2017年12月4日月曜日

豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)

豊前・龍王城(ぶぜん・りゅうおうじょう)

●所在地 大分県宇佐市安心院町龍王字古城
●別名 神楽岳城・臥牛城
●高さ 315m(比高215m)
●築城期 正安年間(1299~1302)
●築城者 安心院公泰
●指定 宇佐市指定史跡
●遺構 郭・石垣等
●備考 仙の岩(国指定名勝耶馬渓)
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第16巻』新人物往来社刊』等)
 全国に4万社以上あるといわれる八幡社の総本宮といわれるのが、大分県宇佐市にある宇佐神宮である。この宇佐神宮の西方を流れるのが、由布岳などを源流として周防灘にそそぐ駅館川(やっかんがわ)である。同川は二級河川で規模は大きくないものの、中流域では多くの支流を抱え込む。そのうちの一つが支流津房川に合流する深見川である。

 龍王城はその深見川が大きく蛇行する安心院町龍王に所在する山城で、この地域は中世における豊前と豊後両国の境目となる要衝であった。
【写真左】龍王城遠望
 主郭から南西に伸びる尾根部分で、通称「仙の岩」といわれる。

 国指定の名勝耶馬渓の一つで、写真は、右側から100mの大絶壁の平岩、全耶馬渓随一の大岩柱の剣ヶ岳、屏風岩。


現地の説明板より

“町指定史跡
龍王城(神楽岳城・臥牛城)跡

 正安年中(14世紀初頭)に宇佐大宮司安心院公泰により築城された連郭式山城です。
 中世には、豊前国と豊後国の境にあるためこの地域での中核的な城としての機能を果たし、地頭安心院氏を中心とした抱城でした。
 近世になると、細川氏が入部し龍王城を再普請し、準城下町に町並みも含め整備しています。その後、元和元年(1615)の一国一城令で破却され、寛永16年(1639)に城主松平重直が高田城に移り、廃城となりました。
 近世の普請による町並みは、今もその面影を残しています。

   安心院町教育委員会”
【写真左】龍王・海神社
 北側から車で向かう道があり、登城口付近には「海神社」という社が祀られている。この境内が駐車場を兼ねているようで、ここに停める。



安心院氏(あじむし)

 安心院と書いて「あじむ」と呼称する。現在当城が所在する地区は平成の合併により宇佐市に包含されたが、鎌倉期以前に16ヵ村を数えた安心院荘が記録されており、隣接する院内町なども元は荘園であった。そして、その荘園領主が宇佐神宮である。平安時代には九州最大の荘園領主にもなったことから、その経営防備などを担う神職家や坊官家などは武士となったものが多い。
【写真左】宇佐神宮
 所在地:宇佐市大字南宇佐2859
参拝日:2008年12月4日
【写真左】登城開始
 海神社側の階段とは反対の位置に登城口がある。九十九折のコースとなった道で、傾斜は多少あるものの歩きやすい。




 龍王城を築いた安心院公泰は、宇佐大宮司公康といわれている。文字通り宇佐神宮の宮司である。築城期は正安年間(1299~1302)といわれているので、丁度鎌倉幕府がこのころ鎮西評定衆を置いた時期と重なるので、それらと連動した関係もあったのかもしれない。

 伝承では、公泰が当地に入村し、姓を当地名から安心院と名乗り、拠点とする居城を宇佐宮に祈願したところ、安心院の山上と覚ゆるところに経津主神が現われ、神楽を奏した夢を見たのでこの山に城を築いて神楽岳城と名付けたという。
【写真左】登城道
 登るにつれて周囲には大きな岩が目立つようになる。石で造られた階段が所々あるが、大分劣化している。





南北朝期から戦国期
 
 その後城主安心院氏の動向は戦国期に至るまではっきりしないが、南北朝期の建武3年(延元元年・1336)豊前守護代であった宇都宮冬綱(月光山 天徳寺(福岡県築上町本庄361)参照)が、この城を借用しその子親綱に守城させ、龍王城と改称したという。このことから、おそらくこのころは城井氏の支配が豊後国境となるこの辺りまで拡大していたのだろう。

 ところで、龍王城と密接な関係を持っていたのが、当城から北へ凡そ8キロほど下った院内町香下の妙見嶽城である。築城期は天慶3年(940)藤原純友が築城したというから、大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)の攻撃と絡んだものだろう。
【写真左】妙見嶽城遠望
 龍王城の本丸からは見えないが、登城口の海神社境内から北北西方向を俯瞰すると確認できる。
 標高444m、別名極楽寺城ともいう。当城の登城も試みたが、比高差(約400m)と険峻な山容に圧倒されて断念した。

 なお、当城についてはHP『城郭放浪記』さんが既にアップしておられるのでご覧いただきたい。なかなか見ごたえのある城郭のようだ。



  さて、戦国期の天文年間(1532~ )に至ると、山口の大内氏が豊前統治のため、豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)に守護代を置き、妙見嶽城にはその代将を置いた。当城(妙見嶽城)には大内氏の重臣杉氏が代々務めている。そして、龍王城には城井三郎兵衛尉を置いた。
【写真左】北東方向を俯瞰する。
 奥に見える山並み(鹿子岳など)を超えると、駅館川の支流津房川や佐田川などが流れ、その北岸には下段で紹介している佐田氏の居城・佐田城や、飯田(はんだ)氏の居城・飯田城などが所在する。


 しかし、この体制も弘治2年(1556)になると大きく変わることになる。この年大友義鎮(宗麟)は1万2千の大軍を率いて龍王城に攻め入った。

 この戦いで城将城井統房をはじめ宇佐郡の地頭たちは皆降伏し、大友氏の傘下となった。このころ安心院氏の立場ははっきりしないが、おそらく城井氏の麾下となっていたのだろう、安心院公正は宗麟に謁し、麟の一字を許され麟生と改称した。麟生はその後永禄年間(1558~70)には大友氏の配下として門司城で毛利氏と刃を交え軍功を立てた。
【写真左】尾根鞍部にたどり着く。
 登城途中倒木や竹に覆われた箇所もみえたが、道そのものは何とか歩ける。
 ここで左右に分かれるが、本丸は右側。


 臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)の稿でも述べたが、天正6年(1578)11月、大友氏が耳川の戦いで大敗し同氏の衰頽が始まった。すると最初に反大友の烽火を挙げたのが、豊前・長岩城の野仲重兼である。

 重兼は翌7年、坂手隅・末広の諸城を落とし、大畑城に迫ったが、田原紹忍の下知に従って参戦した安心院・香志田・深見・臼杵諸氏の軍によって野仲軍は退却した。しかし、その後の大友氏の頽勢を押し止めることは出来ず、天正10年ついに安心院麟生も反大友に回った。
【写真左】郭段
 遺構として標示されたものはほとんどないが、この付近は尾根筋に何段かの郭が構成されていたような痕跡がある。




 このため、妙見嶽城の田原氏は宇佐郡衆の兵を募って龍王城を囲んだ。安心院麟生は一族郎党と共にこの要害堅固な龍王城に拠って必死に防戦に努めた。
 龍王城は結局落城せず、最終的には田原氏配下の佐田弾正忠が和睦の交渉に入り、降伏すれば本領安堵という条件をもって翌11年の正月開城した。

 開城後、麟生一族の動向については諸説紛々ではっきりしないが、一説には麟生は佐田の追討軍に狙撃されたとか、佐田鎮綱に後事を託して切腹し、麟生の子・千代松丸は許されて居館に帰ったなどといわれている。
【写真左】本丸と反対側方向
 おそらくこの下の段にも中小の郭などがあったものと思われるが、藪化しているため踏査していない。
 このあと、振り返って本丸方向に進む。
【写真左】本丸に向かう。
 石積による階段が設置されているが、これは後世のものだろう。
 前方に明かりが見える。
【写真左】腰郭
 経年劣化で郭の平坦さは失われているが、登城階段の左右には腰郭らしき遺構が散見される。
 点在している石も当時は郭段を構成していた石垣の跡かもしれない。
【写真左】本丸・その1
 頂部(本丸)にたどり着くと、NHKなどの無線中継の設備が設置されている。
 また手前の石碑には「龍王城児童遊園」と刻銘されている。
 どうやら以前は公園となっていたようだ。
【写真左】藤掛城遠望・その1
 よく見ると雑草の間に区画用の石が並んでいるが、これも遊園(公園)地のときのものだろう。
 一角には欠損しているものの、「神楽城址」と筆耕された石碑が建立されている。
【写真左】藤掛城遠望・その3
 無線中継所などが設置されているため、当時の状況は分からないが、規模はおよそ長径40m×短径30mで、楕円の形状をしている。
【写真左】石垣か
 下山途中に見えたもので、北側の一画に残る。
【写真左】仙の岩
 東麓を走る県道50号線(安心院湯布院線)に向かうと、冒頭で紹介した「仙の岩」がある。
 往古山岳仏教の修行場であったといい、大厳寺岩窟などがある。

 この写真でいえば、尾根を右伝いにいくと龍王城に繋がる。




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