2013年11月28日木曜日

池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)

池田・大西城(いけだ・おおにしじょう)

●所在地 徳島県三好市池田町上野
●築城期 承久の乱(1221年)後
●築城者 小笠原長清・長経
●廃城 寛永15年(1638)
●遺構 石垣
●備考 阿波九城の一つ
●指定 池田大西城城郭並木《天然記念物》
●高さ 標高およそ130m
●規模 およそ東西300~400m×南北200m
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 今稿は再び阿波小笠原氏関連の史跡として、三好市池田町にある大西城を取り上げる。

 現在池田・大西城跡には甲子園で有名になった県立池田高校や、中学校、幼稚園、そして小学校などが建ち並び、ほとんど当時の遺構は消滅しているが、唯一江戸初期まであった当城の石垣が残る。
【写真左】池田・大西城の石垣
 幼稚園の建物の一角に残るもので、おそらく蜂須賀氏時代のものだろう。

 現在の石垣は幼稚園の建築施工時に解体され、その後積まれたものだろう。



現地の説明板より・その1

“三好市指定文化財《天然記念物》

 池田大西城城郭並木
     昭和46年11月15日指定

 池田大西城城郭並木は、池田町のウエノの上野台地にあり、御嶽神社から池田小学校体育館前にかけての約70メートルの間の道路南側にある。
 ムク、エノキ、カシ等の大木が立派な並木を形成しており、城の名残を留め、昔を偲ばせるものである。樹齢については定かではないが、阿波九城の頃に植えられたものと考えられ、約400年前と推定されている。
【写真左】城郭並木
 道路を挟んで左側に池田高校・中学校・小学校などが並ぶ。
 学校のさらに左(北側)は傾斜となって国道32号線が吉野川に沿って走る。
 写真の右側はかなり深い谷を形成し、池田の街並みが広がる。


 池田大西城(池田城のこと)は、承久の乱の後、阿波の守護となった小笠原氏によって承久3年(1221)に築かれたものである。
 小笠原氏が勝瑞(現在の板野郡藍住町)に移ってからは、白地大西氏の支配下にあり、蜂須賀氏の入国後、秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀氏が藩政時代に阿波九城の一つとして修築を行った。
 現在もこの付近に昔、城があったことを証拠づける城の石垣の一部が当時のまま残されている。

 約400年間にわたって、池田大西城と共に阿波の都として栄えた池田の歴史を今に伝える貴重な城郭並木として、昭和46年11月に文化財指定された。

      三好市教育委員会”
【写真左】池田・大西城(ウエノ丘陵)の南側
 ご覧のように天険の切崖状となってる。
 この直下付近が「池田断層」で、当時は湿地帯であった部分を濠として普請したものと思われる。



現地の説明板より・その2

“池田大西城跡

 池田大西城は承久3年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永15年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。

 この石垣の積み方は野づら積みといわれるもので、昭和54年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。
      池田町教育委員会”



池田断層(四国中央構造線)

 ところで、山城の話題からそれるが、吉野川が高知県側から北上し、この池田付近で大きく東に曲がる個所から東西に延びるラインは、活断層の一つである「池田断層」とほぼ重なる。
【写真左】池田断層・その1
 東端部から東方を見たもので、手前が池田・大西城の東端部で現在諏訪神社があるところ。
 池田断層はこの位置から概ね吉野川北岸を並行して東に延びる。


 そして、国土地理院の地図でこの付近の活断層図を見てみると、当城のある池田ウエノの丘陵地、すなわち、西端の丸山公園(H:206m)から、東端部の諏訪神社までの南斜面(東西約1.5キロ)は、この池田断層と重なり、深い谷を形成していた。

 また、反対側の北岸は、北を流れる吉野川の浸食作用によって、同じく抉り取られた地勢となっている。

 このため、現在のような池田町市街地の景観とは少し趣が異なり、承久年間のころ築かれたころの池田城は、南北とも切り立った天険の要害をなし、南西麓の池田総合体育館付近(丸山神社南)から細長い扇状地をつくり出し、吉野川へと向かっていたものと考えられる。
【写真左】池田断層・その2
 池田・大西城から南側の池田の街並みをみたもので、おそらく左側にみえる橋の下あたりが四国中央構造線(池田断層)と思われる。



 このため、その場所はおそらく船溜まりとして、あるいは上流部から運んできた材木の集積地としての役目がその当時からあったものと推察される。


 ちなみに管理人の知る限り、こうした活断層帯直下に築かれた山城としては、当城以外では以前紹介した長野県の高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠がある。



小笠原長清・長経

 現地の説明板では、池田・大西城を築城したのは小笠原長清といわれている。阿波小笠原氏の始祖でもあった長清については、これまで阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1で既に述べたとおりである。
【写真左】池田・大西城遠望
 東側から見たもので、国道32号線の中央トンネルが、当城の東端部から掘削されている。
 トンネルの上は、現在諏訪神社が祀られている。




 ただ、築城者としては長清の名が公式な記録としてあったとはいえ、長期にわたってこの池田・大西城に在城していたかどうかは不明である。

 むしろ、長清の嫡男・長経が貞応2年(1223)父の跡を継いで阿波守護となっているので、当城が築城されたのはほとんど長経の手によるものだろう。
【写真左】諏訪神社・その1
 阿波小笠原氏が当地に下向する前にいた信濃小笠原氏の本拠地は、深志という所であったとされる。

 現在の松本市内に当たるが、当然当社は地元信濃の諏訪神社から勧請されたものだろう。

 
 ところで、長清の生誕年は諸説あるものの、応保2年(1162)とされている。したがって、長経に阿波守護として家督を譲ったころ(貞応2年)は、61歳前後で当時としては長寿であるが、さらに20年近くも生き、仁治3年(1242)、すなわち80歳まで生き続けている。晩年はどうやら京にあったらしく、この年(仁治3年)東山の館で没した。

 その後、長経があとを継ぐが、長経に嗣子が居なかったのか、宝治元年(1247)に亡くなると、弟の長房が跡を継ぎ、建治2年(1276)まで活躍することになる。

 丁度この頃から元・高麗軍の来襲が顕著になってきたころで、長房の子と思われる長種・長景らも西国武士として鎮西武士と共に戦ったものと思われる。なお、長房の孫と思われる重清城築城者で、のちに石見小笠原氏となった長親は、石見の益田兼時の傘下として石見の防備に当たることになる。
【写真左】諏訪神社・その2
 現在当地は「諏訪公園」として市民の憩いの場となっている。

 このため、当時あったと思われる郭などの遺構は殆ど消滅しているが、このあたりは軍船または交易用の船着場を管理・警固する役目を持った施設などがあったものと思われる。



白地大西氏

 さて、池田大西城は、その後小笠原氏が吉野川からさらに下流部に移住していくと、白地大西氏が当城を支配していったとある。

 この白地大西氏は、次稿の「白地城」で紹介する予定にしているが、池田・大西城から西の吉野川を挟んだ対岸に築かれた白地・大西城の築城者で、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも紹介したように、元は西園寺荘園田井之庄の荘官近藤京帝がその始祖といわれている。京帝は荘官時代、すなわち久安年間(1150)ごろにこの地に館を構え、のち近藤氏から大西氏と改称している。
【写真左】白地城跡から、池田・大西城方面を見る。
 右側の山を越えたところに池田・大西城が控える。
 手前の川は吉野川で、このあたりで大きく東側に蛇行し池田町方面に流れる。
 中央に見える橋は、徳島自動車道の「池田へそっ湖大橋」。


 従って、池田・大西城より白地城のほうが約70年ほど先に築城されていることになる。
 
 このことから、阿波小笠原氏が当地に下向した際、近藤氏(大西氏)と何らかの関わりがあり、入国の際近藤氏による支援があったと考えられる。

◎関連投稿
白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)
白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)

2013年11月25日月曜日

細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)

細川頼春(ほそかわよりはるのはか)

●所在地 徳島県鳴門市大麻町萩原
●備考 光勝院
●参拝日 2013年11月17日

◆解説
 今稿も墓所関連の史跡を紹介したいと思う。

 細川頼春墓所の所在地は、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)で紹介した同町萩原にあって、光勝院という寺院に建立されている。
【写真左】細川頼春の墓・その1













現地の説明板より

“細川頼春の墓

 細川頼春(1299~1352)は、南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国しました。

 阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護になりました。

 正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死し、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬ったといわれています。”
【写真左】光勝院
 頼春の墓はこの光勝院という寺院に建立されている。

 県道12号線(撫養街道)から北に向かって細い道があり、それを進むと当院がある。県道12号線の脇に小さな当院の看板が立てられている。ただ、車で走っていると見過ごしそうになる目立たない看板だ。




 細川頼春については、先月投稿した阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)や、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)で度々紹介してきているのでご覧いただきたいが、南北朝期に台頭した細川氏のいわば礎を築いた武将の1人といえる。

 細川氏はもともと足利氏の系譜に繋がる。鎌倉中期に足利氏に従い、三河に本拠を得て、ひとかどの所領を持った。そして南北朝動乱期に至って、尊氏に従い、各地に転戦し、これまで述べてきたように四国から瀬戸内・山陽方面に勢力を拡大していった。

【写真左】細川頼春の墓・その2
 光勝院の西側から北に向かって進むと、檀家墓地があるが、頼春の墓はその手前の左側に建立されている。

 木立に囲まれひっそりと佇む。
【写真左】説明板
 めずらしく英文入りのものである。











 このころ頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせる。しかし、説明板にもあるように、文和元年・正平7年(1352)、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦い、討死した。
 同じ年、一時は足利直義につき、その後尊氏に寝返った従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族は潰えたかの状況になった。
【写真左】細川頼春の墓・その3













 しかし、以前にも述べたように、頼春の子・頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)がのちに細川氏を再興させ、二代将軍義詮の死後から三代将軍となる足利義満の養育期ごろまでのおよそ12年間は、事実上将軍の代行として政界に君臨することになる。
【写真左】細川頼春の墓・その4
 左側面には、
 「清和天皇十六代后胤細川刑部大輔讃岐守源朝臣頼春
 と刻銘されている。

 時代的にいえば、墓石は五輪塔か若しくは宝篋印塔の形式のものが普通だが、これは近代に再建されたものかもしれない。

 もっとも、その脇には宝篋印塔1基(下段の写真)があるが、これもさほど古くないように思える。
【写真左】宝篋印塔
 殉死した家臣のものだろうか。

















◎関連投稿
白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)

2013年11月24日日曜日

伝・土御門の墓(島根県松江市宍道町東来待浜西)

伝・土御門の墓(でん・つちみかどのはか)

●所在地 島根県松江市宍道町東来海浜西
●探訪日 2008年1月21日
●備考 俗称「王さんの墓」


◆解説(参考文献 サイト「島根県遺跡データベース」等)
  前稿に続いて土御門の墓をとりあげるが、今稿は出雲国に建立されているもので、通称「王さんの墓」と呼ばれているものを紹介したい。
【写真左】伝・土御門の墓 遠望
 場所は、JR山陰線来待駅から約500m程度南西に向かった位置で、宍道湖に注ぐ来待川(きまちがわ)の東の広い田圃の一角にある。

 現地にはなにも標記されたものはないが、現在のようにブロックで囲んだ形にしたのは昭和40年代という。



土御門の墓

 ところで、土御門の陵墓といわれているのは、京都府長岡京市金ケ原にある金原陵(みささぎ)とされている。

 なぜ、御門の墓が出雲の地に残っているという伝承が生まれたのだろうか。承久の乱において倒幕に失敗した後鳥羽上皇は、出雲国から北の日本海に浮かぶ隠岐島に、順徳上皇は佐渡にそれぞれ配流された。承久3年(1221)8月5日のことである(『吾妻鏡』)。
【写真左】五輪塔と宝篋印塔・その1
 複数の墓石がこの中にあり、このうち宝篋印塔の形をしたものが親王のものと思われるが、どれもかなり劣化していて、刻銘された文字もはっきりしない。



 土御門の配流については実は御門自身が希望したものとされている。実際、この乱に具体的な関与は全くしていなかったため、幕府も当初何の処罰も考えていなかった。しかし、御門は父や弟が配流され、自分だけが都にいることを潔しとせず、自ら配流を申し出た。

 最初の配流先が土佐国で、その後土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)で紹介したように阿波鳴門に移っている。
【写真左】五輪塔と宝篋印塔・その2
 中小の五輪塔などはおそらく随従してきた者たちで、生前は親王の身の回りの世話などをしていたものだろう。

 そして、親王が崩御の際、全員が殉死したと考えられる。




 では、出雲に残る「土御門の墓」は誰のものだろうか。サイト・島根県遺跡データベースでは、「伝土御門親王墓」と登録されている。

 伝承ながら「土御門」という名が残っていることを考慮すれば、やはり御門の血を引く者しか考えられない。となれば、御門の子息、すなわち親王となるだろう。

 御門の子女のうち、親王(男子)は記録されているところでは、後の第88代天皇となる後嵯峨天皇をはじめ、12人いたとされる。おそらくこれらの中から誰かが、御門の命を受け、出雲に向かったのではないかと思われる。そして、隠岐に流された祖父の還幸を願いつつ、日本海を隔てた出雲の地において、ひたすら待ち続けたのではないだろうか。
【写真左】同上
 現在この周辺部は土地改良によって整地されているが、中世にはこの辺りも宍道湖の畔だったと思われる。
 来待川がもたらした堆積によって、おそらく度々墓石が埋まり、その都度整備してきたものと思われる。
 
 宍道湖南岸部からは、祖父・後鳥羽上皇の配流先である隠岐の島は全く見えない。夕日に染まる美しい宍道湖は、親王にとってどのように見えたのだろうか。


 しかし、その願いは叶わず、父・土御門は阿波に消え、祖父・後鳥羽上皇(法皇)は、配流されてから18年後の延応元年(1239)2月22日、当地隠岐刈田郷の行在所にて崩御。待ち続けた親王もそれからほどなくして、この打ち寄せる宍道湖畔に骨を埋めたのではないだろうか。


弘長寺との関係

 ところで、伝・土御門の墓のある場所から、歩いて1キロほど東方(玉造温泉側)向かったところに、以前紹介した弘長寺(こうちょうじ)がある。
【写真左】弘長寺・その1
 












 改めて当院の縁起を示す。

“金寶山弘長禅寺総廟戒名由来碑

●開基 弘長寺院院殿満資道圓大居士

 鎌倉時代・承久の乱(1221)後、関東武蔵の国から来海(来待)荘へ入部し当寺を建立した地頭「藤原満資公」の戒名。
【写真左】北条氏の紋






 主君である北条重時・時頼の菩提を弔う為、弘長3年(1263)に当寺を建立。従って寺紋の「丸に三鱗」は北条氏の紋である。

●開闢開山 實庵見貞大和尚
  弘長3年 創建時の御開山

●開山  天麟星壺大和尚
  尼子氏菩提寺「曹洞宗洞光寺」二世様
  17世紀末「松江洞光寺」の末寺となった際、当山の御開山として勧請した。

         由来碑喜捨   弘長寺護持会”
【写真左】弘長寺・その2













 上掲した当院由来にもあるように、藤原(成田)満資が当地(来待荘)へ入部したのは承久の乱後である。繰り返しになるが、吾妻鏡にもあるように、後鳥羽上皇が隠岐に配流されたのはこの年の8月5日とされ、土御門はその年の閏10月10日とされている。

 一方藤原満資の主君であった北条重時は、承久元年(1219)に小侍所別当に就任し、その後元仁元年(1224)6月には、重時の異母兄に当たる北条泰時が、義時の跡をうけて第3代執権となっている。

 こうした経緯を考慮すると、おそらく土御門の親王(俗称:王さん)は、地頭・藤原(成田)満資の監視をうけつつも、同じ場所若しくは、近接の場所で暮らしていたのではないだろうか。そして親王が没した際は、さすがに六波羅からの目もあって、弘長寺から少し距離を置いた、1キロ西方の来待川河畔に埋葬されたのではないだろうか。

土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)

土御門天皇火葬塚(つちみかどてんのうかそうづか)

●所在地 徳島県鳴門市大朝町池谷
●探訪日 2013年11月17日


◆解説

 阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1でも少し紹介したように、今稿は山城とは少し逸れるが、承久の乱後、土佐から阿波国へ配流された後鳥羽上皇の第一皇子・土御門が荼毘に付された火葬塚を取り上げたい。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その1
 JR四国の高徳線と鳴門線が合流する池谷駅の北東500mの位置にあって、入口南側の脇を県道12号線(撫養街道)が走る。




 知られているように、承久の乱の際首謀者とされた後鳥羽上皇は、その年(1221年)隠岐に配流され、18年後の延応元年(1239)2月22日、隠岐刈田郷の行在所で崩御となった。

 この乱に直接関わっていなかった土御門ではあったが、自ら配流を希望し、最期を迎えたのがこの阿波国鳴門の地である。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その2
 火葬塚であるから一般的な天皇陵墓でないものの、宮内庁管轄地とされ、一般人は中には入れない。
 東西50m×南北30m前後の規模




承久の乱

 御門が生まれたのは建久7年(1196年)である。それから3年後の正治元年(1199)、鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなると、頼家が跡を継いだが、専横が甚だしく、頼朝の妻政子が一計を案じ、頼家の子であった一幡(いちまん)と、弟実朝に将軍職を与えようとした。これに頼家は不満を持ち、舅であった比企能員(よしかず)と与同し、対立した。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その3
 当該火葬塚の右側(東側)には、阿波神社が祀られている(下段写真参照)。






 政子は実父・時政と画策し、12歳になった実朝を第3代将軍に担ぎ上げ、時政は執権となった。事実上の鎌倉幕府執権体制の始まりである。

 その後、時政は敵対してしまった頼家を伊豆修善寺で殺害する。これに対し、頼家の子公暁(くぎょう)は、父頼家が謀殺されてから15年後の承久元年(1219)、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の礼を受けた実朝を帰途中に暗殺、ところが、今度はその公暁が報復を受け殺害されてしまった。
 ここに、源氏宗家の嫡流が途絶えることになる。平家の滅亡に比して、源氏(頼朝)が打ち立てた政権は、結果として自滅の形をとったものといえるだろう。

 源氏の正統が途絶えた後、鎌倉幕府は外戚であった北条氏が執権となって幕府権力の頂点に立った。

 さて、後鳥羽天皇は治承4年(1180)に生まれている。鎌倉幕府が不安定な政権となりかけた頃はちょうど二十歳前後で、血気盛んなときである。しかも帝は天皇としては珍しく、文武両道の才があり、武芸にはひときわ秀でていたという。

 こうしたこともあって、朝廷内における幕府寄りの公家であった九条兼実などを排斥し、ついに承久3年(1221)時の執権北条義時追討の院宣を発した。
【写真左】阿波神社・その1 神門
 火葬塚の東側に鳥居があり、そこをくぐってしばらく歩くと、奥に見えてくる。

 土御門を祭神として祭る社で、以前は丸山神社という名であったが、昭和になって阿波神社と改称した。




乱後の処罰

 この乱は結果としてわずか1か月で幕府によって鎮圧された。乱後幕府は後鳥羽天皇を隠岐へ配流し、首謀者の1人とされた次男の順徳上皇は佐渡へ配流した。
 しかし、土御門は直接関与していなかったため、処罰の対象とならなかった。この処置に対し、土御門は父や弟が罰せされ配流されたことに忍びなく、慮ったのだろう、自ら土佐への配流を希望した。その後、土佐から阿波国に移された。
【写真左】阿波神社・その2 拝殿
 伝承によれば、土御門は争い事は好まず、温和で和歌に造詣が深かったという。

 この社殿を含め境内全体が華美でなく、御門の性格がそのまま反映されたような落ち着いた雰囲気が感じられる。



 そして寛喜3年(1231)、当地で崩御した。隠岐にあった後鳥羽上皇はその8年後、没することになる。

 ところで、存命中であった上皇は、この阿波の国の訃報を知ることができたのであろうか。次稿では、そうした観点も含めて出雲国にある土御門にまつわる史跡を紹介したいと思う。

2013年11月22日金曜日

小笠原長親と蟠龍峡(島根県邑智郡美郷町村之郷下畑)

小笠原長親(おがさわらながちか)
      蟠龍峡(ばんりゅうきょう)

●所在地 島根県邑智郡美郷町村之郷1026
●探訪日 2013年11月6日


◆解説(参考文献等、『石見町誌(上巻)』、島根県川本町HP「中世の小笠原氏」等)

 前稿でものべたように、今稿では阿波(徳島県)の重清城を築城した小笠原長親について、とりあげたい。
【写真左】蟠龍峡・その1
 蟠龍峡は、山南城から南に約2キロ弱下ったところにある。

 規模はさほど大きなものではないが、奇岩に囲まれた細い渓流から流れ落ちる水と、周囲の岩肌から自然に生えた樹木の色と相まって、紅葉時期になると美しい景観を醸し出す。




蟠龍峡

 阿波重清城主だった小笠原長親が、その後石見国の山南城へ移ったことは、山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)や、阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)でも紹介したが、その石見の村之郷には蟠龍峡という景勝地がある。

 この場所には、長親の家臣にまつわる伝承が、次のように伝えられている。

現地の説明板より

“蟠龍峡伝説

 元和(1350年)の頃、この村之郷には小笠原長親という領主がいた。その家臣に玄太夫宗利という武士がいた。年若くして大器の才があり、長親は軍師として重用していた。

 足利勢との戦いで、最も功績のあった宗利に長親は、恩賞として側室を与え、宗利はその女性を本妻とした。
 ところが数年後、本妻は疫病にかかり、生まれもつかないほどの醜い顔になってしまった。その頃、宗利の小間使いに美しい女性がいた。宗利はその美しい小間使いに心が動き、次第に本妻を疎んじるようになった。本妻はこのことを嘆き、哀しみはしだいに恨みと化し、機を見てこの小間使いを亡き者にせんと思うようになった。
【写真左】蟠龍峡・その2
 蟠龍峡を流れる宮内川から流下した水は、岩の隙間を何度も抉るように蛇行し、中国地方最大の大河・江の川へ注ぐ。



 ある日、本妻は宗利と小間使いを誘い、蟠龍峡へ散策に出かけた。三人は「明境台」の岩頭で一休みすることにした。小間使いが懐から手鏡を取り出して髪のほつれを掻き上げていると、背後から本妻がしのびより小間使いを岩から突き落とした。小間使いは、鏡に映る本妻のただならぬ気配を察し、落ちる瞬間に本妻の着物の袖をつかんだので、あっという間に二人は滝壺に呑まれてしまった。

 驚いた宗利が駆け寄ると、二人の女性は龍と化し、悲鳴をあげ、もつれあい争いながら落ちてゆく姿が見えた。二人の姿が消えたあとには、二人の抜け留まった髪の毛だけが松の枝に残されていた。宗利はこのことを深く嘆き悲しんだ。
【写真左】現地に設置された「蟠龍峡伝説」の説明板



 蟇田(ひきた)という所まで帰った宗利は、己の罪の深さに堪えきれず、ついに自刃して果てた。
 この蟇田には宗利の墓があり、その一帯にあやめの花が多いことから「あやめ塚」と呼ばれ、初夏には美しい花を咲かせている。不思議なことに、宗利の墓は、いくら立て直しても蟠龍峡の方へ傾くという。

   平成20年5月  比之宮連合自治会”
【写真左】供養塔か
 現地には特に標記したものはなかったが、宗利はじめ、正妻及び小間使い三人を祀った供養塔と思われる。




 上掲したように、この伝説にも長親が登場しているが、ただ冒頭の元和(1350)ころという時期については、後ほど述べるように若干ずれがあると思われる。

弘安の役

 ところで、件の山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)でも触れたように、小笠原長親が石見国との接点を具体的に持ったのは、この弘安の役からとされている。弘安4年(1281)5月、高麗の東路軍が対馬・壱岐に来襲し、6月には博多湾に出現、7月には大風雨となって多くの軍船が漂没、日本は辛うじて敵軍の攻撃を免れた。

 この役前後、石見国沿岸の警固のため、阿波小笠原氏は石見益田の豪族益田氏の支援のためやって来ている。因みに、同国の沿岸警固のため、他国から来援した他のものとしては後に、津和野に本拠を持つことになる吉見氏などがいる。

 では、長親及び阿波小笠原氏が、なぜ石見国の沿岸警固を務めることになったのだろうか。

阿波小笠原氏と益田氏の接点

 長親は石見村之郷に下向したのち、沿岸警固の指揮を執った益田氏の娘を妻として迎えている。

 長親の妻となった娘は、益田左衛門尉兼時の息女で美夜という。父兼時については、これまで七尾城(島根県益田市七尾)・その1稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)などで紹介したように、御神本氏から数えて益田氏6代目の当主で、益田氏の始祖兼高の孫に当たる。そして、中国探題が石見国沿岸警固の責任者として指名した人物である。

 さて、これより先立つ後深草天皇の建長元年3月23日((1249年5月14日)、寛元4年(1246)の火災から3年、京のみやこは再び大火に見舞われた。姉小路の室町から出火した火は、瞬く間に三条・八条、西洞院、京極、河東蓮華王院などを焼き尽くした。

 翌建長2年4月、ときの執権北条時頼は、主だった御家人や守護らに対し、焦土と化した都の復興のための資材を送るよう命じた。そして奉行等が全国の守護職や、財力のある御家人などに触れを出し、石見では益田兼時がその命を受けた。
【写真左】益田氏累代の本拠城・七尾城
所在地:島根県益田市







 兼時の指示を受けた実弟・丸茂兵衛尉兼忠(丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)参照)は、岡部・岡本の郷士、歩役200人余を従え、材木・糧米を積み、浜田市の岩崎(松原湾)から船で向かった。

 「吾妻鏡」の建長2年3月1日付で、「閉院殿造営雑掌目録」があるが、この中に二条西ノ洞院面築地造営において、所要材木20本のうち、3本を兼時が献上したとある。

 このことから、この建長年間における都の復興事業に、兼時をはじめとした益田氏の主だった面々も都にしばらく滞在したのだろう。当然ながら、幕府・執権からは益田氏以外の主だった御家人・守護職らも全国から召集を請け赴いたものと考えられる。

 そして、阿波国からも主だった諸将が地元の資材などを持ち込み、しばらくは常駐したものと考えられる。おそらく、このとき兼時は阿波小笠原氏と接点を持ったものと考えられ、後に弘安の役の際も、石見沿岸警固の役目を受けた兼時は、中国探題を通じて阿波小笠原氏を支援の対象者として指名したのではないだろうか。

 言いかえれば、阿波小笠原氏の石見国下向は、益田氏(兼時)の意向が相当働いていたと推察されるのではないだろうか。

小笠原長親

 ところで、長親が下向した村之郷のある現在の美郷町の隣の町・川本町のHPでは、小笠原氏について次のように紹介している。

 「中世の小笠原氏」

[丸山伝記」より
小笠原氏は初代長親(1281〜1313)に始まる。
小笠原四郎長親新羅三郎(※1)義光の末孫なり
妻は藤原氏益田左衛門尉兼時の息女美夜、兼時の後家尼妙阿の子なり。

 長親、本国は信濃国。前の左級、志野二郡太守にして知行十万貫なり。 のち四国の阿波国生摩庄一郡六万八千貫、伊予国小坂五千貫知行す。
【写真左】吉野川から重清城を遠望する。
 所在地:徳島県美馬市の「四国三郎の郷」付近。








 阿波国より当国へ渡り賜ふこと、忠節によって四国を細川に給ひ、細川の旗本となること歎きにより、石見の国邑智郡を加増あり。御屋敷、村之郷に居住す。

 三代目亦太郎長胤の時、川本温湯の城に御在城あり。赤山葉城、石見知行のこと別所これあり。
【写真左】山南城のある村之郷の集落。
 江戸時代は浜田潘に属していたが、後に天領となり、昭和32年、布施村から大和村に合併し、平成16年邑智町となり、現在の美郷(みさと)町に含まれた。

 現在山南城から北東に進んだ比之宮が中心地となっている。

 典型的な過疎地で人口は300人余りだが、郷土の誇りを持ちながら、積極的に都会からのU・Iターン者の募集を行っている。


 長親、四国より三島大明神御本地の氏神として御供、渡り給ひ、川下村に鎮座なし給ふ。此処を則ち三島大明神と祭給ふなり。この社はいま三島の童源寺といふ寺の少々下の森なり三原シメ下なり。長親法名、普照院と号す。(正和2年5月廿一日死去、長江寺過去帳)


【写真左】長江寺
 所在地:島根県邑智郡川本町湯谷

 石見小笠原氏第12代当主・長隆が開基した同氏菩提寺で、山号は宝重山。同院には長隆が足利義稙から拝領したといわれる「獏頭(ばくとう)」という玉枕が残る。現在のご住職は、備前の宇喜多直家の甥にもあたる津和野城の坂崎出羽守の系譜に繋がる方である。


※1 平安時代後期の武将。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。近江国新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎と称した。

 小笠原氏の先祖は源義家の弟義光から出ていると云われ、「丸山伝記」、「石見誌」、「萩閥」などを参考、概略の検討を加えて改訂した系図を掲載。
”  
                                                      註)赤字は管理人

                                
 そして、源義光から小笠原長親までの系図を掲載しているが、これに基づいて整理すると次のようになる。

 〈1〉長清から長親までの流れ
  • 長清 信濃守、左京大夫、阿波守護(河内守護―萩閥)
       
  1. 長経  治承3年(1179)~宝治元年(1247) 弥太郎、信濃守、阿波守護
  2. 長房  建保元年(1213)~建治2年(1276) 阿波次郎、阿波守護、阿波池田大西城に在城(阿波小笠原本流)
  3. 長能  四男、信州伊那郡下條吉岡城主
  4. 朝光  七男、信州佐久郡大井郷大井氏を称す
         ※ 1.~4.(長経~朝光)は兄弟。

   長房からの系譜は次の通り
  • 長房
       
  1. 長種  不明
  2. 長景  不明
  3. 長直  不明
  4. 長親  弘安4年(1281)~正和2年(1313) 妻益田兼時女美夜、弘安沿海警固石州にて加増、村之郷に山南城を築く。川下村三島明神勧請。

 〈2〉長親から長義までの流れ
  • 長親
      
  1. 長宣 ⇒ 長宗 ⇒ 長隆 ⇒ 義長(三好氏を称す)
  2. 家長 四郎次郎、元弘2年討死(石見小笠原流) 
      
  1. 長胤 又太郎、川本赤城を築く。邇摩郡宮方と戦ふ
  2. 長氏 太郎次郎、上野頼兼に応ず、温湯城築城
  3. 長義 彦太郎尾張守、川本移居
 〈3〉長義以降は今稿では割愛させていただく。

 ここで、先ず指摘しておきたいことは、長経と長房が兄弟の扱いとなっていることである。上掲した諸氏の生没年から計算すると、二人は30歳余りも年が離れた兄弟となる。常識的には父子とみるべきであろうが、あるいは正妻の子と、側室の子という関係、即ち異母兄弟という可能性もある。

 そして、前記した諸氏の生没年のうち、長親のものが事実とすれば、長房が亡くなった建治2年から5年経ったとき、長親が出生しているので、長親は長房の子ではないことになる。とすれば、№3~5に掲げた3人のうちの誰かとなる。このうち、4.長景と5.長直については、詳細は不明だが、3.の長種の末孫は最終的に三好氏を名乗っている。

 こうした点から長親の父親については不明な点が多い。
【写真左】山南城遠望













長親の石見国来住時期

 さて、この件については、川本町のHPで紹介された史料とは別に、同じ石見国で旧石見町(現邑南町)時代に発行された「石見町誌(上巻)」があるが、ここでは、小笠原氏の石見国村之郷来住は、長親ではなく、長親の子家長であるとしている。

 その根拠として、石見沿海防備の恩賞としての領有はあくまで、「加増」であって、本拠地ではなく、さらに
 「長親自身が、四国の吉野川流域の広い豊沃な天地を捨てておいて、邑智郡の山間僻地に移住するとは考えられない」
 とし、結論として
「小笠原氏の村之郷来住は、長親の子家長であり、その時期は永仁3年をあまり下らないものと訂正する」
 と結論づけている。しかし、管理人としてはこの説には聊か首肯しかねる。

 その理由の証左資料として挙げたいのが、冒頭の蟠龍峡の伝説である。もっとも、この説明板には長親が当地で活躍していた時代を、南北朝期の元和年間として語っている点には疑問があるが、長親の家臣(軍師)として「玄太夫宗利」なる人物が登場していることを考慮に入れれば、長親が阿波小笠原氏として初めて村之郷に入ったという説は、「丸山伝記」と同じく事実であったと思われる。

 そして来住時期は、「島根県歴史大年表」(2001年発行)にもあるように、永仁3年(1295)即ち、同国津和野に吉見頼行が三本松城(津和野城)を築城した年と同じであったと考えられる。

◎関連投稿

2013年11月18日月曜日

阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その2

阿波・重清城(あわ・しげきよじょう)その2

●所在地 徳島県美馬市美馬町字城・東宮ノ上
●探訪日 2013年11月4日

◆解説
 今稿では前稿・重清城から南東部に向かった位置にある小笠原氏ゆかりの神社を中心に取り上げたい。
【写真左】長親が勧請した八幡神社
 本殿も立派なものだが、説明板にもあるように、参道・境内にある古木はいずれも見事なものが多い。




倭大国魂神八幡神社

 重富城から東南方向へ約500m程向かった重清西小学校の道路を隔てた北側には、小笠原長親が勧請したといわれる八幡神社が祀られている。
【写真左】周辺配置図・その1
 重富城から南西へ1キロ余り吉野川の川岸に設置された「四国三郎の郷」に設置されているもので、地元重清西小学校が作成したもの。


 なお、同図の下段に「中鳥の渡し跡」が記されているが、近年までこの吉野川の川中に中鳥島という島があり、ここに戦国期に中鳥城という城砦があった。




当城については下記参照。

中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1
中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その2 

【写真左】周辺配置図・その2
 上段左が重清城、その右に倭大国魂神社、その下に八幡神社が祀らている。
 重清西小学校は同社鳥居の道を挟んだ南側に建っている。
また、その前の東西に延びる狭い道は、旧撫養街道。









現地の説明板より

“倭大国魂神やまとのおおくにたまのかみしゃ)
             八幡神社の社叢

 倭大国魂神社は、延喜式式内社の倭大国玉玉神・大国敷神(二座1社)にも比定されている古代からの神社であり、中世には重清城主の小笠原氏に崇敬された。


【写真左】倭大国魂神社
 下の八幡神社の左側から階段があり、そこへ登っていくが、かなり傾斜のきつい階段だ。







 八幡神社は、鎌倉時代末期に小笠原長親が重清城を築いた時に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、源氏であった小笠原氏の守護神・武神として祭られ、明治には郷社となり、現在も重清の村人たちの氏神、鎮守の神様として崇敬されている。
【写真左】八幡神社・その1













 八幡神社と、109段の石段で結ばれる大国魂神社の境内は、昼なおくらき、うっそうとした森(社叢)である。樹齢数百年、太さ5~6mのクスの巨樹をはじめ、ムク、エノキ、カヤ、ケンポナシ、ナギ、ウラジロガシ、コルククヌギ、ヤブツバメ、アカメガシワ、ヒサカキ、シイカシなどの常緑広葉樹と落葉広葉樹が混生し、中間温帯林と暖温帯林の接点をなす樹相をみせていて、樹林の美しさだけでなく学術的にも貴重である。”
【写真左】八幡神社・その2











 このほか、上記2社とは別に近くには「八幡古墳群」といわれた6カ所の古墳群も点在し、6世紀後半の円墳などがある。

 また、八幡神社入口には鳥居があるが、この手前を東西に走る細い道路は、撫養街道(川北街道)の旧道といわれ、中世から近世にかけてこの道が阿波から伊予、土佐などに繋がる街道だったといわれている。

重清という地名

 ところで、当城が所在する重清(しげきよ)という地名だが、一見すると個人名の名称にも似ている。阿波小笠原氏の始祖は、長清(ながきよ)という人物だが、なんとなく長清の名前が関わっているようにも見える。もちろん、前稿でも述べたように、長清以降の系図には「重清」なる人物名は記録されていないが…。



小笠原氏から小笠氏へ

 この日参拝した折、地元の方から聞いた話だが、当地を治めた小笠原氏が、その後三好氏などに替わり、小笠原という姓を持つ人がほとんどこの地にいなくなってしまったという。
【写真左】奉納者石柱
 奉納者として小笠姓の名が見える。












 しかし、伝承では小笠原という姓はその後、下の「原」の文字のみ消して、「小笠」という姓を名乗る一族が残ったという。

 なぜ、「小笠原」姓が「小笠」という姓に替わらざるを得なくなったのか、理由は分からない。

 阿波小笠原氏がその後三好氏などに移っていった経緯を考えると、単純に小笠原氏がその後土着して、当地名である三好を名乗って三好氏となったとはいえないかもしれない。

長親について

 さて、本稿では重清城の築城者である小笠原長親について述べる予定にしていたが、石見小笠原氏の始祖でもあったこともあり、次稿で改めて紹介したい。

2013年11月13日水曜日

阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1

阿波・重清城(あわ・しげきよじょう)その1

●所在地 徳島県美馬市美馬町字城
●築城期 暦応2年・延元4年(1339)ごろか
●築城者 小笠原長親
●城主 小笠原氏
●指定 美馬市指定史跡
●形態 平山城
●遺構 郭・土塁・二重空堀・井戸等
●高さ 90m(比高10m)
●登城日 2013年11月4日

◆解説(参考文献等、『石見町誌(上巻)』、島根県川本町HP「中世の小笠原氏」等)
  重清城は、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でとりあげたように、阿波に入部した小笠原氏が初期のころ築城した城砦である。
 所在地は、岩倉城から吉野川を約13キロ前後遡った美馬町の重清西小学校の北西部にある。
【写真左】重清城遠望
 ご覧の通り形態としては平山城、もしくは館跡の遺構が残る。

 手前の畑は東側にあたり、城との比高差はほとんどないが、西側はほぼ垂直な切崖で構成された箇所が残る。




 現地の説明板より・その1

 “重清城跡

 承久の乱後、阿波に入部した小笠原氏の2代守護長房の孫長親が鎌倉時代末期にこの地にやって来て築いたのが重清城である。

 前に断崖、背後に讃岐山脈をひかえた台地の上に、北と西を城ケ谷川でさえぎり、東と南を土堀とその外側の二重堀に守られた約30アールほどの本丸があり、井戸や土塀、二重堀が遺構として残っている。
【写真左】土塁と二重の壕
 東側に残るもので、外側に浅い壕と土塁を置き、城館側の壕と、土塁は3~4m程度の高低差がある。
 当時はもっと深い壕だったものと思われる。



 吉野川上流から下流への交通の要衝にある難攻不落の大城で、戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵寇の時は、2度にわたる攻防があり、天正6年、当時の城主小笠原豊後守長政と、その長子を謀略にかけ暗殺した。その後一旦は阿波方に戻ったものの、再び落城、廃墟の道をたどった。”
【写真左】説明板など
 虎口だった現在の入口の南東部に設置されている。なお、この付近にも駐車は可能だが、その東側にある幅員の広い道路があり、そこに留めることができる。



甲斐・小笠原(加賀美)氏の信濃国移住時期

 阿波の小笠原氏は本姓清和源氏(又は甲斐源氏)義光流とされ、始祖は長清といわれている。

 この長清は、高倉天皇(後白河天皇の子で、在位は仁安から治承年間(1168~80))に仕えた加賀美遠光の次男として生まれている。
【写真左】縄張図
 南北に長い三角形の形をしており、中央には朽ち果てた小笠原神社本殿があり、最奥には井戸跡が残る。
 西側はほぼ全面切崖状となっている。

 なお、城館から東側については既述したように畑・民家などが建っているが、これよりさらに南東の方へ下っていくと、次稿で紹介する予定の倭大国魂神社や、小笠原長親が石清水八幡宮から分霊勧請した八幡神社が建立されているので、それまでの区域も同氏関連の住居等関連したものがあったものと思われる。



 ところで、小笠原の姓は、出身地であった旧甲斐国巨摩郡小笠原からきている。巨摩郡とは現在の山梨県西部地域で、近年合併によって新しく「南アルプス市」という名の市ができたが、この地に現在も「小笠原」という地名が残っているので、おそらくこの附近が小笠原氏の発祥の地だろう。

 長清が加賀美から小笠原の姓を名乗ったのは、元服のときといわれ、父遠光が仕えた高倉天皇からこの姓を賜ったといわれている。
【写真左】小笠原神社
 土塁で囲まれた中央部に当たるが、手前に「重清城」と刻銘された石碑があり、写真には載っていないが、右側には「重清城歴代城主合祀 小笠原神社」と刻んだ石柱が建っている。

 市の指定史跡を受けているものの、本殿が朽ち果てかけ、なんとも痛ましい。


 甲斐の小笠原氏がその後、西隣の信州(信濃国)に入部したのは、長清の父・加賀美遠光が存命の時で、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した年、すなわち文治元年(1185)年である。
 そしてこの年の11月29日、源頼朝は諸国に守護・地頭を置くことになるが、遠光が信濃守に任じられたのはおそらくこの時だろう。そして実際に信濃国に入部したのは遠光の次男・長清である。

 このように遠光や長清の時代は、平安末期から鎌倉前期すなわち、源平合戦のころで、元は平氏に仕えていたという。しかし、頼朝挙兵の際、源氏方に与し、治承・寿永の乱において武功を挙げ、鎌倉幕府御家人の地位を得ることになる。そして長清は当地信濃国に土着していくことになる。
【写真左】井戸跡
 数年前までこの井戸跡についての説明板があったようだが、今はない。

 井戸深さ7.8m、水深約2m、直径90cm。今でも澄んだ水を湛えている。



信濃・小笠原氏の阿波移住時期 

 信濃国守護職を得た小笠原氏長清の子には、長経及び、後に信州佐久の伴野荘に本拠を構えた伴野(小笠原)時長らがいた。

 このうち長経は、父とともにその後勃発した承久の乱において武功を挙げ、阿波国守護職を得た。そして、長清が最初に阿波国において築城したのが、池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)である。
【写真左】中央部
 周囲は2~3m程度の高さの土塁が残る。大きさから考えて、住居としての建物が数棟建っていたと考えられる。







 長経が阿波守護に命じられたのは貞応2年(1223)といわれている。北条政子によって注進されたいわゆる新補の守護・地頭である。このとき、長経には他の守護職とは別の大役があった。

 それは、後鳥羽上皇の第一皇子・土御門の阿波国配流の警固である。御門はその後、寛喜3年(1231)10月に崩御しているが、現在の鳴門市にそのときの火葬場跡が残っている(土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)参照)。また、土御門の墓は、京都府長岡京市金ヶ原の陵にあるが、実は出雲国にも御門に関係した墓がある。これについては、改めて紹介したい(伝・土御門の墓(島根県松江市宍道町東来待浜西)参照)。

 さて、長経には4人の男子があった。このうち次男・長忠に父から続いて阿波国守護職を引き継いだものの、その後弟(三男)の長房に譲り、自らは信濃国に帰国したとされる。

 長忠がなぜ信濃国にもどったのかその理由ははっきりしないが、出生地であった伊那の松尾に戻ることになる。その時期については、はっきりしないが、おそらく以前にも紹介したように、弘安の役、すなわち弘安4年(1281)より大分前と思われる。したがって、現在飯田市に残る松尾城(県指定史跡・未登城)も、築城期はほぼそのころではないかと推察される。
【写真左】北側から西方を見る。
 中央部の小笠原神社から北の方は一段高くなった削平地となっている。

 写真右の土塁の外は藪になっているが、ここから急峻な崖となっている(下段写真参照)



 さて、長房の阿波における具体的な記録が見えるのは、文永4年(1267)、三好郡の郡領を支配していた平盛隆を打ち破り、その恩賞地として美馬郡と三好郡が与えられたというものである。

 鎌倉幕府が成立して半世紀も過ぎた段階で、平姓を名乗る人物が三好郡を支配していたということになるが、おそらくこれは、平氏の流れをくむものの、鎌倉開幕期に源氏に味方した一族であったのだろう。そして、平盛隆は三好郡の荘園領主として生き残ったものの、長房に攻略されたという経緯だったかもしれない。結果として、この戦いはこの頃各地に起こった荘園領主と地頭(守護代)の争いの例の一つともいえるだろう。
【写真左】西側の切崖
 写真では分かりずらいが、ほぼ垂直な崖を構成している。
 もともと谷状の地形だったかもしれないが、さらにそれを険しい切崖としたようだ。

 おそらくこれは、戦国期の天正年間、土佐の長宗我部氏が吉野川上流の白地城を陥れたのち、東進してくることを予知して、特に西側の防備を堅牢としなければならなかったためだろう。


小笠原長親

 前置きが大分長くなったが、今稿の重清城の築城者は小笠原長親とされている。
 この長親について、現地の説明板によれば、長親は前記した長房の孫とされているが、このことについては、次稿で改めて述べたい。


長宗我部氏と三好氏の攻防

 さて、戦国期に至ると、重清城は土佐の雄・長宗我部元親の台頭により、阿波の三好氏、伊予の河野氏らを圧迫し始めた。
【写真左】西側の郭
 中央部の郭から西にかけて2m程度下がった腰郭状のものが残る。
 東西幅10m前後×南北長さ20m前後の規模。

 ここからさらに西に向かうと、「城ケ谷」という深い谷があり、当城の中では最前線基地の位置に当たる。
 



現地の説明板より・その2

“美馬市指定史跡  重清城跡
   指定年月日 2001年(平成13年)12月7日

 重清城跡は、長宗我部元親の阿波侵攻の際に三好氏との間で三度にわたり争奪が繰り広げられた城跡です。

 約90×80mの範囲を城ヶ谷の断崖と二重堀・土塁で囲み、内側の中央には城主を祀った神社、北端付近には井戸があります。堀・土塁は、南東隅が切られておりそこが虎口です。
 その北側には櫓台が置かれていたと思われ、堀・土塁が方形に張り出しています。特に二重堀・土塁は他に類を見ないほど良好な保存状態です。

 長宗我部氏と三好氏の三度にわたる争奪については、まず土佐方の大西上野介と中鳥城主久米刑馬によって重清城主小笠原豊後守が謀殺され、それに対し三好(十河)存保は三千余の兵で城を包囲し、城を取り戻します。しかし、重清城は阿波侵攻の要衝であったため、長宗我部氏は再び重清城に侵攻します。この時、吉野川北岸には阿波方約五千人、南岸には土佐方がその数分からぬほどの大軍で対峙していたといわれています。
   美馬市教育委員会”
【写真左】西側の郭から本丸をみる。
 竹が繁茂しているが、遺構の状況は十分確認できる。








 説明板・その2にもあるように、戦国期に至ると、それまで阿波を治めていた三好氏に陰りが見え始める。

 特に、天正5年(1577)、阿波国を強引な力で支配しようとした三好長治が、長宗我部元親の支援を受けた対立する細川真之と、阿波荒田野で戦い敗死すると、一挙に元親が阿波侵攻を企てた。直接的には長宗我部氏の侵略が阿波・三好氏の滅亡につながっているが、細川・三好(小笠原)一族間の内部抗争がその引き金ともなったといえる。

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