池田・大西城(いけだ・おおにしじょう)
●所在地 徳島県三好市池田町上野
●築城期 承久の乱(1221年)後
●築城者 小笠原長清・長経
●廃城 寛永15年(1638)
●遺構 石垣
●備考 阿波九城の一つ
●指定 池田大西城城郭並木《天然記念物》
●高さ 標高およそ130m
●規模 およそ東西300~400m×南北200m
●登城日 2013年11月16日
◆解説
今稿は再び阿波小笠原氏関連の史跡として、三好市池田町にある大西城を取り上げる。
現在池田・大西城跡には甲子園で有名になった県立池田高校や、中学校、幼稚園、そして小学校などが建ち並び、ほとんど当時の遺構は消滅しているが、唯一江戸初期まであった当城の石垣が残る。
【写真左】池田・大西城の石垣
幼稚園の建物の一角に残るもので、おそらく蜂須賀氏時代のものだろう。
現在の石垣は幼稚園の建築施工時に解体され、その後積まれたものだろう。
現地の説明板より・その1
“三好市指定文化財《天然記念物》
池田大西城城郭並木
昭和46年11月15日指定
池田大西城城郭並木は、池田町のウエノの上野台地にあり、御嶽神社から池田小学校体育館前にかけての約70メートルの間の道路南側にある。
ムク、エノキ、カシ等の大木が立派な並木を形成しており、城の名残を留め、昔を偲ばせるものである。樹齢については定かではないが、阿波九城の頃に植えられたものと考えられ、約400年前と推定されている。
【写真左】城郭並木
道路を挟んで左側に池田高校・中学校・小学校などが並ぶ。
学校のさらに左(北側)は傾斜となって国道32号線が吉野川に沿って走る。
写真の右側はかなり深い谷を形成し、池田の街並みが広がる。
池田大西城(池田城のこと)は、承久の乱の後、阿波の守護となった小笠原氏によって承久3年(1221)に築かれたものである。
小笠原氏が勝瑞(現在の板野郡藍住町)に移ってからは、白地大西氏の支配下にあり、蜂須賀氏の入国後、秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀氏が藩政時代に阿波九城の一つとして修築を行った。
現在もこの付近に昔、城があったことを証拠づける城の石垣の一部が当時のまま残されている。
約400年間にわたって、池田大西城と共に阿波の都として栄えた池田の歴史を今に伝える貴重な城郭並木として、昭和46年11月に文化財指定された。
三好市教育委員会”
【写真左】池田・大西城(ウエノ丘陵)の南側
ご覧のように天険の切崖状となってる。
この直下付近が「池田断層」で、当時は湿地帯であった部分を濠として普請したものと思われる。
現地の説明板より・その2
“池田大西城跡
池田大西城は承久3年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永15年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。
この石垣の積み方は野づら積みといわれるもので、昭和54年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。
池田町教育委員会”
池田断層(四国中央構造線)
ところで、山城の話題からそれるが、吉野川が高知県側から北上し、この池田付近で大きく東に曲がる個所から東西に延びるラインは、活断層の一つである「池田断層」とほぼ重なる。
【写真左】池田断層・その1
東端部から東方を見たもので、手前が池田・大西城の東端部で現在諏訪神社があるところ。
池田断層はこの位置から概ね吉野川北岸を並行して東に延びる。
そして、国土地理院の地図でこの付近の活断層図を見てみると、当城のある池田ウエノの丘陵地、すなわち、西端の丸山公園(H:206m)から、東端部の諏訪神社までの南斜面(東西約1.5キロ)は、この池田断層と重なり、深い谷を形成していた。
また、反対側の北岸は、北を流れる吉野川の浸食作用によって、同じく抉り取られた地勢となっている。
このため、現在のような池田町市街地の景観とは少し趣が異なり、承久年間のころ築かれたころの池田城は、南北とも切り立った天険の要害をなし、南西麓の池田総合体育館付近(丸山神社南)から細長い扇状地をつくり出し、吉野川へと向かっていたものと考えられる。
【写真左】池田断層・その2
池田・大西城から南側の池田の街並みをみたもので、おそらく左側にみえる橋の下あたりが四国中央構造線(池田断層)と思われる。
このため、その場所はおそらく船溜まりとして、あるいは上流部から運んできた材木の集積地としての役目がその当時からあったものと推察される。
小笠原長清・長経
現地の説明板では、池田・大西城を築城したのは小笠原長清といわれている。阿波小笠原氏の始祖でもあった長清については、これまで阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1で既に述べたとおりである。
【写真左】池田・大西城遠望
東側から見たもので、国道32号線の中央トンネルが、当城の東端部から掘削されている。
トンネルの上は、現在諏訪神社が祀られている。
ただ、築城者としては長清の名が公式な記録としてあったとはいえ、長期にわたってこの池田・大西城に在城していたかどうかは不明である。
むしろ、長清の嫡男・長経が貞応2年(1223)父の跡を継いで阿波守護となっているので、当城が築城されたのはほとんど長経の手によるものだろう。
【写真左】諏訪神社・その1
阿波小笠原氏が当地に下向する前にいた信濃小笠原氏の本拠地は、深志という所であったとされる。
現在の松本市内に当たるが、当然当社は地元信濃の諏訪神社から勧請されたものだろう。
ところで、長清の生誕年は諸説あるものの、応保2年(1162)とされている。したがって、長経に阿波守護として家督を譲ったころ(貞応2年)は、61歳前後で当時としては長寿であるが、さらに20年近くも生き、仁治3年(1242)、すなわち80歳まで生き続けている。晩年はどうやら京にあったらしく、この年(仁治3年)東山の館で没した。
その後、長経があとを継ぐが、長経に嗣子が居なかったのか、宝治元年(1247)に亡くなると、弟の長房が跡を継ぎ、建治2年(1276)まで活躍することになる。
丁度この頃から元・高麗軍の来襲が顕著になってきたころで、長房の子と思われる長種・長景らも西国武士として鎮西武士と共に戦ったものと思われる。なお、長房の孫と思われる重清城築城者で、のちに石見小笠原氏となった長親は、石見の益田兼時の傘下として石見の防備に当たることになる。
【写真左】諏訪神社・その2
現在当地は「諏訪公園」として市民の憩いの場となっている。
このため、当時あったと思われる郭などの遺構は殆ど消滅しているが、このあたりは軍船または交易用の船着場を管理・警固する役目を持った施設などがあったものと思われる。
白地大西氏
さて、池田大西城は、その後小笠原氏が吉野川からさらに下流部に移住していくと、白地大西氏が当城を支配していったとある。
この白地大西氏は、次稿の「白地城」で紹介する予定にしているが、池田・大西城から西の吉野川を挟んだ対岸に築かれた白地・大西城の築城者で、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも紹介したように、元は西園寺荘園田井之庄の荘官近藤京帝がその始祖といわれている。京帝は荘官時代、すなわち久安年間(1150)ごろにこの地に館を構え、のち近藤氏から大西氏と改称している。
【写真左】白地城跡から、池田・大西城方面を見る。
右側の山を越えたところに池田・大西城が控える。
手前の川は吉野川で、このあたりで大きく東側に蛇行し池田町方面に流れる。
中央に見える橋は、徳島自動車道の「池田へそっ湖大橋」。
従って、池田・大西城より白地城のほうが約70年ほど先に築城されていることになる。
このことから、阿波小笠原氏が当地に下向した際、近藤氏(大西氏)と何らかの関わりがあり、入国の際近藤氏による支援があったと考えられる。
◎関連投稿
白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)
白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)
●所在地 徳島県三好市池田町上野
●築城期 承久の乱(1221年)後
●築城者 小笠原長清・長経
●廃城 寛永15年(1638)
●遺構 石垣
●備考 阿波九城の一つ
●指定 池田大西城城郭並木《天然記念物》
●高さ 標高およそ130m
●規模 およそ東西300~400m×南北200m
●登城日 2013年11月16日
◆解説
今稿は再び阿波小笠原氏関連の史跡として、三好市池田町にある大西城を取り上げる。
現在池田・大西城跡には甲子園で有名になった県立池田高校や、中学校、幼稚園、そして小学校などが建ち並び、ほとんど当時の遺構は消滅しているが、唯一江戸初期まであった当城の石垣が残る。
【写真左】池田・大西城の石垣
幼稚園の建物の一角に残るもので、おそらく蜂須賀氏時代のものだろう。
現在の石垣は幼稚園の建築施工時に解体され、その後積まれたものだろう。
現地の説明板より・その1
“三好市指定文化財《天然記念物》
池田大西城城郭並木
昭和46年11月15日指定
池田大西城城郭並木は、池田町のウエノの上野台地にあり、御嶽神社から池田小学校体育館前にかけての約70メートルの間の道路南側にある。
ムク、エノキ、カシ等の大木が立派な並木を形成しており、城の名残を留め、昔を偲ばせるものである。樹齢については定かではないが、阿波九城の頃に植えられたものと考えられ、約400年前と推定されている。
【写真左】城郭並木
道路を挟んで左側に池田高校・中学校・小学校などが並ぶ。
学校のさらに左(北側)は傾斜となって国道32号線が吉野川に沿って走る。
写真の右側はかなり深い谷を形成し、池田の街並みが広がる。
池田大西城(池田城のこと)は、承久の乱の後、阿波の守護となった小笠原氏によって承久3年(1221)に築かれたものである。
小笠原氏が勝瑞(現在の板野郡藍住町)に移ってからは、白地大西氏の支配下にあり、蜂須賀氏の入国後、秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀氏が藩政時代に阿波九城の一つとして修築を行った。
現在もこの付近に昔、城があったことを証拠づける城の石垣の一部が当時のまま残されている。
約400年間にわたって、池田大西城と共に阿波の都として栄えた池田の歴史を今に伝える貴重な城郭並木として、昭和46年11月に文化財指定された。
三好市教育委員会”
【写真左】池田・大西城(ウエノ丘陵)の南側
ご覧のように天険の切崖状となってる。
この直下付近が「池田断層」で、当時は湿地帯であった部分を濠として普請したものと思われる。
現地の説明板より・その2
“池田大西城跡
池田大西城は承久3年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永15年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。
この石垣の積み方は野づら積みといわれるもので、昭和54年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。
池田町教育委員会”
池田断層(四国中央構造線)
ところで、山城の話題からそれるが、吉野川が高知県側から北上し、この池田付近で大きく東に曲がる個所から東西に延びるラインは、活断層の一つである「池田断層」とほぼ重なる。
【写真左】池田断層・その1
東端部から東方を見たもので、手前が池田・大西城の東端部で現在諏訪神社があるところ。
池田断層はこの位置から概ね吉野川北岸を並行して東に延びる。
そして、国土地理院の地図でこの付近の活断層図を見てみると、当城のある池田ウエノの丘陵地、すなわち、西端の丸山公園(H:206m)から、東端部の諏訪神社までの南斜面(東西約1.5キロ)は、この池田断層と重なり、深い谷を形成していた。
また、反対側の北岸は、北を流れる吉野川の浸食作用によって、同じく抉り取られた地勢となっている。
このため、現在のような池田町市街地の景観とは少し趣が異なり、承久年間のころ築かれたころの池田城は、南北とも切り立った天険の要害をなし、南西麓の池田総合体育館付近(丸山神社南)から細長い扇状地をつくり出し、吉野川へと向かっていたものと考えられる。
【写真左】池田断層・その2
池田・大西城から南側の池田の街並みをみたもので、おそらく左側にみえる橋の下あたりが四国中央構造線(池田断層)と思われる。
このため、その場所はおそらく船溜まりとして、あるいは上流部から運んできた材木の集積地としての役目がその当時からあったものと推察される。
ちなみに管理人の知る限り、こうした活断層帯直下に築かれた山城としては、当城以外では以前紹介した長野県の高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠がある。
小笠原長清・長経
現地の説明板では、池田・大西城を築城したのは小笠原長清といわれている。阿波小笠原氏の始祖でもあった長清については、これまで阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1で既に述べたとおりである。
【写真左】池田・大西城遠望
東側から見たもので、国道32号線の中央トンネルが、当城の東端部から掘削されている。
トンネルの上は、現在諏訪神社が祀られている。
ただ、築城者としては長清の名が公式な記録としてあったとはいえ、長期にわたってこの池田・大西城に在城していたかどうかは不明である。
むしろ、長清の嫡男・長経が貞応2年(1223)父の跡を継いで阿波守護となっているので、当城が築城されたのはほとんど長経の手によるものだろう。
【写真左】諏訪神社・その1
阿波小笠原氏が当地に下向する前にいた信濃小笠原氏の本拠地は、深志という所であったとされる。
現在の松本市内に当たるが、当然当社は地元信濃の諏訪神社から勧請されたものだろう。
ところで、長清の生誕年は諸説あるものの、応保2年(1162)とされている。したがって、長経に阿波守護として家督を譲ったころ(貞応2年)は、61歳前後で当時としては長寿であるが、さらに20年近くも生き、仁治3年(1242)、すなわち80歳まで生き続けている。晩年はどうやら京にあったらしく、この年(仁治3年)東山の館で没した。
その後、長経があとを継ぐが、長経に嗣子が居なかったのか、宝治元年(1247)に亡くなると、弟の長房が跡を継ぎ、建治2年(1276)まで活躍することになる。
丁度この頃から元・高麗軍の来襲が顕著になってきたころで、長房の子と思われる長種・長景らも西国武士として鎮西武士と共に戦ったものと思われる。なお、長房の孫と思われる重清城築城者で、のちに石見小笠原氏となった長親は、石見の益田兼時の傘下として石見の防備に当たることになる。
【写真左】諏訪神社・その2
現在当地は「諏訪公園」として市民の憩いの場となっている。
このため、当時あったと思われる郭などの遺構は殆ど消滅しているが、このあたりは軍船または交易用の船着場を管理・警固する役目を持った施設などがあったものと思われる。
白地大西氏
さて、池田大西城は、その後小笠原氏が吉野川からさらに下流部に移住していくと、白地大西氏が当城を支配していったとある。
この白地大西氏は、次稿の「白地城」で紹介する予定にしているが、池田・大西城から西の吉野川を挟んだ対岸に築かれた白地・大西城の築城者で、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも紹介したように、元は西園寺荘園田井之庄の荘官近藤京帝がその始祖といわれている。京帝は荘官時代、すなわち久安年間(1150)ごろにこの地に館を構え、のち近藤氏から大西氏と改称している。
右側の山を越えたところに池田・大西城が控える。
手前の川は吉野川で、このあたりで大きく東側に蛇行し池田町方面に流れる。
中央に見える橋は、徳島自動車道の「池田へそっ湖大橋」。
従って、池田・大西城より白地城のほうが約70年ほど先に築城されていることになる。
このことから、阿波小笠原氏が当地に下向した際、近藤氏(大西氏)と何らかの関わりがあり、入国の際近藤氏による支援があったと考えられる。
◎関連投稿
白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)
白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)