大江時親邸(おおえときちかてい)
●所在地 大阪府河内長野市加賀田
●指定 大阪府指定文化財
●創建 鎌倉寺時代初期(江戸時代)
●備考 大江家住宅
●探訪日 2018年3月14日
◆解説(参考資料 『知将・毛利元就』池亨著等)
毛利元就の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田) の稿で少し触れているが、吉田郡山城の旧本城の築城者といわれているのが毛利時親(別名大江時親)である。
そして、この時親が安芸吉田郡山城に入る前にいたのが、河内国(大阪)加賀田にある大江時親邸である。
【写真左】大江時親邸
奥に見えるのが時親邸があった場所に建つ現在の民家。
その左側に石碑が建てられている。
現地の説明板より
‟伝 大江時親邸跡
鎌倉幕府を倒し、建武の中興に大きな役割を果たした楠木正成の軍学兵法の師であった大江時親は、平安時代後期の家人・大江匡房の7世孫で、この地に住んだとされている。
また戦国時代に中国地方を席巻した武将・毛利元就は、その家系図において大江時親を始祖としているといわれている。
なお、現存する大江家住宅は、復元すると、桁行六間半、梁行四間の規模となり、居室も整形四間取りとなる。各部の様式・手法から18世紀前半頃の建築と考えられている。
昭和61年3月
河内長野市”
【写真左】入口付近
奥にさきほどの石碑などが建立され、右側に現在住まいをしておられる方の家が建っている。
因みに復元すると、桁行6間半・梁行4間で、4間の間取りとなる。江戸時代に再建されたものなので、時親時代のときのものと同じものではないかもしれないが、規模は当時と同程度のものだったと思われる。
なお、時親邸跡に建っている住居は、一般人の民家のため非公開。
大江時親
時親の誕生年は不明だが、鎌倉時代後期とされる。父は経光で宝治元年(1247)に勃発した宝治合戦時、毛利氏一族大半が討死したものの、経光はそのころ越後にあって、難を逃れた。
後段で述べるように、このころ毛利氏は既に越後佐橋庄南条、及び安芸の吉田庄を得ていたようだが、当時は六波羅評定衆を任じられていたこともあり、前記の二つの土地には赴かず、河内に邸宅を持っていた。
【写真左】説明板
現地には上掲した説明板が設置されている。
文永7年(1270)経光は嫡男基親に佐橋庄北条を、四男時親には安芸吉田庄と佐橋庄南条の2か所を譲った。
四男時親が優遇されているのは、彼が得宗(北条氏嫡流)で当時幕府の実力者といわれた長崎泰綱の娘を妻としていることから、妻の実家に配慮した処置といわれる。このこともあって、前述したように時親は六波羅探題の評定衆という重職を担うことになる。そしてこの職責を担保する在京料として今稿の河内加賀田郷に住まいを持った。
【写真左】鳥居と石碑
奥には玉垣で囲んだ石碑が建立され、手前には鳥居が設置されている。
安芸吉田庄へ下向
この後、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、南北朝動乱へと時代が進むが、特に南北朝時代には他の一族がそうであったように、時親もまた一族を南北両朝へ分散臣従させた。
その結果、曾孫の元春が尊氏派に属して戦ったため、佐橋庄南条などは外孫に譲り、時親と元春は延元元年(建武3年・1336)、安芸吉田庄へ下向し、吉田郡山城(旧本城)を築き、以後安芸の国人領主毛利氏として定着することになる。
【写真左】石碑
「大江修理亮遺跡碑」と題した碑文で、明治36年2月に従二位勲一等男爵九鬼隆一撰と揮毫されている。
【写真左】時親邸前の畑地
時親邸はかなり山奥に入ったところにある。
時親邸の東麓を流れるのが加賀田川で、この川を下っていくと、石川に合流し、富田林を抜けて柏原市で大和(奈良県)から流れてきた大和川と合流、西進して大阪湾に注ぐ。
時親が六波羅の評定衆として活躍していたころ、河内から京都への往来はこの川を使っていたのだろう。
【写真左】吉田郡山城遠望
所在地:広島県安芸高田市
【写真左】吉田郡山城の旧本城
現地の案内図にも記されているが、本丸から南東の尾根を下った位置に築かれた。
●所在地 大阪府河内長野市加賀田
●指定 大阪府指定文化財
●創建 鎌倉寺時代初期(江戸時代)
●備考 大江家住宅
●探訪日 2018年3月14日
◆解説(参考資料 『知将・毛利元就』池亨著等)
毛利元就の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田) の稿で少し触れているが、吉田郡山城の旧本城の築城者といわれているのが毛利時親(別名大江時親)である。
そして、この時親が安芸吉田郡山城に入る前にいたのが、河内国(大阪)加賀田にある大江時親邸である。
【写真左】大江時親邸
奥に見えるのが時親邸があった場所に建つ現在の民家。
その左側に石碑が建てられている。
現地の説明板より
‟伝 大江時親邸跡
鎌倉幕府を倒し、建武の中興に大きな役割を果たした楠木正成の軍学兵法の師であった大江時親は、平安時代後期の家人・大江匡房の7世孫で、この地に住んだとされている。
また戦国時代に中国地方を席巻した武将・毛利元就は、その家系図において大江時親を始祖としているといわれている。
なお、現存する大江家住宅は、復元すると、桁行六間半、梁行四間の規模となり、居室も整形四間取りとなる。各部の様式・手法から18世紀前半頃の建築と考えられている。
昭和61年3月
河内長野市”
【写真左】入口付近
奥にさきほどの石碑などが建立され、右側に現在住まいをしておられる方の家が建っている。
因みに復元すると、桁行6間半・梁行4間で、4間の間取りとなる。江戸時代に再建されたものなので、時親時代のときのものと同じものではないかもしれないが、規模は当時と同程度のものだったと思われる。
なお、時親邸跡に建っている住居は、一般人の民家のため非公開。
大江時親
時親の誕生年は不明だが、鎌倉時代後期とされる。父は経光で宝治元年(1247)に勃発した宝治合戦時、毛利氏一族大半が討死したものの、経光はそのころ越後にあって、難を逃れた。
後段で述べるように、このころ毛利氏は既に越後佐橋庄南条、及び安芸の吉田庄を得ていたようだが、当時は六波羅評定衆を任じられていたこともあり、前記の二つの土地には赴かず、河内に邸宅を持っていた。
【写真左】説明板
現地には上掲した説明板が設置されている。
文永7年(1270)経光は嫡男基親に佐橋庄北条を、四男時親には安芸吉田庄と佐橋庄南条の2か所を譲った。
四男時親が優遇されているのは、彼が得宗(北条氏嫡流)で当時幕府の実力者といわれた長崎泰綱の娘を妻としていることから、妻の実家に配慮した処置といわれる。このこともあって、前述したように時親は六波羅探題の評定衆という重職を担うことになる。そしてこの職責を担保する在京料として今稿の河内加賀田郷に住まいを持った。
【写真左】鳥居と石碑
奥には玉垣で囲んだ石碑が建立され、手前には鳥居が設置されている。
安芸吉田庄へ下向
この後、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、南北朝動乱へと時代が進むが、特に南北朝時代には他の一族がそうであったように、時親もまた一族を南北両朝へ分散臣従させた。
その結果、曾孫の元春が尊氏派に属して戦ったため、佐橋庄南条などは外孫に譲り、時親と元春は延元元年(建武3年・1336)、安芸吉田庄へ下向し、吉田郡山城(旧本城)を築き、以後安芸の国人領主毛利氏として定着することになる。
【写真左】石碑
「大江修理亮遺跡碑」と題した碑文で、明治36年2月に従二位勲一等男爵九鬼隆一撰と揮毫されている。
【写真左】時親邸前の畑地
時親邸はかなり山奥に入ったところにある。
時親邸の東麓を流れるのが加賀田川で、この川を下っていくと、石川に合流し、富田林を抜けて柏原市で大和(奈良県)から流れてきた大和川と合流、西進して大阪湾に注ぐ。
時親が六波羅の評定衆として活躍していたころ、河内から京都への往来はこの川を使っていたのだろう。
【写真左】吉田郡山城遠望
所在地:広島県安芸高田市
【写真左】吉田郡山城の旧本城
現地の案内図にも記されているが、本丸から南東の尾根を下った位置に築かれた。