、南曲輪群と北曲輪群の中間点である尾根鞍部にたどり着く。
この写真の左側が南曲輪群で、右に行くと長い郭があり、その先に主郭が見えてくる。
【写真左】主郭・その1
先ほどの位置から約50m程北に向かって進むと、主郭が見えてくる。
【写真左】虎口跡
主郭に向かって西側に3か所の虎口が現地の要図に示されているが、現場はご覧のように明瞭ではない。
この虎口は2番目のもので、大分劣化しているようだ。
【写真左】主郭・その2
主郭はほぼ円形に近いもので、長径20~25m前後。北東部にはご覧のような鉄筋コンクリート製の建物跡がある。電波施設のようなものだろうか。現在は廃墟となっている。
【写真左】虎口か
要図にはこの位置に虎口があったものとして記され、実際このような窪みが残る。
ただ、前掲した施設施工の際、この付近も改変されたような跡が残ることから、果たしてこれを虎口と比定してよいものか管理人には判断しかねる。
【写真左】主郭西側の郭
主郭周辺には連続するような帯郭はなく、単発の小規模な腰郭が点在している。
このうち、西側に幅3m×長さ5m前後のものと、北側に少し離れて小規模な腰郭が残っている。
この写真はそのうちの西側のもの。
主郭跡から北東方向に山吹城が見える。
標高634mの矢滝城に対し、山吹城は412mと約200mほど低い。
秋から初冬にかけて、山吹城の本丸付近はかなり明瞭に見えるだろう。
【写真左】仙の山を遠望する
山吹城からさらに東に目を転ずると、矢滝城から直線距離で約2キロ余りの位置には最も多くの銀が産出されたという仙の山(H:538m)が見える。
【写真左】矢筈城及び城上山、高山を遠望する。
北西方面には、左側に矢筈城、その奥には城上山及び高山が見える。
なお、これらの山並みの奥に霞んで見えるのは日本海。
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