2014年2月18日火曜日

大洲城(愛媛県大洲市大洲)

大洲城(おおずじょう)

●所在地 愛媛県大洲市大洲
●指定 国重要文化財(台所櫓・南隅櫓・高欄櫓・芋綿櫓)
     愛媛県指定史跡
●別名 地蔵嶽城・比志城・亀ヶ岡城・大津城
●形態 平山城、天守(複合連結式層塔型)
●高さ 23m
●築城期 元徳3年(元弘3年・1331)
●築城者 宇都宮豊房
●城主 宇都宮氏、大野直之、加藤泰興等
●遺構 本丸・二の丸・三の丸、石垣、内堀、台所櫓等
●登城日 2006年3月18日、及び2014年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 大洲城は、伊予国(愛媛県)の中央部より少し下がった南予地方の北部大洲市に築かれた平山城である。

 麓を流れる肱川によって、旧喜多郡といわれた山間部にありながら、広大な盆地を形成した大洲盆地は、紀元前1万年ころから人々が住み始めたといわれている。
【写真左】大洲城
 平成6年から天守復元工事が始まり、平成16年9月に竣工している。

 史料・史実に基づき当時の姿に復元したもので、外観はもとより、内部の建築構造などにも伝統工法にのっとった造りとなっている。


肱川(ひじかわ)

 山間部に人が住む場合、生活の条件としてもっとも必要なものは、安定した水の供給と確保である。この川が大洲地方にもたらした恩恵は、水を中心として住民の生活・文化に多大なものを育んできた。
【写真左】肱川
 大洲城から見たもので、当城の東麓を流れている。
なお、写真中央にみえる丘は八幡神社が祀られているが、この場所でも永禄年間に宇都宮氏と河野氏が激しい戦いをしたところで、砦跡(八幡城)が残る。


 ところで、以前にも四国を流れる主だった大河が、それぞれ特徴的な水系をもっていることを紹介したが、この一級河川肱川もその例外ではない。

 源流は、いずれ紹介する予定にしている大洲市の南隣西予市宇和町久保の鳥坂城の西方にある。この位置から北の大洲市中心部までは直線距離でわずか6キロほどである。
【写真左】鳥坂峠付近
 西予市宇和町久保。源流のある位置はこの写真には入っていないが、左側の山脈に当たる。





 ところが、源流は鳥坂峠側分水嶺の南側にあるため、ここから宇和川と名乗って一旦南下し、西予市役所の脇を通り、次第に東に向きを変え、途中で南北の谷から流れてくる中小河川と合流しながら、次第に北進し、肱川町の鹿野ダムで東方から流れてきた黒瀬川と合流、そして鹿野川ダムで水を貯め、肱川となって放流され大洲市街地に注ぐ。
【写真左】大洲城と肱川遠望
 東方にある富士山(とみしやま:H320m)から見たもので、肱川はこの辺りで何度も蛇行を繰り返し、下流(右)部長浜に注ぐ。




 大洲市街地に至るまでも数多くの蛇行を繰り返すが、更にこの町部では根太山や、富士山(とみしやま)などの岩山が流れを南麓面で阻み、このため大洲市街地では時計回りに大きな蛇行を描き、やっと北西方向の伊予長浜の河口方向を向いて流れ出す。

 そして、さらに興味深いことは、大洲市街地を流れる川面と、伊予灘にそそぐ長浜での川面の高低差は極めて少なく、普段は極めて穏やかな流れである。このため、肱川の川岸に築かれた大洲城は中山間地の山城であるものの、標高はわずか23m前後という低さである。
【写真左】大洲城遠望
 大洲城に訪れたのは2回目で、前回は2006年で既に復元工事は竣工していたが、今回(2014年1月28日)は本丸の付近で発掘調査などが行われていた。


地蔵嶽城

 大洲城は、別名地蔵嶽城ともいう。元徳2年(1330)、宇都宮豊房が伊予国の守護職に任ぜられ喜多郡を領し、翌年地蔵嶽に新城を築き、この城を「地蔵嶽城」と命名したといわれる。

 宇都宮氏は元々下野国(栃木県)宇都宮氏が本流だが、平家追討の任を源頼朝から受けた宇都宮信房が、鎮西奉行として、薩摩に奔走した平家を喜界島(鬼界ヶ島)で討伐し、その功績によって所領を豊後・日向国に与えられたのに始まる。時に頼朝が征夷大将軍となった建久3年(1192)といわれ、豊前宇都宮氏の祖となった。
【写真左】大洲城全景
 天守を含めた建物は規模はさほど大きなものではないが、黒と白が織りなすモノトーン風の色彩美は大洲の街並みとフィットしている。


 信房から数えて4代後の頼房のとき、冬綱(養子か)は豊前宇都宮氏(城井氏)を継ぎ(城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)参照)、次男・豊房は、元徳2年(1330)鎌倉幕府から伊予国守護職を与えられた。その翌年大洲に入り現在の大洲城がある場所の地蔵嶽に城を築き、「地蔵嶽城」と命名した。

 宇都宮氏はその後下段にも示すように、8代(約240年)に渡って当城の城主となる。
  1. 豊房
  2. 宗泰 豊房には嫡子がおらず、筑後国にあった宇都宮泰宗の子・貞泰四男の宗泰が養子として伊予宇都宮氏を継ぐ。
  3. 泰輔
  4. 家綱 家綱からも泰輔嫡男ではなく、養嗣子の可能性が高いが、詳細は不明。
  5. 安綱
  6. 宣綱
  7. 清綱
  8. 豊綱 (1519~85) 伊予宇都宮氏最後の当主
【写真左】発掘調査の現場
 天守閣の裏側で行われている。いずれまとまった調査報告が発表されるだろう。






大野(菅田)直之

 戦国末期地蔵嶽城(大洲城)主であった宇都宮豊綱には、大野直之という家老がいた。彼については、以前波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)でも紹介しているが、伊予戦国期の梟雄といわれ、主君豊綱を陥れ、当城を乗っ取りした人物である。次稿で彼の本拠城・菅田城で改めて述べたい。
【写真左】大洲城から富士山(とみしやま)を遠望する。
 大洲城の東方にあって、静岡県の富士山に似ていることから、富士山と命名された。ただし、読みは「とみしやま」という。

 肱川は富士山の右側(南)を通り、手前の大洲城の東麓を抉って再び東方に注ぐ。


大津城から大洲城へ

 秀吉が四国平定した際、小早川隆景は伊予国35万石を与えられたが、居城は湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)とし、当時大津城といわれた大洲城は枝城とした。2年後隆景が九州へ転封となると、戸田勝隆が入城、宇和・喜多両郡16万石を与えられた。しかし、朝鮮の役で勝隆が亡くなると、文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡板島7万石で入国したが、併せて隣接する宇和・喜多・浮穴郡も領地し、板島城(宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)参照)に城代を置き、大津城(大洲城)を居城とした。
【写真左】台所櫓付近から石垣を見る。
 本丸の東端部が肱川と接しているが、今のように上流部にダムなどがなかったため、この地区は大洪水に度々見舞われたという。

 従って、石積みにもその経験からより堅牢な施工がなされたと考えられる。


 その後関ヶ原の戦いが終わると、高虎は今張(今治)も追増され国分山城(霊仙山城(愛媛県今治市旦・宮ヶ崎字上成乙)参照)を本拠とするもすぐに、今治城の普請に取り掛かり、大津城には養子である高吉を城代とした。

【写真左】今治城
 所在地:愛媛県今治市





 高虎のあと入ったのが、脇坂安治で、慶長14年(1609)のことである。高虎が大洲城にあったころ、城下町としてのハード面が整備されたといわれ、脇坂安治の代では、経済活動の基盤などソフト面がこの段階で確立したといわれている。
【写真左】慶長年間後の大洲城
 復元写真でも分かるように、肱川から水を取り入れた堀の様子が再現されている。
【写真左】米子城
 所在地:鳥取県米子市





 その後、元和3年(1617)になると、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で入城、このころには既に城名は大津城から大洲城へと変えていたものと思われる。以後加藤氏は江戸末期まで代々当城の城主として続くことになる。なお、貞泰が米子城にあったのは、慶長5年(1610)からだが、その後大坂の陣によって戦功を挙げ、7年後大洲藩に入ったものである。

中江藤樹

 さて、近世の話題となるが、大洲藩には一時期、「近江聖人」といわれた陽明学の中江藤樹が暫くこの地で過ごしている。
【写真左】中江藤樹銅像
 西側に建つ。











現地の説明板より

“近江聖人 中江藤樹先生(1608~48)
 先生の名は原、通称は世右衛門、生家は近江の小川村(滋賀県)、屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたので、藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。

 大洲は、先生が10歳から27歳まで過ごされた立志・感恩・勉学の地である。大洲の人々は、先生ゆかりの地として、その学徳を追慕し、藤樹先生の心をいつまでも継承しようと、この城山に銅像を建立した。
 ☆教え―「孝」「致良知」「慎融」「知行合一」など
 ☆著書―「翁問答」「鑑草」「春風」「捷径医筌」など
     平成9年11月吉日 記 大洲藤樹会”
【写真左】藤樹神社
 所在地 滋賀県高島市安曇川町上小川
 2005年7月参拝
藤樹は晩年生誕地である近江高島に戻り、自宅を開放して塾を開いた。

 地元には、神社のほか、中江藤樹記念館、陽明園、私塾として使われた藤樹書院などゆかりの史跡がある。


 上掲した説明板には書かれていないが、藤樹は米子城から大洲城に移った加藤貞泰と動きを共にしている。藤樹は、9歳のとき(別説では6歳)米子藩主加藤家に150石取りとして仕えた祖父・中江徳左衛門吉長の養子となった。現在米子市の9号線沿いの加茂町2丁目に藤樹の石碑が祀られており、米子城の東麓に住まいをしていた。
【写真左】米子市(鳥取県)にある「中江藤樹先生成長之地」の石碑

 現地の顕彰碑由来より

“世に近江聖人と仰がれる中江藤樹先生は幼少の頃米子城主加藤貞泰に仕えた。祖父吉長とここに住み学問に励んだ。
 明治42年この旧邸跡に就将校が開校され、昭和37年愛宕町に移転されるまで50余年間知行合一の藤樹精神は就将教育の根幹となり今に至るまでうけつがれている。
 由緒あるこの地の忘れさられることを惜しみ藤樹先生の遺徳を偲び就将校父母と先生の会思い出会自治連合会相図り碑を建て以て後世に伝える。
   昭和45年 12月
   中江藤樹先生遺徳顕彰会”


 元和2年から3年にかけて、当主加藤貞泰が伊予大洲に国替えとなると、祖父母と一緒に移住する。その5年後に祖父が死去したため、家督(100石)を相続。このあとしばらく大洲において学問に勤しむことなる。その後、郷里の近江高島で私塾を開くが、大洲時代に指導を受けた門下生も、彼を慕って近江まで講義を受けに上ったという。

 昭和初期に生まれた現在の85歳前後の方々は、修身で彼の事績を学んだらしいが、管理人の知る限り最近では学校教育で取り上げていないようだ。

松根東洋城 大洲旧居

 大洲城の二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代の武家屋敷遺構の一部が残る。
【写真左】松根東洋城大洲旧居
 現在は個人の方が住まいをして居られるようだ。








 松根東洋城、一見すると城名かと勘違いしそうだが、実は人物名で、俳人である。

 管理人は中学から高校にかけて、明治時代の文学に興味をもったが、その中でも特に夏目漱石の作品を愛読した。おもだった彼の作品はほとんど読んだが、漱石の親友で俳人正岡子規との交友は余りにも有名で、漱石の作品には子規から影響を受けたものも多い。

 子規の弟子のなかで、高浜虚子、河東碧梧桐と並んで有名なのが、松根東洋城である。東洋城は東京生まれだが、父が明治23年(1890)当地大洲の区裁判所判事として赴任すると、彼もこの地に転校することになる。その時の住まいが、この二の丸金櫓跡に建てられた裁判官判事の宿舎である。
 東洋城はその後松山の中学校に入学、4年のとき夏目金之助(漱石)がこの学校に英語教師として赴任、それ以来師弟の間をこえた付き合いが始まることになる。いわずもがな、この時の経験が漱石の小説「坊ちゃん」の誕生を生むことなる。

◎関連投稿
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