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2019年2月14日木曜日

三田村城(滋賀県長浜市三田町 伝正寺)

三田村城(みたむらじょう)

●所在地 滋賀県長浜市三田町 伝正寺
●指定 国指定史跡
●別名 三田村氏館
●形態 平城
●高さ 標高116m(比高 0m)
●遺構 土塁
●築城期 不明
●築城者 三田村氏
●登城日 2016年6月29日

◆解説(参考文献 「長浜市史」等)
 前稿上坂氏館(滋賀県長浜市西上坂町) から北へ向かい、姉川を渡河すると、三田町という集落に至る。ここに北近江城館跡群の一つとして国指定史跡を受けた三田村氏館が所在している。
【写真左】三田村氏館
 一辺60m前後の長さで囲繞された土塁
 高さ2~3mの規模のもので、比較的良好に残る土塁である。



現地の説明板より
‟国指定史跡 三田村氏館跡(三田町)

 京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。
 ほぼ60m四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高さは2mから3m、幅も平均5m程度を測ります。
 北側の土塁の一部は近代になって破壊されましたが、西側には館の入口にあたる虎口が良好に残り、その前には堀跡が畑となって残っており、旧状をしのぶことができます。また、四角い主郭の北側にも、鍵形に土塁が存在し、複数の郭からなる城館であったことが類推されます。
【写真左】三田村氏館跡周辺図
 左側がほぼ全周にわたって残る土塁が描かれ、中央には現在伝正寺という寺院が建っている。
 中央の道を挟んで右側の一角にも土塁の跡が残っていることから、説明板にも記されているように、複数の郭(土塁で囲繞された)があったものと思われる。


 長浜市教育委員会による平成17年度・18年度の発掘調査により、西側土塁に平行する南国2本の溝が確認され、土塁が2時期に分かれて築造されたことが分かりました。
 上部(新層)からは15世紀から16世紀前葉頃の土師器を中心とした遺物が出土し、戦国時代に至り館の防御性を高めるため、土塁を高くしたことが明らかとなっています。

 姉川合戦に際しては、朝倉景健(かげたけ)の本陣として使用されたとも考えられ、上部の土塁はその時盛られたものかもしれません。
 平成19年7月26日、「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡となりました。

     姉川合戦再見実行委員会‟
【写真左】伝正寺の北側付近
 上図でいえば「現在地」付近で、ここから反時計方向に向かう。
 左側の大屋根が伝正寺本堂。



三田村氏

 三田村氏は、前稿まで紹介してきた下坂氏や上坂氏と同じく、説明板にもあるように、京極氏や浅井氏の家臣として大きな勢力を誇ったとある。

 ところで、「長浜市史」によれば、京極氏の家臣には三種あり次のように分類している。

(1)根本被官(古くから京極氏に仕えている)
  今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・
  小野八郎・河瀬九郎・二階堂

(2)一乱の初刻御被官に参入衆(新参の家臣)   
  井口越前・浅見・弓削式部・伊吹弾正・渡辺・平田

(3)近年御被官に参入衆(明応8年以後の最も新しく帰参した家臣)
  東蔵・狩野・今井越前・今井十郎・西野・布施備中・小足・高宮

 これとは別に、京極氏の家臣の中でもっとも大きな力を持っていたのが多賀氏であったことは既述したが、この多賀氏もまた応仁の乱後、京極氏を巻き込んで内紛を起こしている。文明18年(1486)を過ぎたころ、国人領主・土豪クラスの下坂氏・今井氏・国友氏、そして三田村氏もこの騒動に巻き込まれた。このころ三田村氏は多賀宗直方に、今井氏などは京極高清についた。
【写真左】北から西に伸びる土塁
 土塁の天端は踏み固められ、普通に歩くことができる。






 その後、文亀元年(1501)6月に至ると、こうした国人・土豪クラスの一族がさらに積極的に争乱に参加するようになった。特に、この時期、浅井・三田村・河毛・渡辺・堀氏などは、上坂景重との対立が激しくなり、今浜で合戦が行われた。こののち、20年間は大きな戦いはなかったが、大永3年(1523)、再び国人領主間の対立が激化した。

 この争いでは、三田村氏は浅井・堀。今井氏らと与し、浅見氏を盟主として結束、小野江(尾上)に籠り、上坂氏と合戦に及んだ。そして、上坂勢は多くのものが討死したため敗れ、京極高清は上坂氏の支援を受けていたため、苅安尾城から尾張へ敗走した。これによって、浅見氏らに擁立された京極高延が高清に代わって北近江の守護職となった。
【写真左】西側の土塁
 この辺りは少し低くなっている。奥には伝正寺の梵鐘が見える。







信長の横山城攻め

 ところで、織田信長が浅井氏居城の小谷城攻めを始めたのは、元亀元年(1570)ごろからだが、併せて近接の横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町) も攻めている。このとき同城を浅井方として守備していた面々に三田村氏の名が見える。因みに、主だった武将たちは次の通り。
  • 大野木土佐守
  • 三田村左衛門尉
  • 野村肥後守
  • 同兵庫頭
 三田村左衛門(尉)は、一説では三田村国定とされ、母は今井定清の娘ともいわれている。今井氏は藤原秀郷の後裔といわれ、箕浦城(米原市箕浦)を居城とした。
【写真左】三田村左衛門の像
 眼光鋭い剛勇の武士の面構えである。
 因みに、俳優の三田村邦彦さんは、出身地は新潟だが、系譜をたどるとこの三田村左衛門に繋がるという。そういえば、なんとなく邦彦さんの風貌は左衛門に似ているように見える。


 この戦いは同年6月24日から始まり、5日後の29日には浅井方は撤退し、信長の命により木下藤吉郎秀吉が城番となっている。
【写真左】虎口
 西側の土塁中央部が開口されて、伝正寺の入口となっているが、当時の虎口跡である。
 手前の畑となっている部分は堀があった。
【写真左】石碑
南西隅の内側には「三田村氏有縁之碑」と刻まれた石碑が建っている。
【写真左】土塁の外側
 西側の部分で、堀があった箇所。
 現在は畑地となっているため当時の様子は分からないが、三田村氏館そのものは平城形態であるため、土塁の防御性を高めるため、外側の堀には水を引き込んでいたと思われる。

 その水は、同館から南へおよそ400mほど向かった姉川から引き込んでいたと想像される。

 なお、三田村氏館は現在の三田町集落の中心地にあたり、件の堀(濠)の外堀と思われる小川が同館を囲むように流れているので、おそらく三田村氏の家臣の屋敷もこの中に包含されていたのかもしれない。因みに、外堀の外周部は東西400m×南北250m前後である。
【写真左】南側の土塁
 この写真では分からないが、東西に伸びる土塁の中央部にも小規模な開口部があり、虎口があったものと思われる。
【写真左】東側の土塁
 こちら側は削られたせいか、小規模になっている。
【写真左】境内(郭)から西側の土塁を見る。
【写真左】三田公会堂側の土塁
 上段の図にもあるように、伝正寺側の土塁とは別に、道路を挟んだ北東側の公会堂の外側にもL字型の土塁が残る。
【写真左】分離した五輪塔
 周辺部を散策していた時見つけたもので、三田村氏もしくは当館が、姉川合戦に際しては、朝倉景健(かげたけ)の本陣として使用されたともいわれているので、朝倉氏方の武将も含まれているのかもしれない。

2019年2月11日月曜日

上坂氏館(滋賀県長浜市西上坂町)

上坂氏館(こうさかしやかた)

●所在地 滋賀県長浜市西上坂町
●形態 平城・城館
●築城期 室町期
●築城者 上坂氏
●城主 上坂氏
●遺構 郭・土塁・移築門等
●登城日 2016年6月29日

◆解説(参考資料 『長浜市史』、HP「疎水名鑑」等)
 上坂氏については、前稿下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町) でも少し触れているが、同氏の館は、長浜市を流れる姉川の中流域にあって、下坂氏館から北東へおよそ5キロほど向かった位置にある。
【写真左】上坂氏館遠望
 南側から見たもの。
 上坂氏館から北へおよそ500mほど向かうと、姉川に至る。




現地の説明板より

‟上坂氏館跡(西上坂町)

 戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂氏の館跡です。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。

 さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。
【上図】左:上坂氏館絵図、右:上坂氏館跡周辺図
 文字が小さくて分かりずらいが、赤字で書かれたところが、現在残る館跡。

 左図中央上段に、「信濃守屋敷(しなんど)」、下段に「伊賀守屋敷(いがんど)」などと書かれ、左上の隅には、「出雲川此川中井より掛る伊賀信濃両屋敷へ之水口川也依之中井川を俗に殿川と云也」と記してある。


 上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました。
 館跡は、土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や、土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。”
【写真左】移築された伊賀屋敷門
 上坂氏館として残るのは、この「丸之内」という児童公園だが、この箇所に伊賀守屋敷の門が移築されている。



上坂氏

 説明板にもあるように、上坂氏は京極氏の有力家臣であったとされる。同氏が京極氏の家臣となったのは室町時代だが、このころ、京極氏の有力家臣として力を持っていたのが多賀氏である。

 しかし、応仁・文明の乱が勃発すると、以前にも述べたように、その多賀氏一族の内部でも内訌が起こり、京極氏の足元を揺さぶった。これに対し、上坂氏はほぼ一貫して北近江の守護職である京極氏を支えている。このことから上坂氏は京極における「筆頭家老」の地位を得ている。

 ところで、『浅井三代記』という軍記物には、上坂氏を梶原景時の子孫と記し、京極政経の三男で、上坂家を継いだ上坂泰貞(治部大輔)がいたとしている。もっとも傍証となる史料はなく、はっきりしない。
【写真左】石碑・その1
 伊賀屋敷門をくぐり奥に進むと、庭園が造られ、石碑が建立されている。






大永3年のクーデター

 京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺) の稿でも述べたが、大永3年(1523)、北近江では京極氏の家臣であった浅井亮政は、京極高清の居城苅安尾城(上平寺城)の攻略にかかった。このため、高清は城を脱出し、尾張に逃れた。このあと亮政は高清の子高延を京極氏の主君として担いだ。これが北近江における「大永3年のクーデター」である。
【写真左】石碑・その2
 上坂城址の文字は読めるが、あとは判読不能。だいぶ前に建立された石碑のようだ。









 因みに、京極氏の弱体化はそれ以前の応仁の乱及び、それに伴う家督相続などで混迷の一途をたどることになるが、高清の代になると、それまで守護職として維持してきた出雲・隠岐・飛騨の三国を失い、地元北近江のみとなっていた。さらには唯一の地元北近江においても不安定な支配となっていく。
【左図】京極氏系図

















 北近江守護京極氏の弱体化は、逆に国人領主であった浅井氏、浅見氏、そして上坂氏などが京極氏を凌駕していくことになった。いわゆる下剋上の世がこの北近江でも顕れていたわけである。
【写真左】石碑側から北を見る。
 唯一残る丸之内跡は、およそ東西20m×南北30mの大きさで、公園化したため遺構はほとんど見られないが、土塁跡らしきものが残っている(下の写真参照)。



 天文7年(1538)京極高清が亡くなると、再び家督争いが再燃した。高清の子には長男・高広と、二男・高吉(高慶)がいた。

 高広は浅井氏と結び、高吉は六角定頼を頼った。同年3月27日、両軍は佐和山で激突した。戦いは六角方優勢のまま終結、2年後の天文9年(1540)以降、浅井氏は六角氏と和睦する方向へ動いた。
【写真左】土塁
 屋敷門手前の一角に残るもので、現状は高さ30㎝程度だが、当時はもっと高くなっていたものと思われる。




 このため、高広は孤立するが、天文10年4月、浅見氏を誘い、浅井亮政と戦うことになる。この戦いで、上坂氏は高広方に属して戦い、上坂助八は「当目合戦」において、功をあげ高広から感状を与えられている。この助八は、時期ははっきりしないが、天文10年以前には木沢長政(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照) からの書状をうけとっている。
【写真左】南側
 左に土塁が見え、奥には雲にかかる伊吹山が確認できる。

 なお、丸之内以外の箇所については、踏査していないが、空き地や民家が建っているようで、おそらく遺構はほとんど消滅していると思われる。


出雲井

 ところで、上坂氏館の北方を流れるのが、姉川合戦で有名な一級河川姉川である。この川の中流部に往古から水利確保のために設けられたのが出雲井(いずもゆ)である。
【写真左】出雲井
 所在地 米原市伊吹
 姉川から引き込まれた井堰で、現在でも満々とした水が流れている。

 なぜ当地に遠国である出雲国からやってきたのか不明であるが、以前取り上げた太尾山城・その3 で紹介している湯谷神社もまた「上古出雲国人諸国を巡視して……祠を建て奉斎す…」とあり、このころ出雲と近江湖北地方には何らかのネットワークがあったのかもしれない。


 一説には白鳳時代の650年に、出雲国出身の大助という人物が、原野を開拓し、姉川に井堰を設置し、水溝を掘り灌漑したことが始まりで、出身地の名から「出雲井」と命名されたという。

 また別説では、宝治2年(1248)佐々木重綱が鎌倉幕府執権北条義時より、大原郷の地頭職を与えられ、当時の伊富貴村(現米原市伊吹)の出雲善兵衛(吉兵衛)が重綱の命によって井堰を造ったことから「出雲井」と名付けられたともいわれている。どちらにしても「出雲」と関わりのあった井堰である。
【写真左】姉川
 この写真は2008年3月に探訪したときのもの。
 機会があったら、姉川に関わる中世の疎水状況ももう少し見てみたいものだ。



 さて、京極氏との強い結びつきをもっていた上坂氏であるが、同氏の中で伊賀守を名乗る上坂氏は、浅井氏とも主従関係を結んでいる。

 浅井久政の書状によれば、相撲庭村(すまいにわむら)(浅井町)と上坂の「井公事」「用水相論」を、己牧院が間に立って馳走(奔走)するにようにと記し、上坂八郎兵衛尉景信宛ての書状では、己牧院正瑞と月ヶ瀬忠清の両人に相談するようにと記している。

 こうした経緯もあって、上坂氏はこの「出雲井」の堰を落とす権限を有し、長浜市域の多くがこの水を利用していたことから、旱魃の際には大原荘にあったこの「出雲井」を使い、三度にわたって下流の郷里井に流していた。このことから、この取水処置を「三度水」と呼んだ。

2019年2月1日金曜日

下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町)

下坂氏館(しもさかし やかた)

●所在地 滋賀県長浜市下坂中町
●指定 国指定史跡
●形態 平城
●高さ H:88m(比高 0m)
●築城期 南北朝期
●築城者 下坂氏
●遺構 郭・堀・土塁
●備考 不断光院
●登城日 2016年6月29日

◆解説(参考資料 『長浜市史』等)
 下坂氏館は長浜市下坂中町に所在する城館跡で、以前紹介した南隣米原市にある近江・長澤城(滋賀県米原市長沢) から北へ1.5キロほど北に向かった位置に当たる。
 また、近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町) は下坂氏館から北東へ5.5キロほど離れている。
【写真上】西側から遠望
 この日(2016年6月)探訪したときは、西側の元田圃だったところを埋め立てし、駐車場を設置する工事が行われていた。
 奥に下坂氏の屋敷が見えているが、当時は手前の工事区域も館跡の範囲だったものと思われる。



現地の説明板より・その1
❝ 国史跡
 北近江城館跡群 下坂氏館跡(下坂中町)

 下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に所在する中世の国人領主であった下坂氏の館跡です。下坂氏は、建武3年(1336)の足利直義の感状などから南北朝期から湖北地方で活躍した国人領主で、戦国期には京極・浅井両氏に仕えています。
【写真左】足利直義感状











 浅井氏滅亡後は、帰農するが、江戸期は郷士として彦根藩と関わりを持ち、現在も子孫が館跡に居住し、管理をしています。

 館跡は、周辺を堀で囲み、内側には土塁を築いています。中心部の主郭は、東西約55m、南北約42mの土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の副郭(ふくかく)によって構成されている。また、館跡には、18世紀前期に建築された木造入母屋造ヨシ葺の主屋(おもや)や門、菩提寺である不断光院(ふだんこういん)の本堂などが所在し、往時の景観を維持しています。
【写真左】上から見たもの。
 現地説明板にあったもので、城館の規模は、東西約89m、南北約87mの大きさ。



 長浜市教育委員会による発掘調査によって、14世紀から16世紀の遺物が出土し、同時期の建物跡・土塁跡・排水路跡・階段状の遺構などが検出されています。

 このように、南北朝期から戦国期にかけて国人領主として活躍した下坂氏の館跡が、現在も土塁・堀などの遺構とともにその景観を留め、調査結果からも時期的が確認されたことは、中世から近世における地域支配の在り方を考える上で貴重な史跡である。
     下坂幸正
     長浜市教育委員会”
【写真左】概略図
 上の写真と同じく説明板に添付されていたもので、いつ頃の測量図なのかわからないが、郭・堀・土塁などが書かれている。
 参考までに、現在の様子を測量したものが、下の図である。
【図上】測量図と遺構配置

遺構概要

 下坂氏館の規模は上述した通り(東西89m×南北87m)だが、この中で構築されている土塁は、高さ1~2m、幅5~7mの二重の土塁で囲み、幅約5~13m、深さ1~3mの堀が現存している。

 主郭は東西約55m×南北約42mの内側土塁によって囲まれ、その北東部と南西側には2か所の副郭がある。南西側の副郭は一段高くなっており、武者だまりと推定されている。

 内側土塁の東側には土塁を切る形で高さ2m×幅7mの虎口が開口し、東側の東西約75m×南北45mの規模を持つ腰郭へつながる。
 県下屈指の平地城館遺構とされる。
【写真左】土塁と堀
 当該地は私有地であるため、中に入ることはできない。
 このため、写真はすべて外から撮ったものばかりで残念だが、この箇所からは堀と土塁のようなものが見える。


下坂氏

 『長浜市史』に掲載されている「下坂系図」によれば、下坂氏の祖は清和源氏源頼信とされ、基親の代に下坂郷に下向し、下坂を称したといわれている。ただ、基親が頼信の系譜に繋がるのか疑問も残るが、いずれにしても平安末期から鎌倉初期に当地に下向したのだろう。

 説明板にもあるように、南北朝期に至ると、足利直義から感状を得ている。これは建武3年(延元元年・1336)7月、直義から出されたもので、その文書によれば、「近江国伊祇代宮(いきしろみや)合戦」において、親類新兵衛尉重宗が討死、また「法勝寺合戦」で舎弟三郎貞兼が傷を受け、西坂本北尾(京都市)で若党が傷を受けたことによる発給である。

 その後、室町幕府2代将軍義詮からも感状をもらっている。具体的には、当時の近江守護佐々木秀綱、即ち佐々木導誉(尼子城の堀跡・殿城池、尼子館跡土塁(滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中)参照) の長子の注進によって受けたもので、このことは戦国時代に下坂氏が京極氏の家臣となっていくきっかけともなった。
【写真左】堀
 奥には左右に伸びた堀が見える。











 戦国期に至ると、京極氏(京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)参照)は浅井氏の台頭に危機感を覚えてくる。特に京極高広(佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)参照) の代には、浅井亮政(竹生島・宝厳寺(滋賀県長浜市早崎町)参照) との対戦を決意し、浅見新左衛門尉らの助けを得て亮政との戦いを始めるが、このとき上坂氏も京極高広に与している。
 もっとも下坂氏がその直前まで京極氏に積極的に関わっていたのか判然としない点もあり、さらには応仁・文明の乱には多賀氏なども絡んでいたため、具体的な下坂氏の動きは分からない。

 戦国期において具体的な記録が見えてくるのは、天文11年(1542)1月6日に浅井亮政が死去し、そのあとを久政が継いだころである。
 亮政が亡くなった5日後の11日付で、京極高広は下坂氏に対し、跡目と「加田半済(半分)内」500石を遣わす旨の書状を残している。

 これに対し、下坂左馬助は同年9月15日、中山左馬允が所持していた田地の権利と加田荘半済のうち、400石を給与された。このうち前者の中山佐馬允の跡地については、天文13年替地として、加田八郎兵衛跡を京極氏から与えられることになった。
 こうして加田荘について下坂氏の権利は、加田氏跡と半済分という二種類の知行権が与えられ、同氏の権限が強まった。
【写真左】東側から見る。
 手前の畑や民家は下坂氏館の区域から外れた場所になり、その奥にみえる林からが下坂氏館となる。
 ただ、当時はこの辺りも下坂氏の領地だったと推測される。
 このあと、北側に回る。


下坂左馬助と下坂三郎四郎

 ところで、下坂左馬助は、京極高広の家臣として、浅井亮政の家臣若宮藤八を近江・長澤城(滋賀県米原市長沢) に攻めている。

 これに対し、同族であった下坂四郎三郎は、高広に誘われていたものの、浅井亮政に杏子やミカンなどをやりとりしている。そして、織田信長による小谷城攻めの際にも、浅井氏とともに籠城し、その功によって領地を与えられている。
 こうしたこともあって、下坂氏一族が次第に浅井氏に接近していった動きが読み取れ、天文21年ごろになると、久政の書状に、左馬助の被官を「御被官」として記している。
【写真左】北東部外周
 この付近では、館内の堀に入っていく本流・五井戸川が見える。
 当時は川幅も大きかったものと思われる。



 ただ、あくまでも下坂氏は浅井氏に全面的に従属するものではなかった。これに対し、次稿で予定している上坂氏とは相違が認められる。

 これは下坂氏の「一職」地の確立がその背景にあり、浅井氏も同氏の領主支配権を認めていたことによるものである。具体的には周辺部の土地が同氏に集積され、年貢・加地子得分の収受などが確保されるなど、経営手腕が極めて高かったためと思われる。
【写真左】伊吹山
 北側を歩いていくと、東方には日本100名山の一つ伊吹山が遠望できる。








下坂家文書

 説明板にもあるように、現在も当地に下坂家の御子孫がお住まいをしておられるが、平成26年には、当家に伝来していた文書(「下坂家文書」)697点を、現在の当主・下坂幸正氏が長浜市に寄贈された。
【写真左】堀の導水口
 ガードレール下に五井戸川が見えるが、下坂氏館側に堀に引き込む導水口が確認できる。


 



 その内容については、同じく現地の説明板に下記のように記されている。
 
現地の説明板より・その2

‟下坂家文書 697点(室町時代~明治時代)
   市指定文化財(平成8年9月1日 指定)

 文書の一番古いものは、足利直義が下坂治部左衛門尉に与えた感状で、建武3年(※1482となっているが、1336年の間違い)7月25日の日付を持つ。近江国の「伊祇代宮」(草津市片岡町付近)の合戦において、親類新兵衛尉重宗が討死したことや、京都法勝寺の合戦で弟三郎貞兼が傷を受けたことを記し、下坂氏が奮戦したことを謝し、恩賞については追って沙汰する旨を伝えている。
【写真左】北西端
 工事の関係であまり明瞭ではないが、氏館の北西側角に当たる。








 京極家当主及び奉行人からの書状9通、浅井家当主からの書状9通が含まれている。特に、下坂家が浅井氏に仕えていたと同時時期に、京極氏からの書状を得ていた事実は興味深い。
 最近の研究では、浅井氏2代の久政時代まで、高広を当主とする京極政権は、浅井氏政権と並立して存在していたとみられる。
 この地域で京極政権の文書をまとまって保有する所はなく、当地の戦国史の研究には欠くことのできない資料といえる。”

2018年9月30日日曜日

近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町)

近江・八幡山城(おうみ・はちまんやまじょう)

●所在地 滋賀県近江八幡市宮内
●別名 八幡城、近江八幡城
●高さ 283m(比高100m)
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 豊臣秀次
●城主 豊臣秀次、京極高次
●遺構 郭・石垣、居館
●登城日 2016年3月5日

◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
 管理人が気に入っていたTV時代劇「鬼平犯科帳」などに度々使われてきた八幡堀界隈は、滋賀県近江八幡市に所在する。この八幡堀は八幡山城の築城者であった豊臣秀次が築城に併せて設置した外堀である。
【写真左】本丸跡の村雲御所瑞龍寺
 後段でも記すように、城主であった豊臣秀次が自刃した後、京極高次が城主となったが、その後破却されこともあり、当時の遺構が大分消滅している。
 なお、村雲御所瑞龍寺については下段で紹介する。

現地の掲示資料より

“八幡山城の歴史と環境

 八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。

 豊臣政権下の天正13年(1585年)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
【写真左】八幡山城配置図
 八幡山城遺跡詳細測量図をもとに、管理人によって簡略化した配置図で、この図では秀次が居館としていた付近は図示していない。



 本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高約130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
 大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えられる八幡堀に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
【写真左】ロープウェイで山頂に向かう。
 山城愛好家としては本来徒歩で向かうべきなのだが、次の予定もあったため、これを利用させてもらった。
 乗車時間は僅か4分ほどである。


 天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万8000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。

 尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や、測量調査などを行っています。”
【写真左】二の丸直下付近
 ロープウェイを降りたところが当時の二ノ丸付近で、階段脇には石積が残る。






豊臣秀次の自刃

 八幡山城の築城者豊臣秀次は秀吉の甥である。秀吉の兄妹で最も有名なのが、常に秀吉を支えて来た実弟・秀長であるが、秀吉の姉には後に三好一路の妻となった瑞竜院日秀、通称「とも」がいた。この二人の間にできたのが秀次である。

 幼少の頃は、秀吉の戦歴の中で度々人質などになり、名前も度々変えている。最初の人質となったのが、小谷浅井氏の家臣宮部継潤に養子となって入った時である。このとき、宮部吉継と名乗る。その後、畿内で勢力を誇っていた三好一族の三好康長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)の養嗣子となり、三好信吉と改名し三好家の名跡を継いだ。
【写真左】出土した瓦片など
 すぐそばには展望資料館があり、遺跡調査したときの遺物などが展示されている。
 主に瓦関係が多いが、軒丸瓦・丸瓦・平瓦をはじめ、これに使われた釘なども展示されている。



 その後池田恒興の娘を妻に持ち、秀吉が賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で勝利を勝ち取り、天下人として歩み始めると、信吉(秀次)も秀吉の縁者の一人として重用されるようになる。秀次が三好姓から羽柴姓に復帰したのは天正12年(1584)頃といわれている。

 この年(天正12年)4月、秀吉は尾張国長久手で徳川家康と激突した。いわゆる長久手の戦いである。秀次はこの戦いで功を上げるため大将として志願したものの失態を演じ、秀吉から烈しく叱責された。その後汚名を晴らすべく、四国征伐などで功を挙げ、何とか面目を保ち、豊臣姓を下賜された。
【写真左】村雲瑞龍寺門跡と北の丸方面の分岐点
 左の階段を登ると瑞龍寺門跡へ、右奥の道を行くと北の丸へ繋がる。
 なお、この位置に来る手前までには西の丸へ向かう道があるが、先にこちらに向かった。

 先ず瑞龍寺門跡(本丸)に向かう。


 秀吉の初めての嫡男・鶴松が天正19年(1591)亡くなったことにより、改めて秀吉の養嗣子となり秀吉に替わり関白となった。それから2年後の文禄2年(1593)8月29日、秀頼が生まれた。このとき、秀吉は秀頼には秀次の娘を嫁がせ、秀次のあとは秀頼へ政権を継がせる計画があったという。

 しかし、この2年後の文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次の関白職を剥奪、さらには自刃に追い込ませた。しかも、秀次の縁者であった子女、妻妾なども殺害した。
【写真左】村雲御所瑞龍寺門跡
 本丸跡の一角に建立されているもので、現地には次のように記されている。






 現地説明板より

“由緒
 村雲御所と称し日蓮宗唯一の門跡寺院である後継者は、皇族五摂家華族から出て代々尼宮が住持する慣わしであった。
 当所は、天正13年関白秀次公が八幡城を築いた要害の地であった。

 当門跡は、関白豊臣秀次公の生母智の方事瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年正月に創建されたもので、後陽成天皇からは村雲の地と瑞龍寺の寺号及び、寺禄一千石を賜りまた紫衣着用と菊の御紋章を許されて勅願所となった。
 歴朝の尊崇も浅からず寺格は黒御所と定められ、これによって村雲御所と呼ばれることになった。
     本山村雲御所瑞龍寺門跡”

 因みに、秀次の生母・智(とも)が、秀次ら一族の菩提を弔うために開いた最初の場所は、京都の嵯峨にある二尊院の近くである。


 秀次に自刃を命じたのは秀吉だが、この年(文禄4年)の7月3日、聚楽第にあった秀次のもとに石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白らが訪れ、秀次に謀叛の疑いがあるとし、五か条の設問状を示し出頭を促している。

 これに対し、秀次は出頭を拒否、誓紙を認め逆心がないことを誓ったが、8日に再び伏見に出頭を命じられ、已む無く伏見に赴くと、引見されず関白・左大臣の職を剥奪、さらには剃髪を命ぜられ、高野山清厳寺に流罪・蟄居となった。
【写真左】本丸の東側面の石垣
 昭和42年に土砂崩れがあったことから、石垣の状況は当時のものではないかもしれないが、位置は同じところに積まれたものだろう。
 上段奥に見えるのは、瑞龍寺門からさらに奥に向かった稲荷神社の本殿。


 石田三成など5名のものが秀次に対し、どういう理由・根拠の下に「謀反の疑い」をかけたのか、未だに詳細は明らかにされていない。

 ただ、この時期(同年7月)には、秀頼に対し秀吉直属の奉行人らが「太閤様御法度御置目」を誓約したほか、秀次が自刃した15日以後、前田利家・宇喜多秀家をはじめ、織田信雄・上杉景勝・徳川秀忠ら在京大名28人らが、血判起請文や血判連署起請文を提出している。何とも慌ただしい動きである。このことから、秀頼の継嗣に当たって、何らかの緊張状態があったのだろう。
【写真左】北の丸へ向かう。
 村雲御所瑞龍寺門跡を終えて、一旦下に下がり北の丸へ向かう。
 写真左側の石垣は上の写真と同じく、瑞龍寺門(本丸)側のもので、高石垣である。



 それにしても、秀次の自刃の処置については、フロイスが記したように、「老体の狂気」ともいうべき常軌を逸した秀吉の狂乱ぶりが背景にある。秀次の頸は京都三条河原で晒された上に、その前で今度は秀次の遺児、側室・侍女29名が処刑された。また最上義光の娘は、秀次に乞われて上洛させていたが、この娘も家康からの嘆願もむなしく斬首された。
【写真左】北の丸
 北側の尾根筋に配置された郭で、南北に長い方形の形態。
【写真左】北の丸から北方を見る。
 北の丸からさらに尾根筋に北に向かっていくと、堀切があり、さらにそこから1キロ前後進むと、「北の庄城」がある。
 残念ながらこの日は時間がなく、当城は登城していないが、佐々木六角氏によって築かれたともいわれ、大手の枡形虎口にみるべきものがあるという。
【写真左】北の丸から安土城及び観音寺城を遠望する。
 この日は靄がかかっていたため、現地に設置してあったものを撮影し、管理人によって加工修正している。

 近江八幡山城から安土城までは直線距離で5.4キロ、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までは凡そ7キロ離れている。
 戦国期は左側に見えている西の湖がさらに内陸部まで広がっていたものと思われる。
【写真左】北の丸から本丸側を振り返る。
 この位置では丁度本丸の北東隅の石垣が見えている。
 このあと、西に向かい西の丸に向かう。
【写真左】西ノ丸
 北の丸から少し西に回り込むと西の丸が控える。
【写真左】西の丸から水茎岡山城を遠望する。
 西方に目を転ずると琵琶湖がみえるが、その湖岸には水茎岡山城が見える。

 当城は頭山(147m)とその隣にある大山(187m)の二山に築かれた山城で、南北朝時代佐々木六角氏の湖上警備の支城として築かれたといわれる。

 ただ、本格的な築城は、永正5年(1508)、足利11代将軍義澄が足利義尹の入洛を怖れて近江に逃れた際、伊庭、九里(くのり)氏を頼って岡山城に入城したときとされている。
【写真左】出丸
 西の丸からさらに南の尾根筋に向かうと出丸が配置されている。
 ただ、この日登城したときはご覧のように、カラーコーンやロープなどで立ち入り禁止の処置がされていたので向かっていない。手前に崩落した石が見えたので、危険なため通行禁止となったのだろう。
【写真左】秀次館跡測量図
 秀次館は本丸と出丸の間の谷を降りた南側の山麓部にあり、中央部(赤い線)が大手道となっていた。
 秀次館中心部はこの図の上部にあって、平成12,13年度の遺構確認調査では大型の礎石建物や石組みの溝などが検出されている。
 また、家臣団の館は秀次館から下方に大手道を挟んで両側に雛壇状の平坦地を設け造られていた。

 なお、この日(2016年3月)は危険な箇所もあり大手道が封鎖されていて探訪することはできなかった。