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2019年4月23日火曜日

因幡・上ノ山城(鳥取県岩美郡岩美町恩地)

因幡・上ノ山城(いなば・うえのやまじょう)

●所在地 鳥取県岩美郡岩美町恩地
●高さ 38m
●比高 20m
●築城期 不明
●築城者 不明
●形態 平城(海城か)
●遺構 郭・堀切
●備考 恩地呂神社

◆解説(参考資料 『岩美町誌』等)
 因幡・上ノ山城(以下「上ノ山城」とする。)は、因幡国(鳥取県)の東方岩美町に所在し、国道9号線と並行して走る蒲生川の南岸にある独立丘陵に築かれた小規模な城址である。
【写真左】上ノ山城遠望
 東側の田圃から見たもの。
 東斜面は伐採されていた。







恩地呂神社と上ノ山城


 上ノ山城は小規模な城砦である。ただ、この小丘には恩志呂神社が祀られ、その奥に山城としての堀切などの遺構が残る。
 当城について記した資料はなく、このため築城期・築城者などもわからない。ただ、所在する当地・恩地周辺には多くの城郭があり、上ノ山城もこれらと関連するものと思われる。
【写真左】登城口
 国道9号線から南に細い道に入ると、恩地集会所があり、そこから奥に進むと、登城口即ち恩地呂神社の参道入口がある。
 この階段を登って行く。




 具体的には、上ノ山城の南西400mの地点に岩山城があり、蒲生川を挟んだ北東部には高山城や広岡城、そして蒲生川を1キロほどさかのぼった坂上には猪尾山城などが点在している。そしてこれらは概ね山名氏時代のものといわれている。

 上ノ山城の配置を考えると、岩山城及び、反対側の高山城と併せて、蒲生川と並行して走る因幡と但馬を結ぶ街道(現国道9号線)を見下ろす位置であったことから、戦国時代には重要な場所であったことが推察される。
【写真左】階段を登る。
 小丘の割に傾斜はきつい。









 上掲した諸城のうち、岩山城については、天正年間安芸判官という武士が在城していたという。また猪尾山城には、坂上定六という武士が居城しており、定六一族の末裔が昔から城下の屋敷に住み、大身の槍を代々受け継いでいるといわれてる(『岩美町誌』)。

 こうしたことから、上ノ山城は天正年間には安芸判官某の一族もしくは家臣が守城していたのだろう。
【写真左】腰郭か
 最初の階段を登って行くと、途中で御覧の踊り場のような平坦地がある。
 当社が創建された時よりあったものかわからないが、腰郭の役目をしていたのだろう。


 ところで、当城の頂部にあたる位置には恩地呂神社が祀られている。当社は延喜式神名帳に記載されており、往古当地が巨濃郡(こののこおり)と呼ばれていたときには既に所在していた古社である。従って、上ノ城が築かれる前に恩地呂神社があり、それを残したまま築かれた可能性が高い。
【写真左】2段目の階段を登る。
 先ほどの踊り場を過ぎると、再びさらに傾斜のついた階段がある。
【写真左】本殿下の段・その1
 先ほどの階段を登りきると、ここで再び平坦地がある。そして真正面に本殿が見える。
 3番目となる最後のこの階段を上がると本殿にたどり着く。
【写真左】本殿下の段・その2 境内の一部ということになるが、山城としても活用された戦国期は郭の役目を果たしたものだろう。
【写真左】本殿の東境内
 本殿に上がり、周りを見ると、東側は広く開放され、西側は狭い。そしてこの付近になると、東西両岸は険峻な崖となっている。
【写真左】上ノ山城から東方を俯瞰する。
 当城の東から蒲生川が流れ、北麓を通って網代方面(日本海)へ流下する。
 また蒲生川を挟んだ対岸には高山城が見える。
【写真左】本殿の裏を進む。
 本殿から裏側に進むと、一旦高くなった段があり、奥には岩塊が見える。
【写真左】主郭
 当城の最高所に当たる位置で、主郭と思われる部分にはかなり大きな岩塊が置かれている。
 基壇または物見櫓的な機能を持っていたと思われる。
【写真左】堀切・その1
 主郭を過ぎ尾根伝いにさらに進むと、堀切がある。
 当城の遺構として最も明瞭に残るもの。
【写真左】堀切・その2
 横から見たもので、深さは3m前後。
【写真左】二条目の堀切
 さらに奥に進むと、もう一つの堀切がある。
 この堀切はやや浅くなっている。
【写真左】反対側から振り返る。
 手前に二条目の堀切が見える。
 なお、上ノ山城にはこのほか両側斜面に2,3本の小規模な竪堀が散見されるが、明瞭でない。
【写真左】東麓から遠望する。
 中央部の主郭や堀切のある箇所を捉えた写真だが、斜面の伐採箇所に比べ、思ったほどはっきりした画像にならなかった。



当時の地勢

 ところで、下山したあと感じたのだが、こうした小丘もしくは低山に郭や堀切などを介した城郭は、麓が陸地であった場合、ほとんど城郭としての戦略的効用は期待できない。このため、当城については、当時の地勢を十分に考慮する必要がある。

 その際キーワードになるのが、麓を流れる蒲生川である。おそらく中世にはこの付近は西側の本庄地区が潟湾となって、奥まで入り込み、この恩地のあたりまで入江となっていた可能性が高く、上ノ山城の周囲は干満を繰り返す海岸部の姿を見せていたのではないかと考えられる。換言すれば上ノ山城は「海城」であった可能性が高い。

2013年3月25日月曜日

亀尻城(鳥取県鳥取市青谷町亀尻)

亀尻城(かめじりじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市青谷町亀尻
●別名 亀後城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 石田主膳
●高さ 標高50m前後(比高40m前後)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2013年2月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 鳥取県は旧国名でいえば、因幡国と伯耆国の二国で成り立っている。伯耆・因幡両国を往来する道は、現在山陰道(青谷羽合道路)が繋がり、短時間でいけるようになったが、伯耆側の湯梨浜町から因幡側の青谷町に向かう道としては、日本海側の入り組んだ海岸部をくねくねと走る山陰道(国道9号線)が示すように、中世には難所の一つでもあった。

 しかも、伯耆側から因幡側の青谷町に入ってからも、さらに、夏泊の峠を越える道が控え、陸路での往来は困難を極めていたという。
 このため、上述した夏泊などは江戸時代には北前船の寄港地としても利用されるように、船舶による海上交通が盛んになっていった。
【写真左】亀尻城遠望
 北東部にある日本海に突出した長尾鼻展望台から見たもの。
 手前に夏泊の港があり、青谷海水浴場の西側に注ぐ勝部川をさかのぼっていくと、亀尻城が東側に突出している。


 さて、今回取り上げる亀尻城はその因幡国西端部の青谷町に築かれた小規模な城塞であるが、同町にはこのほかにも下記の山城が確認されている。

  1. 露谷城 同町露谷 別名北鼻城・鉢伏山城。城主・石田氏
  2. 蔵谷城 同町善田 別名奥谷城
  3. 国屋城 同町青谷 国屋氏居城
  4. 早牛城 同町早牛 早牛集落の下供養塚の上にある。
  5. 不動山城 同町鳴滝 勝部谷の不動山に築城
【写真左】亀尻城近影・その1
 西側を流れる勝部川対岸から見たもので、南側から伸びた丘陵部先端部に築かれていることがよく分かる。
【写真左】亀尻城近影・その2
 上の写真の続きで、南に延びる尾根部分。
写真ではわかりにくいが、中央やや左側には堀切があり、現在その箇所は公園化された施設に向かう道に改変されている。



このほか、青谷町外のもので、既に紹介した近隣のものとしては次のものがある。
  1. 勝山城(鳥取県鳥取市気高町勝見)
  2. 河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園)
さて、亀尻城も含め、青谷町にある城砦に関しては残念ながら手元に全く資料がないため、詳細は不明だが、唯一当城の城主が石田主膳なる武将であったという記録が残る。
【写真左】登城道
 本丸跡まではこのような簡易舗装が途中まで施工されている。
 堀切とされている箇所は、この写真の左側で、手前にはもう一つ分岐した林道が南に向かっている。
【写真左】貯水タンク
 下段で紹介するように、城域の南側には貯水タンクが設置され、周辺部もこの施設のために大幅に改変されている。
【写真左】城山公園化推進事業協賛者の看板
 平成15年の日付で、青谷町長はじめ、地元の方々の芳名が列記されている。
【写真左】北側からタンク方面を見る。
 手前の削平地も公園化のため改変されたものと思われ、さらにそこから南に向かって盛り土が施工されている。
 この辺りは殆ど遺構は消滅しているようだ。
【写真左】小郭
 北側には2,3段の郭らしき箇所が見えるが、明瞭でない。
【写真左】露谷城遠望
 前記したように、亀尻城の東方に延びる尾根には亀尻城より標高の高い露谷城が見える。登城道など不明だが、遠望する限り亀尻城より規模が大きいようだ。
 この城の城主も「石田氏」という記録が残ることから、亀尻城の詰城だった可能性もある。

2012年10月3日水曜日

鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)

鳥取城・その2

吉川経家の墓(きっかわつねいえのはか)


●所在地 鳥取県鳥取市円護寺
●探訪日 2006年12月20日、2007年1月及び2012年4月2日

◆解説
 前稿で紹介した吉川経家の墓を取り上げる。
 所在地は、2回目に登城したときの入口付近にあたる円護寺という地区で、新興団地が立ち並んだ一番奥に祀られている。
【写真左】吉川経家の墓所・その1
 団地の外周を回る道路の中側に霊廟・公園のような造りで祀られている。(2007年撮影)




現地の説明板より

“吉川経家公墓所

 吉川経家公は、天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻略に備え、中国地方の雄毛利氏から鳥取城将として派遣されてきたものである。
 羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。

 この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。
 織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。天正9年3月18日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。

 同年7月12日、信長の派遣した部将羽柴秀吉は鳥取に到着し、鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。
【写真左】吉川経家の墓所・その2
 1mほど高くなった壇を設け、7,8m四方の柵で囲まれた中に五輪塔が祀られている。(2007年撮影)



 これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆400と因幡国方衆1000余であった。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3か月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。

 ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。
 この五輪塔は、その吉川経家主従の墓と伝えられているものである。

 平成5年3月
      鳥取市教育委員会”
【写真左】吉川経家の墓
 おそらく右側の大きなものが経家の墓だろう。
(2012年撮影)







吉川経家

 当城がもっとも激しく、凄惨な戦いが繰り広げられたのは、説明板にもあるように、天正9年の「鳥取城の渇え殺し」である。

「鵯尾城」(2012年9月25日投稿)でも記したように、鳥取城を一時期支配していた武田高信が、次第に劣勢となると、山名豊国に誓紙を差出し、自ら鳥取城を明渡し、鵯尾城に移った。豊国が鳥取城に入城したのは天正元年(1573)の冬といわれている。名実ともに鳥取城主になった豊国ではあったが、すでにそこのころから西国の雄・毛利氏が東進してきており、さらには、東方から織田方羽柴秀吉が但馬を越えて因幡に進出しようとしていた。

 豊国としては、毛利・織田(秀吉)のいずれかに降る選択を余儀なくされた。家老たちは織田に戦いを挑むことを主張したが、豊国は逆に織田(秀吉)に与することを選んだ。このため、森下道誉・中村春続ら家老たちは、豊国を鳥取城から追放した。そして、毛利方の吉川元春に対し、新たな城主を鳥取城に迎えるよう請うた。
 この結果、元春が城番として派遣させたのは、石見福光城の城主吉川経安の嫡男・経家である。
【写真左】福光城遠望
 石見温泉津にあって、別名「不言(ものいわず)城」ともいう。








石見福光城は、以前紹介した福光城(島根県大田市温泉津町福波谷山)である。当稿でも紹介したように、別名「不言(ものいわず)城」といい、経家の父経安が、永禄2年(1559)の川本温湯城(温湯城・その3(島根県邑智郡川本町河本谷))攻めで功があった時、元就よりこの土地と城を与えられていた。ただ、この所領安堵については、経安・経家側にとって決して満足のいくものではなかったようで、度々本家(元春側)に加増等について、要望していたようである。

 ちなみに、この石見吉川氏については、嘉暦3年(1328)の経茂を初代とし、温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)を本拠とし、経安で9代を数えていた。従って、順当ならば、経家は石見吉川氏の10代目として当地を引き継ぐ予定であった。
【写真左】経家の墓所から鳥取城を見る。
 こちら(北側)からは石垣などは見えない。








 天正9年(1581)2月、吉川元春から命を受けた経家は、家督を幼い元服前の嫡男亀寿丸(のちの経実)に相続させ、因幡鳥取城に向けて石見を経った。

 ところで、この命を受けるにあたっては、前記した石見吉川家の所領安堵の改善をその条件としていた節がある。

 そして、経家自身旅立つ前から、鳥取城の戦況についてはある程度把握していたようで、自らの死を覚悟していた。つまり「負け戦さ」を承知の上で向かったわけである。

 経家が入城して200日余、籠城してから100日、多数の餓死者を出し、同年10月25日、経家は鳥取城を明渡した。その日の朝、親族らに認めた数通の遺書を残し、自刃した。

2012年10月1日月曜日

鳥取城・その1(鳥取県鳥取市東町2)

鳥取城(とっとりじょう)・その1

●所在地 鳥取県鳥取市東町2
●指定 国指定史跡
●別名 久松山城
●築城期 天文12年(1543)又は天文14年(1545)
●築城者 但馬山名氏又は、因幡山名氏(山名誠通)
●城主 山名誠通・武田高信・山名豊国・吉川経家・宮部継潤・池田氏等
●高さ 標高263m(比高240m)
●遺構 山上の丸(本丸・二の丸・三の丸・出郭)、山下の丸(天球丸・二の丸・三の丸・馬場・御米蔵・内堀)、石垣等
●登城日 2006年12月20日及び2012年4月2日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『天正9年鳥取城をめぐる戦い』鳥取市博物館やまびこ館編等)
 戦国期因幡国の中心となった城砦である。これまで因幡国の山城を取り上げる際、度々登場してきた城砦であり、本来ならばとっくに投稿すべきメジャーな山城であるが、なかなかアップする準備まで至らなかった。
 今月は因幡の山城が続いたので、節目として当城を取り上げることにしたい。
【写真左】鳥取城遠望
 南西麓を走る国道29号線付近から見たもの。










太閤ヶ平と鳥取城を結ぶコースに設置された説明板より

“史跡 鳥取城跡附太閤ヶ平

 この久松山に築城された鳥取城は、戦国時代中ごろ(天文年間)に、自然地形を利用した山城として築かれたことにはじまり、以後、因幡地方の政治拠点となり、また近世においては、因幡・伯耆両国の支配拠点として明治維新まで存続していた。

 このため、鳥取城跡には、中世山城的性格と近世的城郭遺構が併存しており、このことは日本城郭史上、数少ない城跡であり、学術的・歴史的にも貴重なものとして国指定史跡になっている。
【写真左】配置図
 今回の登城口付近と、鳥取城・太閤ヶ平の配置図。

 2006年、初回登城のときは、南西麓の山下ノ丸付近から向かったが、2回目の今年は反対側(北東麓)の円護寺側から向かった。

 なお、この円護寺側には、次稿で予定している「吉川経家の墓」がある。
 従って、この図は下方が北を示す。


 この鳥取城の詳細な築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の本城となったのは、因幡国守護・山名豊国の時(1573)であった。

 この頃の鳥取城の主要城郭は、山上ノ丸と、それから西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を削り平坦部を造りだした遺構が多く残っている。
【写真左】登城口付近
 先ほどの図が掲げられている箇所で、右側の5号歩道というルートを進む。

 このルートは、途中で本陣山(太閤ヶ平)にも繋がる。



 近世になると、鳥取城は因幡・伯耆両国(32万石)の居城となり、これに伴って山下ノ丸が大きく拡充整備され、現在みられるような城跡の基礎が築かれた。

 この鳥取城には関ヶ原の戦以後、池田長吉・長幸父子。池田光政が相次いで城主となったが、寛永9年(1632)、岡山から池田光仲が入城して以後、光仲の子孫が明治維新まで城主となっていた。

 明治維新後、この城は政府の陸軍省の所管となり、明治12年に城郭すべての建物は撤去された。
【写真左】分岐点
 写真左側に進むと、ひょうたん池・栗谷方面へつながり、本陣山と久松山(鳥取城)の丁度中間を進むことになる。

 久松山方面は写真にあるように、ここから西に迂回していく。
 本陣山方面は、この写真にはないが、すぐ手前に分岐点があり、その道を東進していく。

 すでにこの辺りから秀吉方が陣した多くの陣所があるようだが、具体的にはどのあたりなのか管理人にはわからない。  


 なお、鳥取城は戦国時代末期、織田氏と中国地方の雄・毛利氏との対立から、二度にわたる羽柴秀吉の攻撃を受けた。天正9年(1581)、時の鳥取城城将・吉川経家は秀吉の強烈な鳥取城包囲に拠る兵糧攻めを受けた。

 このため、毛利氏の援軍と兵糧の補給を阻止されたことにより苦戦し、籠城およそ4か月ののち開城した。経家は開城に伴い秀吉の助命の意向に反し、自ら切腹し城将としての責任を明らかにした。この鳥取城攻めは「鳥取城の渇え殺し」として語り継がれ、岡山の「高松城の水攻め」とともによく知られている。

 昭和63年3月
      文化庁
      鳥取市教育委員会”
【写真左】陣所跡か
 途中で郭跡らしき遺構が見えるが、特に標記もされていないため、確認できない。

 この先を過ぎると、途端に急斜面を下るが、おそらく、この位置までは秀吉が攻囲していたのだろう。





築城期

 説明板にもあるように、築城期については確定したものがないが、冒頭でも記したように、以前は天文14年説が主流だったが、最近の研究ではそれより少し前の天文12年(1543)ではなかったかとされている。

 いずれにしても、鳥取城が築城された経緯はこれまで記してきたように、それまで布施の天神山城を本拠城としていた因幡山名氏が、但馬山名氏との抗争が激化し、当城の出城として久松山に築いたことがきっかけである。
【写真左】簡易舗装の道路と合流
 さきほどのところから坂を下ると、途端にご覧のような開けた場所に出る。

 右側の道路は管理用の道路のようで、円護寺側から伸びている。当然一般車は通れない。
 鳥取城へはそこからまっすぐのびる尾根伝いを進む。
【写真左】分岐点
 山上ノ丸(本丸)まで800mの地点で、別の道と合流する。これを右に進む。
【写真左】北側から回り込む。
 すでに本丸の北麓に位置しているが、この辺りから傾斜がきつくなっており、2,3度九十九折しながら登る。
【写真左】石積み跡
【写真左】山上ノ丸(本丸側)と十神砦との分岐点
 鳥取城の本丸側から北に延びる尾根の突端部には「十神砦」という遺構がある。

 十神砦へは右へ100mほどで、本丸側へはここから左へ600mほどの距離となる。
【写真左】十神砦から東麓に吉川経家の墓方面を見る。
 十神砦には高さ3m程度の大きな岩があり、おそらくこの岩が物見台を兼ねていたと思われる。

 この岩から東麓に目を向けると、円護寺という地区があり、現在「円護寺団地」「北園ニュータウン」という団地が出来ている。

 次稿で紹介する予定だが、この団地の東端には「吉川経家の墓」が祀らている。
【写真左】十神砦から秀吉方が陣した円護寺北方の山並みを見る。
 円護寺の団地となっているところも、当時秀吉方が陣を構えたところがあるが、さらにその向背の山にも7,8か所の陣が構えられていたという。
【写真左】久松山ロープウエイ施設跡と郭
 十神山砦から本丸に向かう途中には、以前使われていたロープウエイの駅舎跡がある。
 開業が1969年で、廃止になったのはその7年後の1976年という短い期間だった。

 水平長590m、傾斜長623m、高低差172m、定員41名の規模のもの。
 現在、山頂側の駅舎の一部は開放されて、休憩室のような使用となっている。

 この付近の登城道から、南側の尾根に設置された鉄の架台が朽ち果てた形で見える。
【写真左】出丸の前付近
 山上の丸側には、本丸・二の丸・三の丸をメインに、以下西の尾根伝いに、出丸・鐘ヶ平(なる)・太鼓ヶ平・松ノ丸などの郭が続いている。

 この写真は、それら反対方向の位置にある遺構で、虎口と思われる。
【写真左】郭
 上記の位置を過ぎて、左手にあるもので、中央部で少し段差が認められる。
 幅5m×奥行10m程度の規模。
【写真左】井戸跡
 井戸跡は本丸側にもあるが、これは三の丸手前に残るもの。直径は2m程度と小規模なもの。
【写真左】山上ノ丸案内図
 本丸を中心に、左上に天守櫓跡、その下の尾根に出丸があり、本丸の右側に二の丸・三の丸と図示されている。


【写真左】本丸を見る。
 先ほどの位置から西側に回り込んでいくと、石積みが残る本丸跡が見えだす。

 なお、この写真の左側には、山下の丸から登る道(大手道)がある。
【写真左】二の丸跡
 最初に二の丸側に向かう。本丸より少し下がった位置にあり、鉄筋コンクリート製の休憩室が片隅に建つ。

 この写真では右側から鳥取市内を俯瞰できる。
【写真左】二の丸から三の丸を見下ろす。
 二の丸をさらに奥に進むと、4m前後の高低差を持たせた三の丸が見える。
【写真左】本丸跡・その1
 東西70m×南北32mの規模を持つ。後段に示すように、天守櫓・月見櫓・車井戸などが残る。
【写真左】本丸跡・その2 車井戸
 池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時、掘った井戸と伝えられている。
【写真左】本丸跡・その3 天守櫓跡
 18m四方の規模のもので、穴蔵があったという。
 石垣の高さは西側で9.6m、東側で4.3m
 もっとも眺望がいい場所である。
【写真左】出丸
 本丸の真下に配置されたもので、東西に長く概ね二つの区分に分けられている。
【写真左】天守櫓から北方に、雁金城・丸山城を見る。
 二城とも鳥取城の支城として使われ、雁金城には芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)で紹介した塩冶周防守が、また丸山城には吉川元春の家人山県九左衛門を主将とし、津居山城(兵庫県豊岡市津居山)で紹介した奈佐日本助及び佐々木三郎左衛門らが守備した。

 奥に見える川は日本海に注ぐ千代川で、賀露の湊が河口西口に見える。
【写真左】本丸から西方に、布施天神山城・防己尾城を見る。
 西方には湖山池が見え、その東岸には因幡山名氏の本城・布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)が見える。

 また、対岸の西には毛利方の一翼を担った吉岡将監の拠る防己尾城(鳥取県鳥取市金沢)が見える。
【写真左】本丸付近より東南方向に甑山城を見る。
 少し霞んでいるが、山中鹿助が拠った甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)が見える。