高天神城(たかてんじんじょう)・その2
●所在地 静岡県掛川市上土方・下土方
●別名 鶴舞城
●指定 国指定史跡
●高さ 132m(比高100m)
●築城期 治承4年(1180)~建久2年(1191)ごろ又は、文安3年(1446)ごろ。
●築城者 渭伊隼人直孝・土方次郎義政
●城主 福島佐渡介基正、小笠原右京進春儀・弾正忠氏清・与八郎長忠等
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 掛川三城
●登城日 2016年11月5日
◆解説(参考資料 『文学で読む日本の歴史 戦国社会篇』五味文彦著 山川出版、掛川市HP等)
前稿に続いて高天神城をとり上げる。
【写真左】高天神城の看板
麓に設置されているもので、高天神城はこの写真の左側にある。
今稿では、本丸などがある東峰側の遺構などを紹介したい。
初めに前稿で添付した配置図を最初に掲げておきたい。
【上図】配置図
下方が北を示す。
【写真左】鐘曲輪
西の丸から再び戻り、中間点の鐘曲輪付近に向かう。
【写真左】的場曲輪
中間点を過ぎてそのまま中心部に向かえば本丸に繋がるが、一旦左に向うと的場曲輪がある。
南北に細長い郭で、文字通り弓矢などの訓練をしていた場所であるが、現地の説明板によれば、数年前の発掘調査時砂利が敷き詰められていたことが確認されている。
これは物を置いても沈まないようにするため、あるは鉄砲の弾薬を置いた場所で、湿気を防止するためではなかったかと考えられている。
このあと、その脇から本丸の外周部を回り込み、大河内石窟に向かう。
【写真左】大河内石窟へ向かう道
写真では分かりづらいが、左側は極めて険峻な崖となっている。
大河内幽閉の石風呂(石窟)
現地の説明板より
❝大河内幽閉の石風呂(石窟)
天正2年6月、武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず、武田方に降り城兵東西に離散退去したが、軍監大河内源三郎政局独り留まり、勝頼の命に服さず、勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松、政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月、徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際、牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え、労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。
政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い、剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。”
大河内源三郎政局(正局(まさもと))は家康の家臣であるが、8年もの間、この石窟で耐え忍んだとは驚くばかりである。
当時高天神城の城主は岡部丹後丹後守(前稿参照)で、盛んに武田勝頼に援軍を要請しているが、勝頼自身も北条氏や、上杉の「御館の乱」などで身動きが取れず、このため岡部丹後守は後に止む無く、牢中の政局を使って、落城の際、家康に城兵の命を助けてもらうよう要請している。
しかし、政局は「長い牢暮らしのため、足は立たず役に立ち申さぬ」と断った。これに激怒した丹後守は、さらに拷問にかけたという。武田方城番横田尹松が密かに支えていたとはいえ、不屈の忍耐力が彼をそうさせたのだろう。
【写真左】大河内政局石窟・その1
中世城郭でこうした石窟という牢獄の遺構が残っているのは全国的にも稀である。
【写真左】大河内政局石窟・その2
御覧のように現在は木製の柵が設置され、中を見ることはできないが、開口部はおよそ1.5m四方の規模。
本丸を囲む犬走りの一角に造られている。
【写真左】本丸入口付近
再び元に戻り本丸に向かう。写真は入口付近で、左右に土塁が残る。
おそらく当時は虎口としての遺構も残っていたのだろう。
【写真左】土塁
本丸入口の左側に残るもので、絵図ではこの個所しか描かれていないが、当時は奥の土塁までつながっていたものと思われる。
【写真左】本丸中心部
現地の説明板より
‟本丸址
元亀2年3月、武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以て籠城。本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百と遊軍百七十騎が詰めた。
天正2年5月、武田勝頼当城包囲猛攻、6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。
天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹後守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。
天正9年3月徳川家康来攻、包囲10か月、城中飢に瀕し22日夜半、大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激闘全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
城郭焼滅廃城となる。”
【写真左】石碑
本丸には高天神城の石碑などが建立されている。
【写真左】元天神社
本丸の中には元天神社が祀られている。その隣は土塁が付随している。
元天神社は、前稿高天神城・その1で述べた「 延喜2年(913)の藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ」とされたときのものだろう。
因みに、この高天神(鶴翁山)を中心として、遠江及び駿河地域には天神を祀る社が多い。
【写真左】御前曲輪
元天神から少し北に向かうと御前曲輪がある。
現地には城主・小笠原与八郎長忠と奥方二人の人形が設置されている。
このあと、三の丸方面に向かう。
【写真左】三の丸に向かう道
本丸から南東方向に少し下る坂道となっている。
また、この道は途中で大手門から直接向かう道と合流している。
【写真左】三の丸・その1
高天神城の中でもっとも東端部に当たる箇所にあり、三の丸の南側すなわち大手門との間の斜面にも3段程度の腰郭が配置されている。
写真には南から東にかけて伸びる土塁も見える。
【写真左】三の丸・その2
中央部には休憩小屋が建っている。
【写真左】土塁
同じく三の丸のものだが、先ほどの土塁とは反対側、すなわち北側に築かれた土塁で、こちらの方は2m近くも高く築かれている。
【写真左】切岸
高天神城の特徴の一つとして挙げられるのが、高さ・比高(132/100m)の割に外周部が極めて険峻なことである。
また、複雑な尾根構造であることや、巧みな縄張りを用いているため、攻める側にとって大きなハンディが伴ったことだろう。
【写真左】富士山を遠望
三の丸はもっとも解放された箇所であることから、この日(2016年11月5日)御覧の通り北東方向にうっすらと富士山を見ることができた。
高天神城周辺の城郭と合戦記録
●所在地 静岡県掛川市上土方・下土方
●別名 鶴舞城
●指定 国指定史跡
●高さ 132m(比高100m)
●築城期 治承4年(1180)~建久2年(1191)ごろ又は、文安3年(1446)ごろ。
●築城者 渭伊隼人直孝・土方次郎義政
●城主 福島佐渡介基正、小笠原右京進春儀・弾正忠氏清・与八郎長忠等
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 掛川三城
●登城日 2016年11月5日
◆解説(参考資料 『文学で読む日本の歴史 戦国社会篇』五味文彦著 山川出版、掛川市HP等)
前稿に続いて高天神城をとり上げる。
【写真左】高天神城の看板
麓に設置されているもので、高天神城はこの写真の左側にある。
今稿では、本丸などがある東峰側の遺構などを紹介したい。
初めに前稿で添付した配置図を最初に掲げておきたい。
【上図】配置図
下方が北を示す。
【写真左】鐘曲輪
西の丸から再び戻り、中間点の鐘曲輪付近に向かう。
【写真左】的場曲輪
中間点を過ぎてそのまま中心部に向かえば本丸に繋がるが、一旦左に向うと的場曲輪がある。
南北に細長い郭で、文字通り弓矢などの訓練をしていた場所であるが、現地の説明板によれば、数年前の発掘調査時砂利が敷き詰められていたことが確認されている。
これは物を置いても沈まないようにするため、あるは鉄砲の弾薬を置いた場所で、湿気を防止するためではなかったかと考えられている。
このあと、その脇から本丸の外周部を回り込み、大河内石窟に向かう。
【写真左】大河内石窟へ向かう道
写真では分かりづらいが、左側は極めて険峻な崖となっている。
大河内幽閉の石風呂(石窟)
現地の説明板より
❝大河内幽閉の石風呂(石窟)
天正2年6月、武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず、武田方に降り城兵東西に離散退去したが、軍監大河内源三郎政局独り留まり、勝頼の命に服さず、勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松、政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月、徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際、牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え、労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。
政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い、剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。”
大河内源三郎政局(正局(まさもと))は家康の家臣であるが、8年もの間、この石窟で耐え忍んだとは驚くばかりである。
当時高天神城の城主は岡部丹後丹後守(前稿参照)で、盛んに武田勝頼に援軍を要請しているが、勝頼自身も北条氏や、上杉の「御館の乱」などで身動きが取れず、このため岡部丹後守は後に止む無く、牢中の政局を使って、落城の際、家康に城兵の命を助けてもらうよう要請している。
しかし、政局は「長い牢暮らしのため、足は立たず役に立ち申さぬ」と断った。これに激怒した丹後守は、さらに拷問にかけたという。武田方城番横田尹松が密かに支えていたとはいえ、不屈の忍耐力が彼をそうさせたのだろう。
【写真左】大河内政局石窟・その1
中世城郭でこうした石窟という牢獄の遺構が残っているのは全国的にも稀である。
【写真左】大河内政局石窟・その2
御覧のように現在は木製の柵が設置され、中を見ることはできないが、開口部はおよそ1.5m四方の規模。
本丸を囲む犬走りの一角に造られている。
【写真左】本丸入口付近
再び元に戻り本丸に向かう。写真は入口付近で、左右に土塁が残る。
おそらく当時は虎口としての遺構も残っていたのだろう。
【写真左】土塁
本丸入口の左側に残るもので、絵図ではこの個所しか描かれていないが、当時は奥の土塁までつながっていたものと思われる。
【写真左】本丸中心部
現地の説明板より
‟本丸址
元亀2年3月、武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以て籠城。本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百と遊軍百七十騎が詰めた。
天正2年5月、武田勝頼当城包囲猛攻、6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。
天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹後守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。
天正9年3月徳川家康来攻、包囲10か月、城中飢に瀕し22日夜半、大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激闘全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
城郭焼滅廃城となる。”
【写真左】石碑
本丸には高天神城の石碑などが建立されている。
【写真左】元天神社
本丸の中には元天神社が祀られている。その隣は土塁が付随している。
元天神社は、前稿高天神城・その1で述べた「 延喜2年(913)の藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ」とされたときのものだろう。
因みに、この高天神(鶴翁山)を中心として、遠江及び駿河地域には天神を祀る社が多い。
【写真左】御前曲輪
元天神から少し北に向かうと御前曲輪がある。
現地には城主・小笠原与八郎長忠と奥方二人の人形が設置されている。
このあと、三の丸方面に向かう。
【写真左】三の丸に向かう道
本丸から南東方向に少し下る坂道となっている。
また、この道は途中で大手門から直接向かう道と合流している。
【写真左】三の丸・その1
高天神城の中でもっとも東端部に当たる箇所にあり、三の丸の南側すなわち大手門との間の斜面にも3段程度の腰郭が配置されている。
写真には南から東にかけて伸びる土塁も見える。
【写真左】三の丸・その2
中央部には休憩小屋が建っている。
【写真左】土塁
同じく三の丸のものだが、先ほどの土塁とは反対側、すなわち北側に築かれた土塁で、こちらの方は2m近くも高く築かれている。
【写真左】切岸
高天神城の特徴の一つとして挙げられるのが、高さ・比高(132/100m)の割に外周部が極めて険峻なことである。
また、複雑な尾根構造であることや、巧みな縄張りを用いているため、攻める側にとって大きなハンディが伴ったことだろう。
【写真左】富士山を遠望
三の丸はもっとも解放された箇所であることから、この日(2016年11月5日)御覧の通り北東方向にうっすらと富士山を見ることができた。
高天神城周辺の城郭と合戦記録
ところで、現地には高天神城周辺に残る武田氏・徳川氏双方の拠点となった城郭や、合戦場となった案内図も掲示されている。
彩色などがだいぶ薄くなっていたので、管理人によって修正している。
文字が小さくて分りにくいが、中央左に高天神城があり、徳川・武田双方の拠点となった城郭及び、合戦場が図示されている。
城郭
《徳川方》
- 馬伏塚城 永正年間今川臣小笠原長高築城
- 横須賀城 天正6年家康築城
- 掛川城 文明年間今川義忠築城
《武田方》
- 相良城 元亀2年2月信玄築城
- 小山城 元亀元年2月信玄築城
- 諏訪原城 永禄12年6月信玄築城
などが描かれている。