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2021年5月13日木曜日

上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)

 上桜城(うえざくらじょう)

●所在地 徳島県吉野川市川島町桑村
●別名 植桜城・川島南城
●高さ H:142m
●築城期 南北朝期か
●築城者 河村小四郎か
●城主 篠原長房
●遺構 郭、空堀等
●指定 徳島県指定史跡
●登城日 2017年3月5日

◆解説(参考資料 平凡社発行「松永久秀と下剋上」天野忠幸著、その他)
 上桜城は以前紹介した同市内にある川島城(徳島県吉野川市川島町川島)から南へおよそ1.5キロほど向かった桑村の地区に所在する山城である。
【写真左】上桜城本丸
 本丸の一角には祠が祀られ、手前には上桜城の石碑が建立されている。







碑文
”城主 大和守長房右京之進弾正入道紫雲
上桜城址
  昭和46年7月16日 400年祭
  篠原 雅一 建立”
【写真左】上桜城に向かう分岐点
 川島城の南を走る国道192号線から南へ枝分かれする県道43号線(神山川島線)を南下していくと、途中で右側に林道のような道がでてくる。この道に入る。
 写真は県道43号線から枝分かれする部分。



現地の説明板より

❝徳島県指定史跡  上桜城跡
    平成元年12月8日指定

 上桜城は、戦国時代の末、篠原紫雲長房が、その実践の経験を生かし、この天然の要害に築いた。山頂の本丸は、二の丸、三の丸を廻らし、西の丸には北と南に空堀を持つ。
 元亀3年、長房は讒言(ざんげん)によって、主君三好長治の率いる兵7千によって攻められ、7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死をとげ落城した。いわゆる上桜の戦いで、城跡の麓には両軍戦死者の慰霊碑がある。❞
【写真左】登城口
 車を脇に停めてここから向かう。
 登城口付近には説明板や石碑が建ててある。
 






篠原長房と三好一族

 当城の城主といわれているのが三好氏の家臣であった篠原長房である。 彼については、既に讃岐の財田城(香川県三豊市財田町財田中)や、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)で紹介しているが、改めて彼の略歴を辿ってみたい。

 長房の父は篠原長政といわれ、篠原家はもともと近江の野洲郡篠原郷を本拠としていた。長政の父の代に近江から阿波国へ下り、三好氏に仕えたとされている。

 三好長慶(勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)参照)の時代になると、三好家は畿内を活動域とする長慶家臣団と、四国(阿波国・淡路国)を受け持つ長慶の弟実休家臣団(阿波三好家)の二つに構成された。

 そして、篠原長政の嫡男・長房は主として四国、即ち実休の家臣団の構成メンバーとなっていた。そして他国から入った立場であったため、一門衆とは別に譜代衆として次第に頭角を現すことになる。
【写真左】尾根を削平した平坦な箇所
 当時のものか不明だが、しばらくこうした歩きやすい箇所が続く。




 永禄4年~5年に三好長慶の実弟達である三好実休(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)参照)や十河一存(十河城(香川県高松市十川東町)参照)が相次いで亡くなると、実休の嫡男長治が跡を継いだが、幼少であったこともあり、彼(長房)が後見し、事実上の実権を握ることになった。

 なお、後段でも述べるが、長房には木津城(鳴門市撫養町木津)主となる弟の篠原自遁がおり、当初兄長房ともども三好長治を支えていくが、後に実休の妻との間を巡って袂を分かつことになる。
【写真左】旧道か
 上記写真の箇所の左側には北側登ってくる旧道らしきものが確認できる。当時の大手道の一部だったかもしれない。



 さて、三好実休・十河一存が亡くなった2,3年後の永禄7年(1564)5月9日、松永久秀の讒言によって、兄・長慶は残った一人の実弟・安宅冬康(白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)参照)を河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)で誘殺してしまう。

 なお、これより先の永禄6年(1563)、長慶は嫡男・義興も病没している。このように、短期間のうちに子息や、さらには讒言とはいえ自ら実弟を殺害したことに大きなショックを受けたのか、長慶はその2か月後の7月4日、飯盛山城で病死する。
【写真左】主郭が近づいてきた。
 途中の道は整備されていて歩きやすい。









 長慶が亡くなった後、跡を継いだのは長慶に養子として入っていた義継である。義継は、十河一存すなわち、長慶の弟の子であるから、長慶の甥に当たる。

 彼を支えたのがいわゆる「三好三人衆」と松永久秀といわれている。三好三人衆とは、三好長逸・三好宗渭(そうい)、そして岩成友通である。このうち、三好長逸と宗渭は長慶の一門衆で、岩成友通は新参衆とされる。彼らは主として畿内にあって長慶を支えてきた。松永久秀は岩成友通と同じく新参衆の一人で、信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)の稿ですでに紹介している。

【写真左】三好氏略系
 左図は長慶が亡くなった後の流れで、既述したように長慶の跡を継いだのは、十河一存の息子・義継である。

 これは、三好本宗家が天皇家の桐御紋の使用が許される家格を保持していて、それに相応しい跡継ぎを考えた本宗家は、十河一存の妻が前関白九条稙通の養女であることから、彼を本宗家(長慶)の養子として迎え入れた。
 

 長慶が亡くなったあと、三好家では長慶の養子であった義継を当主とし、三好三人衆と松永久通(久秀の嫡男)らが支える体制を整えるように見えた。しかし、その後松永久秀が復帰(嫡男に家督を譲っていた)すると、三人衆らは義継に久秀との断交を迫った。永禄8年(1565)11月のことである。

 永禄9年(1566)6月、長房は足利義栄(平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)参照)を擁立し、長治や細川真之(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)を奉じて四国勢を糾合し畿内に上陸した。

【写真左】三好長慶・実休の家臣団構成図
 ★マークが三好三人衆で、篠原長房は実休の譜代衆の代表格。










 このころ長房は三好三人衆(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)と与同し、松永久秀と敵対していた。そして、摂津及び大和国に転戦し、ついには永禄11年(1568)2月8日、足利義栄を第14代征夷大将軍に押し上げている。また、義栄が征夷大将軍となったこのころ、長房は松永久秀の拠る信貴山城も落としているので、まさに彼にとってはこのころが絶頂期だったといえる。

 しかし、彼らの勢いは長く続かなかった。この年の9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の動きを開始すると、長房及び三人衆らは退却を余儀なくされた。畿内での活動拠点の一つとしていた越水城(西宮市)にあった長房らは本国阿波へ落ち延びた。さらに不運が続いたのは、長房らと阿波国へ奔走していた足利義栄が10月20日、31歳の若さで病死してしまったことである。
【写真左】主郭付近
 定期的に整備されているせいか、左側に基壇を置き、北に向かって広い郭が囲繞している。





 それでも、四国に一旦帰国したあと体制をすぐに整え、翌永禄12年(1569)1月、三好三人衆は和泉に入り、信長から御座所として本圀寺(ほんこくじ)(京都市山科区)に宛がわれていた足利義昭を襲った(本圀寺の変)。しかし、すぐさま細川藤孝や三好義継並びに摂津国衆(荒木村重ら)らの援軍に敗れ四国に再び逃れた。

 この後も度々三好三人衆らは機会あるごとに四国から畿内に入って信長らと交戦していくが、元亀元年(1570)11月に織田方となっていた松永久秀と長房の間で人質交換が行われ和睦が成立した。
【写真左】主郭
 左側が基壇の形式を持った主郭で、その周りが二の丸と思われるが、三の丸と明確な区画があったのか思い出せない。



 ところで、長房が四国にあった元亀元年ごろ、娘を讃岐の雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)の城主・安富盛定に嫁がせている(昼寝城(香川県さぬき市多和)参照)。

 これはそれまでの領主であった寒川氏から安富氏に大内4郡を譲渡させ、讃岐東部までの地盤を拡大強化する狙いがあったためである。さらにこのころ毛利氏の圧迫を受けていた備前の浦上宗景(天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)の求めに応じ、瀬戸内を渡海し備前児島に上陸、小早川隆景配下の粟屋就方を打ち破っている。
【写真左】石碑 その1
 郭の一角には下記の内容の碑文が刻まれている。



❝上桜城跡 展望
 白砂碧水鳴海に注ぐ 大麻紀雲霞に宿る
 阿北穀倉一望に治む 風静也上桜城跡

  昭和五十年 篠原 雅一❞


三好長治による上桜城攻め

 さて、冒頭で紹介している説明板には、「元亀3年、長房は讒言によって、主君三好長治の率いる兵7千によって攻められ、7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死をとげ落城した。」とあるが、この戦いは史料によっては、元亀3年ではなく、元亀4年(天正元年・1573年)とされているものもある。
【写真左】石碑 その2
 別の箇所にも石碑が祀られている。

❝紫雲は細川藩政戦国乱世の時代に総侍大将として活躍し、新加制式目を制定して争い、事を治め詩人でもあり、文武兼備正義誠忠の武将であった。
 ◇◇謹書❞



 このころ篠原長房はしばらく畿内方面に出張していたが、その留守を預かっていたのが実弟の自遁である。彼はあろうことか、実休の妻、すなわち長治・十河存保の母・小少将と不倫の関係を持つようになった。このため、兄長房がそれを諫めたため、自遁は長房を疎んじるようになった。このため、長房は意欲が失せ上桜城に引きこもった。

 長房のこの行動に対し、三好長治は讒言によって、彼が裏切りもしくは、反撃に出ると思ったのか、上桜城の長房討伐へと動いた。その讒言の首謀者は弟の自遁であろうとしている。
 戦いは、5月に始まりその2か月後の7月に上桜城は落城し、城主・篠原長房が自害することなるが、討伐側である三好長治側には、阿波三好氏の元の主君・守護であった細川真之(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)がいた。
【写真左】上桜城から川島城を遠望する。
 上桜城から北におよそ1.5キロの位置に川島城が見える。その奥を流れるのが吉野川。

 長房が討死したあと上桜城は廃城となり、替わって吉野川沿いにこの川島城が築かれた。

 川島城の稿でも述べているように、築いたのは川島兵衛之進(惟忠)で、この後天正7年の長宗我部氏の阿波攻めで川島一族は備中(上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾))に逃れた。



 真之の母は、前述した小少将である。彼女は実休に嫁ぐ前は、細川阿波守護家9代持隆の側室で、このころから彼女は実休と相通じていたという。真之は公式には持隆の子としているが、こうした経緯もあったため、実父は実休であった可能性が高い。因みに、持隆の正室は山口の大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)の娘である。
【写真左】北側から見る。
 外周部はさほど険峻なところはないが、主郭を取り巻く郭はかなり広々としている。





 さて、上桜城の篠原長房が自害したあと、4年後の天正5年、今度は三好長治はこの細川真之を那賀の茨ヶ岡城に攻めた。ところが、逆に真之を支援した地元国人領主一宮成祐(一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)参照)らによって敗れ自害した(白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)参照)。
【写真左】上桜城から西麓を遠望する。
 中央を横断しているのが吉野川で、この付近の中洲(国有地)は同川の中でも最大級の規模を誇る。
【写真左】上桜城を遠望する。
 北西麓から見たもので、南から伸びてきた尾根の先端部に築城されているため、独立峰のような景観でなく分かりにくいが、写真の鉄塔付近と思われる。

2021年4月10日土曜日

徳島城(徳島県徳島市徳島町城内)

徳島城(とくしまじょう)

●所在地 徳島県徳島市徳島町城内
●別名 渭津城、渭山城
●形態 平山城
●高さ 62m(比高60m)
●築城期 至徳2年(1385)
●築城者 細川頼之
●城主 細川頼之、蜂須賀家政、以下蜂須賀家(至鎮、忠英,光隆,綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕、茂韶)
●指定 国指定史跡
●遺構 石垣、郭、堀、井戸等
●登城日 2017年3月5日

◆解説
 徳島城は吉野川河口近くにあった中洲状の小丘に築かれた連郭式山城である。
【写真左】徳島城の石垣
北側の部分で、左に向かうと本丸に繋がる。

 後段でも述べているが、秀吉の命によって、当時伊予にあった小早川隆景、土佐の長宗我部元親、さらには比叡山の僧侶などが築城に協力したという。
 石積には穴太(あのう)衆も関わったとされる。


現地の説明板より

”本丸跡
 徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
 本丸は標高61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中では最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。

 櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は、城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
【写真左】徳島城周辺地図
 徳島城を中心とするこの付近は徳島中央公園となっており、城北には助仁川が東西に流れ、そこから城東に水を引き込み、城南の方まで濠が残る。


 本丸の出入口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門(うずめもん)」があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。

 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西二の丸には鉄砲櫓と帳(とばり)櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
 西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。”
【写真左】本丸を囲む石垣
 奥に向かうと冒頭の箇所に至るが、全体に石垣の法面は曲線部はなく直線的な構成となっている。




渭山城・寺島城

 徳島城の前身は南北朝時代後期の至徳2年(1385)、細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)、白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が、四国南朝方を滅ぼしたころこの地に城砦を築いたのが始まりといわれている。
 また別説では鎌倉時代当時この地が富田庄と呼ばれたころ、地頭として来住した河野通純が文永9年(1272)築いたともいわれるがはっきりしない。
【写真左】本丸
 説明板にもあるように、御座敷、御留守番所、弓櫓、東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓などといった建物があり、L字型の大きな郭となっている。



 徳島城は別名渭山(猪山)城とも呼ばれた。現在の地図を見ても当城が当時吉野川の三角州の一角に岩塊状の島として存在していたことが想像される。そして、当城には「城山の海蝕痕」が残り、縄文時代には大規模な「海進」があった(下段参照)。

戦国期

 天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の際、臣下の一人であった蜂須賀家政が阿波一国(18万石余)をその勲功により賜り、当国に入り、最初に居城として入ったのが、徳島城から南西10キロ隔てた一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)である。

 入封したものの、家政はすぐに居城を一宮城から紀伊水道に面した現在の位置に平山城を築城計画し、翌天正14年に完成させた。このように、工期が短期で完成したのも、南北朝時代に細川頼之がすでに城郭としての基盤を形成していたからだろう。


清玄坊

 本丸の一角には御覧のような祠が祀られている
【写真左】清玄坊神社(祠)
 神社といわれているが、現在現地には祠のような大きさのものが祀られている。
 おそらく家政寺時代には社が建てられていたものと思われる、


 蜂須賀家が当地に入る前、この場所には三好家と共に阿波に下向し、祈祷所を建てていた清玄坊という修験者が居た。

 蜂須賀家政が阿波に入国し、当城を築城した際付近の全寺社に移転を命じたが、この清玄坊だけはこれをかたくなに拒否した。このため、清玄坊を謀殺した。

 その後蜂須賀家には災いが続出したため、清玄坊の祟りと畏れ、前非を悔いて石碑を建立し末代まで供養することを誓った。この結果変事は収まったという。
【写真左】本丸から眉山を遠望する。
 徳島城から眉山までは直線距離でおよそ2キロとなる。

 この日は時間がなく向かっていないが、当山には家祖・蜂須賀正勝(家政の父)をはじめとする藩主蜂須賀家墓所(万年山墓所)が祀られている。
 なお、正勝は天正14年(1586)5月大阪で没しており、墓石は昭和46年大坂から移されている。
【写真左】弓櫓
 本丸の西端部には弓櫓があり、現在では石垣の一部が残る。


【写真左】弓櫓から西の二の丸へ向かう。
【写真左】西二の丸
【写真左】帳櫓
【写真左】西三の丸・その1
【写真左】西三の丸・その2
【写真左】西三の丸から下に降りて行く。
 なお、下山してから分かったのだが、本丸の東には「東二の丸」が配置されていることをすっかり忘れてしまい。見ることができなかった。
【写真左】8620形式蒸気機関車
 下山した公園内に御覧の蒸気機関車が展示されていた。

 大正12年から昭和44年まで徳島県内を走っていた汽車で、昭和45年に徳島市が国鉄から譲り受けて当地に保存したという。
 因みに徳島城の西隣にはJR四国の徳島駅があり、転車台もある。
【写真左】蜂須賀家政公銅像
 公園内には家政の銅像が建立されている。

 因みに戦前までは父である正勝の銅像が建っていたが、戦時中の金属類回収令に伴い無くなり、昭和40年に改めて今度は息子の家政の銅像が建てられた。
【写真左】数寄屋橋(すきやばし)
 現地の説明板より

❝数寄屋橋
 徳島城の鬼門(北東)に当たる門が、旗櫓の下にあった数寄屋門です。別名「不明門」とも呼ばれたように、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。

 その数寄屋門の東側、堀に架け渡されて橋が数寄屋橋です。
 長さ五間=約9.75m、幅一間=約1.95mの太鼓橋でした。現在は、木製の橋が架けられており、往時をしのばせるものとなっています。”

【写真左】城山の海蝕痕
 岩肌に大小の円形の窪みが海蝕痕(かいしょくこん)といわれるもので、縄文時代前期(6,000~5,000年前ごろ)に海水が内陸まで入り込んだいわゆる「海進」の跡。

【写真左】城山の貝塚
 徳島城を支えるこの岩山には4,000~2,300年前の縄文時代後期・晩期の岩蔭・洞窟遺跡があり、その貝塚が3か所存在している。

 ハマグリ・カキ・ハイガイなどの貝層が見られ、そのほか土器片、さらには完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土している。
 これは大正11年(1922)鳥居龍蔵博士らによる発掘調査で判明している。当時この周辺は豊富な魚介類がたくさんとれたのだろう。
【写真左】中央公園
 徳島城の東麓から南麓にかけて広がる園で、この中には徳島城博物館・御殿庭園・お花見広場などの施設がある。
 写真の奥には東二の丸がある。


◎関連投稿

2020年7月22日水曜日

平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)

平島館(ひらしまやかた)

●所在地 徳島県阿南市那賀川町古津字居
●別名 阿波公方館、平島塁
●築城期 天文3年(1534)
●築城者 足利義維
●城主 足利氏(義冬・義助・義種)、平島氏(義次、義景、平島義辰、義武、義宜、義根)
●遺構 土塁
●備考 阿波公方・民俗資料館
●登城日 2017年3月4日

◆解説
 徳島県を流れる大河として有名なのは吉野川だが、県内区域内でもっとも幹川流路延長が長いのは剣山を源流とする那賀川である。この那賀川沿いに築城された山城としてこれまで紹介したのは、上流部の仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)、そして中流域では上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)があった。
 今稿で紹介するのは、下流域に築かれた館跡とされる阿波・平島館、別名阿波公方館である。
【写真左】平島館
 平島館の所在地である古津という地名からも分かるように、足利義冬が当地に移ったころ(天文年間)、このあたりは多くの中洲状の島が点在していた。

 古津には古津湊があり、その北方の中洲には手島、今津浦、色ヶ島などがあり、さらに北の江野島などに多くの船が往来していた。従って、当時の平島館は海城形態の城館だったことが推測される。
 写真は平島館に残る土塁の一部

現地の説明板より

”阿波(平島)公方

 戦国時代の動乱の中、将軍継承争いに敗れた足利義冬は、阿波の守護細川氏に迎えられ、天文3年(1534)那賀川河口の平島庄(ひらしましょう)に移り住んだ。これが阿波(平島)公方の始まりである。

 平島庄は足利家ゆかりの天龍寺領であった。義冬は上洛の機会をうかがいながらも、病に倒れてしまったが、その子足利義栄(よしひで)がついに上洛を果たし、永禄10年(1568)に征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。しかし、将軍職も織田信長の登場によって、わずかな期間で失い、まもなく阿波の撫養の地で病死した。
【写真左】平島館遠望
 阿波公方民俗資料館がすぐ近くにあり、そこから歩いておよそ100mほど向かった田圃の中に見える。



 江戸時代になると、歴代阿波公方は徳島藩主蜂須賀家の政策により、公方の権威を引き下げられ、圧迫した生活を余儀なくされた。その中にあって、9代公方義根(よしもと)は、漢文学に優れた才能をあらわし、「棲龍閣(せいりゅうかく)詩集」に多くの秀作を残している。

 しかし、公方に対する蜂須賀家の圧迫は一段と厳しくなり、ついに文化2年(1805)に阿波国を退去するに至った。那賀川赤池の西光寺には室町幕府10代、14代将軍をはじめ、歴代阿波公方の墓石を残し、民間に幾多の伝承を伝え、往年の面影をしのばせている。”
【左図】阿波公方系図
 民俗資料館の展示ブースに掲示されていたものを管理人によって少し加工したもの。

 文字が小さいため分かりずらいが、義冬を初代とし、以下赤字で示したものが阿波公方の系譜となる。









阿波公方

 大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、室町幕府10代将軍は大内義興の支援を受けて足利義稙がその座に着いた。しかし、その後義稙は、管領細川高国の専横が激しくなると対立、大永元年(1521)細川晴元・持隆を頼り京都を出奔、阿波国撫養にたどり着いた。その後当地で病没することになる。
【写真左】足利義稙像
 室町幕府第10代将軍。
民俗資料館に展示されている義稙の像。
寛正5年(1464)誕生。父は8代将軍義政の弟・義視で、母は日野富子の妹である。従って、足利家の兄弟と、日野家の姉妹同士がそれぞれ縁組していることになる。

 結果的に彼は延徳2年(1490)に第10代将軍となり、一旦退いたものの、永正5年(1508)再び将軍に復帰し、細川高国と対立するまで約13年間その座に就いたことになる。大永3年(1523)58歳で死去。



 義稙の養子・義冬(別名:義維(よしつな))は、永禄年間那賀郡平島庄・西光寺に入り古津の平島館を修築してここに移り、父に代わって将軍になるべくこの阿波から天下を窺った。のちに阿波公方の初代となるのがこの義冬である。
【写真左】平島館
 義冬は当初古津の平島塁(現資料館)を改築して公方館とし、およそ南北110m×東西110mの方形屋敷を構え、周囲には堀を巡らし、那賀川支流の苅屋川から水を引き入れた。
 義冬の住む居館や重臣の住宅もこの中に数棟建てた。意匠的には京の公家屋敷と武家屋敷が混在する景観だったという。



 ところで、義冬を阿波平島庄に斡旋したのは、前述したように細川持隆(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)だが、このとき、当庄と併せ近隣の吉井・楠根・仁宇・鷲敷を宛がわれた。

 いずれも那賀川沿いに集積する地域で、吉井・楠根は仁木氏の居城・上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)に隣接するところで、仁宇・鷲敷は当川をさらに遡った那賀郡那賀町内で、仁宇城でも紹介したように、細川氏所縁の地である。これらを併せて三千貫だったが、義冬に随従した家臣がそれぞれの家族を合わせておよそ360人前後だったため、この貫高ではとても満たせず、幾人かを本国に帰国させている。
【写真左】阿波公方民俗資料館
 平島館の土塁の西側には阿波公方関係の史料が展示されている阿波公方民俗資料館がある。



 上大野城の稿でも述べたように、義冬は三好三人衆らの支援を受け息子の義栄を第14代室町幕府将軍にさせたが、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢力に圧され、しかもその最中に義栄が病死したため、再度阿波に引き上げた。
【写真左】足利義冬像
阿波公方初代。
 上述したように、義稙に子供がなく、11代将軍義澄の子・亀王君が義稙の養子となり、後に義冬を名乗る。

 母は阿波守護・細川成之の娘(清雲院)で、義冬は後に周防大内義興の娘を妻としている。
 阿波公方となる前は、和泉国堺において異母兄である将軍足利義晴と対峙し、自ら幕府の体制を敷き、堺公方とも呼ばれた。



 阿波公方はそれでも一縷の望みを持ち続け、義冬の弟義助は当地平島館にあって、上洛の機会を窺うべく、支援者であった阿波細川氏などに期待を寄せていたが、細川氏の滅亡さらに、三好一族は土佐の長宗我部氏の阿波侵攻により滅び、上洛の方途は閉ざされることになる。
【写真左】足利義栄像
 室町幕府第14代将軍。
 天文7年(1538)義冬の長男として平島で誕生。永禄9年(1566)父義冬に代わって京都に上り、従五位に叙せられ左馬頭に任ぜられる。

 2年後の永禄11年(1568)2月に征夷大将軍に任ぜられ名前を義親から義栄と改める。
 同年9月、足利義昭を奉じて京に攻め上った織田信長に攻められ、阿波に奔走。10月撫養で病没。享年31。



 その後、義稙、義次、義景、義辰、義武、義宜、義智と阿波公方の系譜は続いたが、9代義根に至って徳島藩主・蜂須賀家により阿波国退去を命ぜられ、約250年続いた阿波公方・平島館はここに歴史の幕を閉じた。


蜂須賀氏

 ところで、江戸期における阿波国の藩主は蜂須賀家であるが、それ以前の天正13年(1585)に当時秀吉の家臣であった蜂須賀家政が最初に当国に入っている。家政の父は正勝である。当初秀吉は四国攻めなどで武功を挙げた正勝に阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを選んだため、秀吉はその子家政に阿波国を与えたという。
【写真左】徳島城
 徳島城の前身は室町初期に細川頼之が築いた渭水城(いすいじょう)ともいわれ、後に家政が修築して徳島城とした。





 家政が最初に入城したのは一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)で、その後徳島城を築城することになる。
 関ヶ原の戦いでは東軍方に属した形になり、淡路国も加増され25万石余の大名となった。
【写真左】蜂須賀家政像
 この像は徳島城内に建立されている。家政は跡を継いだ嫡男・至鎮が夭折したため、孫の忠秀の後見をすることになり、結局寛永6年(1629)まで徳島藩の政務を取り仕切った。その後寛永15年に81歳で亡くなる。

 晩年の寛永元年(1624)、平島公方家に館の修理資材などを下賜しているので、当時家政としては阿波公方に対しそれなりに敬意を払っていたのだろう。


 阿波公方が途中から足利から平島姓を名乗るようになったのは、義次の代(4代)からであって、命じたのは蜂須賀家政である。もっとも阿波公方側では公式には平島姓を名乗っていたものの、一族自身では足利姓を自認し代々名乗っていた。


西光寺

 説明板にもあるように、平島館からJR牟岐線を東に向かった阿波中島駅の南には、西光寺という寺院があるが、ここには平島公方墓所として一族の墓が祀られている。
【写真左】西光寺
所在地:徳島県阿南市那賀川町赤池185番地
 山号 己心山
 宗派 真言宗大覚寺派
 本尊 薬師如来



現地の説明板より

❝平島公方墓所
 平島公方一族の墓は義稙・義冬・義栄の3基を含め、この墓所内に23基を数えることができる。しかし、昭和17年の西光寺の火災のため国宝の阿弥陀如来をはじめ、貴重な古文書を焼失し、さらに過去帳も廃燼に帰したため、公方の墓についても調査は困難を極め、現在判明しているのは案内標柱のある14基のみである。
【写真左】足利義稙の墓
 中央のものが義稙の墓である。









 なお、8代平島公方義宜の時代に、京都の名儒島津崋山(1737~94、那賀川町熊氏須賀墓地に墓あり)を招いて、子弟を教育し、9代公方義根の時代には阿波国南方地域における漢文学の中心地の観を呈していたが、その当時平島館に出入りしていた数多くの文人のうち、医者であり儒学者でもあった高橋赤水(1769~1848)の墓も当墓地内にあり、その壁面には江戸末期の大書家貫名菘翁による書が刻まれている。
   阿南市教育委員会”
【写真左】足利義冬の墓
 義稙の右側に義冬の墓が隣接している。
【写真左】2代公方 義助の墓
左側に義助の墓があり、その右に義冬室(大内義興の女)、さらに右には義冬の母の墓がある。
なお、写真には入っていないが、義助の墓の左には義助の室で、周防柳沢氏の女の墓がある。
【写真左】5代義景の弟・義国の墓
 墓の形式から見ると、晩年は出家したようだ。
【写真左】7代義武の墓
 写真の右側にあるのが、7代義武で、その左に弟・義人の墓がある。
 また、奥には8代義宜の長子・義智の墓がある。


【写真左】石川政子の墓
 彼女は阿波公方8代の義宜の室。
【写真左】義人の子・義智室琴和の墓
 義人は7代義武の弟で、その娘が琴和である。彼女は、8代義宜の長子・義智に嫁いでいる。系図から見ると、琴和が年上妻になるかもしれない。
【写真左】墓所全景
 このほか阿波公方関係の墓を記したものが数基あるが、省略させていただく。





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