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2018年10月29日月曜日

伊勢・神戸城(三重県鈴鹿市神戸5)

伊勢・神戸城(いせ・かんべじょう)

●所在地 三重県鈴鹿市神戸5
●築城期 不明(天文年間:1550年年代)
●築城者 不明(神戸具盛か)
●城主 神戸具盛、神戸信孝、織田信孝、本多忠統
●形態 輪郭式平城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2016年3月5日

◆解説(参考資料 「週刊ビジュアル 戦国王 056」等)
 伊勢・神戸城(以下「神戸城」とする)は、三重県鈴鹿市に所在した平城で、現在の神戸公園となっている箇所である。
【写真左】神戸城
 本丸天守跡にのこる石垣











 現地の説明板より

“三重県指定・史跡
神戸城跡
  昭和12年12月14日指定

 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。   
 神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1568)その三男・信孝を養子に迎えて和睦した。

 信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。

 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統(ただむね)が入国する。
 本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、明治8年(1875)城は解体される。
 その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
    平成14年3月
       鈴鹿市教育委員会”
【写真左】神戸城配置図
 神戸城の配置図で、右側(東側)は県立神戸高等学校が道路を挟んで隣接しているが、説明板にもあるように当時は当校も神戸城の城域であった。
 なお、当城は神戸公園として整備されている。



神戸氏

 説明板にもあるように、神戸氏は伊勢平氏子孫である関氏の一族とされている。神戸城を築いたのは戦国期だが、その前の南北朝期に築いたのが沢城とされている。場所は神戸城から南西に凡そ900mほど向かった飯野寺家町字城掛である。

 神戸氏は室町期に伊勢国司であった北畠氏の力を借りて勢力を伸ばした。特に、北畠材親(霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の頃には養子縁組があったとされるが、明確な資料は残っていない。
【写真左】本丸跡
 上掲した配置図に対し、現在は堀などが埋められ、大分改変されている。
 当時の二ノ丸・千畳敷といわれた箇所は駐車場や公園公衆トイレなどが設置され、遺構の輪郭を残しているのは主として本丸付近である。


神戸信孝(織田信孝)

 戦国に至って、神戸氏の家督を引き継いだのは織田信長の三男信孝である。永禄11年(1568)2月、信長は上洛に先立ち北伊勢に侵攻、神戸氏第7代具盛は信長に降伏、信孝はこれによって神戸具盛の養嗣子となった。信孝はこのとき11歳で、以後「神戸三七郎」と称した。

 養子となった信孝(三七郎)であったが、次第に養父・具盛と不和になり、元亀2年(1571)正月、信長の命により、具盛は隠居に追いやられ、信孝が神戸氏の当主となった。併せて、それまで関氏も麾下にあったが、関当主盛信も元亀4年(1573)追放され、関氏の領地亀山も信孝が相続することとなった。
【写真左】本丸・天守台・その1













 信孝が本格的に戦に従軍参加するのは、天正2年(1574)の長島一向一揆攻めからである。この後、越前一向攻め、紀伊雑賀攻めと続き、21歳の天正6年(1578)には兄信忠に従って大坂本願寺攻めに従軍している。そして、説明板にもあるように神戸城を修築したのはこの2年後となる天正8年(1580)である。 
【写真左】本丸・天守台・その2
 天守台に登る階段付近から見る。

 







 本丸には石垣から高さ20m、初重7間半×7間(13.5m×12.6m)、三重目いは破風がある五重天守が築かれたという。父信長が築いた安土城は、これより4年前の天正4年(1576)に築かれているが、信孝も父譲りの金箔瓦などを本丸で用いている。
【写真左】本丸・天守台・その3
 天守台から周辺を見る。












信孝自刃

 父・信長が本能寺の変に倒れた天正10年(1582)、信孝は25歳であった。この変において信孝の軍は大半が四散したという。その後、山崎の合戦では秀吉の軍に参戦し、清州会議の結果、信孝は三法師(信秀)の後見役となった。そして美濃(岐阜城)を与えられた。

 しかし、清洲会議のときから信孝は秀吉対し敵意を感じており、このため柴田勝家に接近した。これが次第に顕著となり、この年(天正10年)の12月、秀吉は岐阜城を攻略し、信孝を降伏させた。これによって三法師を秀吉に渡し、信孝は母(坂氏)を人質に指し出すことになる。
【写真左】神戸城の石碑
 明治9年に建立されたもので、この前年城は解体されている。筆耕文字が大分劣化しているため解読は困難だが、神戸信孝(織田信孝)をはじめ、その後長らく城主であった藩祖本多忠統らの名が刻まれている。


 天正11年(1583)正月、ついに秀吉に敢然と反旗を掲げたものが出た。滝川一益である。滝川一益はこのころ北伊勢を本拠としており、信孝と普段から誼を通じていたのだろう。3月に至ると、柴田勝家が挙兵、信孝もほぼ同時期に続いた。
 4月20日、秀吉は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) に柴田勝家を敗走させ、24日は北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目) に勝家を滅ぼした。あくる25日、秀吉に与していた信孝の兄・信雄は再び岐阜城を包囲、信雄の勧めによって信孝は開城し、尾張に堕ちていった。その後信雄は秀吉の命によって、野間の大御堂寺にあった信孝を安養寺(愛知県知多郡美浜町大字布土大池)に幽閉、自刃させた。

信孝辞世の句

“昔より  主(あるじ) 内海(討つ身)の
     野間なれば  むくいを待てや  羽柴ちくぜん”

 信孝は切腹の際、無念のあまりかききった腸(はらわた)を目の前の掛け軸に投げつけて果てたといわれ、同院には今でもそのときの掛け軸と、使われた短刀が残されている。享年26歳。
 因みに、当院には信孝の墓とは別に、源頼朝及び義経の父である義朝もこの地で謀殺され、眠っている。
【写真左】本丸・天守台・その3
 横から見たもの
【写真左】石垣
天守台のもので、野面積み形式。全体に丸い石が多く、ところどころにこのような大きな石が使われている。
【写真左】土塁・その1
内側から見たもの

【写真左】土塁・その2
本丸の周りを囲む土塁。
なお、土塁の一角には隅櫓などもあったという。
【写真左】堀
本丸の外側にあるもので、奥に本丸が見える。
【写真左】西側の堀付近
 旧西大手付近で、公園化されているため当時とはだいぶ違うかもしれないが、堀の配置は現在のような状況だったと思われる。
 また、この写真の右側には武家屋敷群があった。
【写真左】南側の堀付近
 こちらのほうはだいぶ狭められている。

2012年8月19日日曜日

松阪城(三重県松阪市殿町)

松阪城(まつさかじょう)

●所在地 三重県松阪市殿町
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 蒲生氏郷
●城主 蒲生氏、古田氏、紀州徳川氏
●形態 平山城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 本丸跡・天守閣跡・二の丸跡・隠居丸跡・金の間櫓・遠見櫓・月見櫓・太鼓櫓等
●指定 国指定特別史跡 本居宣長旧宅
●備考 本居宣長記念館・歴史民俗資料館
●登城日 2012年4月18日

◆解説 
 伊勢国北畠氏関係の史跡をあらかた巡り、松阪駅近くのホテルに泊まった。翌朝ホテルの窓からこんもりとした丘が見えた。地図を広げてみると、どうやら松阪城のようだ。帰りは伊勢自動車道を北に向かうため、さほど時間はとられないと思い、予定にはなかったが登城することにした。
【写真左】松阪城遠望
 東方のJR松坂駅付近より見る。











 松阪城は戦国末期の天正16年に築城された平山城である。

現地の説明板より
“三重県指定史跡 松阪城跡
     指定 昭和27年7月9日
     面積 45,412平方メートル

 松阪城は蒲生氏郷(がもううじさと)が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
 氏郷が会津若松へ移封後、
  天正19年(1591) 服部一忠
  文禄4年(1595) 古田重勝
 と城主が変わり、元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれた。
【写真左】松阪城・その1 歴史民俗資料館付近
 北側の鐘ノ櫓跡付近から見たもの。


 城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていた。
 三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。また二の丸には寛政6年(1794)に建立された徳川陣屋があった。
 明治14年(1881)城跡公園となる。”
【写真左】松阪城・その2 鐘の櫓跡












蒲生氏郷(がもううじさと)

 前稿「霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)」でも少し紹介しているが、江戸期に入った伊勢国の諸藩主は他国から入封した者がほとんどである。
松阪城の築城者は、蒲生氏郷といわれている。蒲生氏は近江蒲生郡の出で、六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれた。後に織田信長に見いだされ、信長の娘を娶った。

 永禄11年(1568)、北畠具教・具房との戦いが初陣とされ、その翌年伊勢大河内城攻めなどでも活躍した。信長が亡くなった後は秀吉に仕え、松阪城築城前には近くに松ヶ島城を築城し、秀吉から12万石を与えられている。この後、天正16年(1588)に松阪城を築くと、松ヶ島城時代の武士や商人をそっくり移住させた。
 なお、蒲生氏が松ヶ島城を築いて間もないころ、北畠具教の実弟・具親はこの氏郷に身を寄せ客臣となっているが、その2年後病没している。
【写真左】松阪城・その3












 その後、小田原征伐の論功によって、天正18年(1590)陸奥国会津60万石という多大な禄を得て若松城へ移封した。代わって服部一忠が入封したが、秀吉に謀叛の疑いをかけられ自害した秀次の家臣であったことから連座の責任を負わされ切腹した。
【写真左】松阪城・その4 本丸跡












古田氏

 このあと入ったのが古田重勝である。秀吉時代の禄高は3万4千石であったが、のちの関ヶ原の戦いでは東軍方に属し、その戦功によって家康から2万石をさらに加増された。しかし、この年死去し、嫡男重恒が幼少であったため、実弟重治が引き継いだ。
【写真左】松阪城・その5 井戸跡
 本丸跡に残るもので、頑丈な鉄製の網で防護されていることからかなり深いようだ。










 元和5年(1619)2月、重治は伊勢松阪城から石見浜田城へ移封された。重治が松阪城から石見浜田城へ移った理由は、大坂の陣(1614~15)の功績によるとされているが、松阪城時代と石見に移った時の禄高は同じ5万4000石で増禄されていない。
【写真左】松阪城・その6 天守閣跡












 関ヶ原、大坂の陣で家康方に着いたとはいえ、元は豊臣秀吉の家臣である。徳川から見れば明らかな「外様」としての扱いである。

なお、石見浜田城については、浜田城(島根県浜田市殿町古城山)ですでに紹介しているので、ご覧いただきたい。

古田氏が石見へ移封されると、松阪城は説明板にもあるように、紀州藩領(飛び地)となった。

【写真左】本居宣長旧宅

 国指定特別史跡(昭和28年3月31日)で、松阪城の南側にある隠居丸跡に設置されている。
 元々は魚町にあったが、明治42年保存のため松阪城跡に移築された。

 この建物は宣長が12歳から亡くなる72歳まで住んだもので、祖父が元禄4年(1691)に建てたという。


本居宣長(もとおりのりなが)

 宣長は江戸時代の国学者で医師でもあった。この家で医業の傍ら「古事記」の注釈書である「古事記伝」を発表、近世古事記研究の先駆けとなった。
 この近くには彼の名を冠した「本居宣長記念館」が併設されている。

 ところで、松阪は奈良平安時代、都の役人は伊勢神宮へ向かう際、通行手形の代わりとして馬の首に「駅鈴」をつけていたが、神宮領となっていた松坂に入ると、その鈴をはずし、鈴の音をとめていたという。

 宣長はその鈴の音が気に入って、この建物の2階の間の柱に掛け鈴を取り付けていたということから「鈴屋」と呼ばれていた。寛政7年(1795)石見浜田藩主・松平康定は、参勤交代の途中伊勢松阪の宣長を訪ね、源氏物語の講話を聴いた。このお礼に康定は宣長に「駅鈴」を送っている。

 丁度当城を訪れたこの日の朝、記念館の学芸員の方が管理人の「島根№」の車を見て、声をかけてこられた。実は今年が古事記1300年ということで、「石見」の方へ講演に行く予定だといわれる。それ以上の話はしなかったが、石見浜田潘を立藩した古田重治といい、「駅鈴」の松平康定といい、松阪と石見は縁のような繋がりがあるようだ。

2012年8月16日木曜日

霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)

霧山城・その3
 伊勢北畠氏と出雲葛西氏
(いせきたばたけし と いずもかっさいし)

◆解説
ところで、管理人の地元である出雲国には、葛西氏という一族が、戦国時代末期、伊勢の北畠氏を頼って、当地に赴いたという伝承が残っている。
今稿はこのことについて、資料はあまりないものの検証してみたい。
【写真左】出雲・城平山城遠望
 所在地 島根県出雲市斐川町上阿宮~雲南市加茂町大竹
 南麓を流れる斐伊川から見たもの。





出雲・葛西氏

出雲・葛西氏については、当ブログを立ち上げて間もない2009年に、出雲国の葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1で紹介している。
改めて概要を示すと、この中で、出雲・城平山城落城後、城主だった葛西兼正は、かつて属していた伊勢国の北畠家を頼った、と記している(池田敏雄著「出雲の現郷『斐川の地名散歩』」)。

 葛西氏が出雲国に来住してきた時期は、南北朝動乱期であることはほぼ間違いないと思われる。そして、同氏は北畠氏のみならず、足利氏にも属していたと記している。
【写真左】城平山城の南麓中腹部に建立されている古刹・光明寺
大嶽山光明寺
 出雲観音霊場第7番札所
 創建時期は不明ながら、奈良~平安時代といわれている。戦国期も含め度重なる火災によって文書史料はほとんど消失しているが、山岳仏教寺院として大いに栄えたといわれている。

 城平山城のある城平山と尾根続きとなる大嶽山(大竹山H322m)の8合目付近に建っている。
 葛西氏最盛期には当院も城砦施設の一つとして使用された可能性が高い。


このことは、やはり以前にも紹介した「太平記」にも登場する地元の塩冶判官高貞(塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)など)と同じ動きであったと推察される。すなわち、北条執権の鎌倉幕府倒幕にむかった後醍醐天皇に与した一族ながら、その後建武の新政の瓦解によって、足利尊氏(北朝)に属していったという流れである。

葛西氏はその後、小規模な所領ながら戦国期に至るまで18代を数え、元亀年間以降に至って、伊勢の北畠氏を頼り、のちに北畠氏の家臣となったという。
【写真左】葛西氏累代の墓・その1
 光明寺境内の西端部に建立されている。宝篋印塔形式のものや、当院住職の墓と思われるものも混在している。
【写真左】】葛西氏累代の墓・その2



しかし、5代後兼延のとき(江戸時代初期とされる)、一族とともに北畠氏から離れ、再び祖先の居た出雲国の城平山城麓(斐川町阿宮)にもどり、武士を捨て百姓となって祖先の墓を作り、代々祖先の菩提を供養してきたとされている。

以上が出雲・葛西氏の流れである。

今回、伊勢の北畠氏関係の史跡を訪れた目的の一つには、実はこの出雲葛西氏が伊勢北畠氏を頼ったということから、一度はこの地を探訪したいという思いがあったからである。
【写真左】葛西氏の屋敷跡といわれている箇所
 光明寺の東側から北方の高瀬山城にむかって中国自然歩道という道が設置されているが、その中途には同氏の屋敷跡といわれる箇所がある。

 石積み基礎とされた建物跡などがあったようだが、現在は散在しほとんど現形をとどめていない。ただ、この中腹部の平坦地には平時の生活がおこなわれていたであろう小規模なため池や、複数の建物の区画とみられる凹凸状の遺構らしきものもある。

 屋敷跡としてはかなり高い位置にあるにも関わらず、常に湧水が流出しているようで、この水が確保できることからこの場所を屋敷跡として構えたのだろう。

 また、この屋敷跡から西の尾根筋に向かって本丸に繋がる道があったといわれているが、現在は朽ち果ててほとんど痕跡をとどめない。


戦国期の葛西氏の動向

そこで、出雲葛西氏が伊勢の北畠氏を頼って行った時期についてだが、元亀年間以降(1570~)といわれている。元亀年間における出雲国の動きは、これまで度々紹介したように山中鹿助が尼子再興を願って蜂起するも、毛利方によって駆逐された頃である。

出雲葛西氏の末裔として、現在も当地に住んでおられる葛西家には、系図の他に毛利輝元から、よく戦ったと褒められた書状(感状と思われる)が残っているといわれる。
このことから、葛西氏は毛利方に与していたと考えられ、尼子再興軍と戦った可能性が高い。

同氏の居城である城平山城(出雲市斐川町阿宮)から北方1.5キロに、尼子再興軍の一人、米原綱寛が籠城した居城・高瀬山城(出雲市斐川町学頭)がある。当城が落城したのは、元亀2年(1571)3月19日である。
【写真左】城平山城側から北方に高瀬山城を遠望する。
 城平山城の東方中腹部から北に向かって「中国自然歩道」としてのハイキングコースが設定されている。この途中から高瀬城の本丸が眺望できる。


高瀬山城の落城については記録が残るが、葛西氏の居城・城平山城もまた「落城」したといわれている。

想像だが、米原氏が高瀬山城に拠った際、南方の城平山城がこのとき同氏らによって落とされた可能性もある。そして、落城したものの、葛西氏は毛利方に属し戦功を挙げたのではないか、そして、その軍功に対し、輝元が感状を与えたということではないだろうか。


伊勢国移住の時期と動機

では、輝元から感状まで拝受しながら、その後同氏はなぜ当地を離れなければならなかったのだろうか。もっとも考えられるものとしては、関ヶ原の戦いがその要因と思われる。毛利方、すなわち西軍に与したであろう葛西氏も、毛利方の敗戦によって領地を没収された可能性は高い。

関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600)9月15日である。天下分け目の大合戦として有名なこの戦いは、わずか一日で雌雄が決した。4日後の9月19日、勝者となった家康は、早くも遠州浜松にあった堀尾吉晴を、出雲・隠岐24万石として移封させた。翌慶長6年8月、吉晴は隠居し長子・忠氏が跡を継いだ。忠氏はこの年から領内の巡視を開始、そして翌7年には本格的な「検地」を行っている。おそらく、このとき葛西氏の領地であった斐川阿宮の領地も検地対象となり、止む無く葛西一族は当地を離れることになったのではないかと思われる。

さて、伊勢国に向かった出雲葛西氏ではあるが、同氏が順調に当地伊勢の北畠氏にコンタクトをとれたのだろうか。

「かつて北畠氏に属していた」という代々受け継がれていった先祖からの言い伝え、若しくはそれを証する文書(巻物か)を持参し、葛西氏は伊勢に向かったのだろう。
【写真左】伊勢田丸城・天守跡付近












南北朝期における北畠氏は、「田丸城」(2012年7月27日投稿)でも紹介したように、親房を筆頭に顕家など南朝方の錚々たる重鎮公卿を輩出した。

しかし、それから230余年の歳月が流れ、伊勢国の姿はすでに昔日の面影はなく、天正8年(1580)1月、京都で伊勢国司北畠氏第9代の具房(ともふさ)が、亡くなり、8代具教の実弟・具親は同12年(1584)、蒲生氏郷の客臣となったがその2年後病没。名門伊勢北畠氏の本流はここに途絶えた。

出雲葛西氏の最後の当主兼正らは、事実上北畠氏が途絶えてからおよそ16年後に伊勢国に入ったわけである。上述したように、出雲葛西氏の伝承では、伊勢に入国し、「北畠氏の家臣」となり、兼正から5代まで数えたという。これでいくと、滅亡したはずの北畠氏に再び仕えたということになる。
【写真左】霧山城遠望
 出雲葛西氏が伊勢国に向かったルートは不明だが、伊勢本街道を使った可能性が高いと思われる。

 霧山城が織田氏に滅ぼされたという情報をこのときすでに知っていたか不明だが、麓の多気の館(旧北畠氏館)は、訪ねたたことと思われる。



おそらくこれは、前稿でも記したように、同氏庶流として生き延びたといわれる木造・田丸・神戸の諸氏に仕えたということだろう。そしてこれら庶流の元にあったものの、再び出雲国に帰るきっかけとなったのは、もちろん先祖の菩提供養をしなければならないという義務感もあったのだろうが、以下に示すように伊勢国における葛西氏の立場が安定しなかったことも考えられる。

江戸期の伊勢国

江戸期に入って伊勢国では、津藩・桑名藩・伊勢亀山藩・伊勢上野潘など、大小15の藩制が敷かれた。新しい藩主のほとんどは他国から入封し、伊勢国の縮図は根底から変わった。北畠庶流もおそらくこれらの中に仕えただろうが、詳細ははっきりしない。

戦国期北畠氏がもっとも関係のあった度会郡の玉城は、田丸藩として伊予河野氏を始祖とする稲葉氏が入り、後に久野家が紀伊和歌山藩御付家老として入った。また隣の松坂潘は初期に古田家が入府するも、のちに同家は石見浜田藩に移封され、最終的に領地はこれもまた紀州藩領となった。

出雲国に再び戻る

 こうして、中世伊勢国に蟠踞した国司北畠氏は、次第に近世という歴史の中に埋没していった。おそらくこうした流れの中で、出雲国から縁を頼ってきた小国人領主葛西氏にとって、もはや依るべき名族は霧散したとの思いがよぎったのであろう。

そして、伊勢国に入国してから5代目の兼延に至り、再び先祖の地出雲・城平山城の麓に戻ってきた。伊勢国にあって5代を数えていることから、おそらくその期間は100~150年を経ていたと思われる。

2012年8月10日金曜日

霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)

霧山城・その2(きりやまじょう・その2)

●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 興国3年(1342)ごろ
●築城者 北畠顕能
●城主 北畠政成(城代)他
●高さ 標高560m(比高240m)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2012年4月17日

◆解説
前稿「詰城」の脇を通りさらに1キロ余り向かった北畠氏の本拠城といわれる「霧山城」を取り上げる。
【写真左】霧山城遠望
 南側の道の駅美杉付近から見たもので、この位置からは本丸側の尾根は見えず、後述する「鐘突堂跡」のある稜線しか見えない。




現地の説明板より

“史跡 霧山城跡
   (昭和11年9月3日指定)

 霧山城は、南北朝時代の北畠氏の居城である。南朝方のもっとも有名な公卿であった北畠親房の子、伊勢国司顕能(あきよし)が、延元元年(1336)父とともに入国すると、伊勢地方に南朝方の城砦が設けられた。

 本城は、興国3年(1342)頃築城されたらしい。この城は標高600mの霧山の天険を利用して、本郭をはじめ、道場、米倉、鐘撞堂などが配置され、堀切と土塁で防備されていた。
 また、麓には多気館(現在北畠神社)が築かれた。
【写真左】長い平坦地
 前稿「詰城」から先の紹介となるが、詰城を過ぎて約150mほど進むと、ご覧のような広い平坦地が登城道左に現れる。

 特に説明板のようなものはないが、明らかに人工的な造成遺構と思われる。

 詰城の郭群は小規模なものしかなかったため、この場所は詰城を補完するもので、陣所もしくは馬場等まとまった兵の駐屯場所とも考えられる。

顕能がこの地を選んだのは、地形が防御に適していたことのほかに、伊勢、吉野間の交通連絡と兵糧輸送の便を考えたものと思われる。
 伊勢地方の南朝方の拠点が相次いで北朝方に攻め落とされたときも、本城に足利軍が侵攻したという記録はない。

 両朝統一の後、北畠氏はこの地方の大豪族として勢威をふるったが、天正4年(1576)織田信長に攻撃され、本城もついに落城した。
 伊勢地方の城跡の中で、歴史的に最も著名な城として、昭和11年に国の史跡に指定されたものである。
   昭和18年2月建立 文部省
     美杉村教育委員会”
【写真左】「城跡へ610m」と書かれた位置
 詰城から霧山城本丸までのルートの中で最も傾斜のある位置で、南側が険峻となり細尾根をまっすぐ進む。





伊勢北畠氏系譜

当地伊勢の北畠氏初代は、霧山城築城者で親房の三男・顕能といわれている。
  • 初代  顕能(あきよし)  生年不詳~1383
  • 2代  顕泰(あきやす) 1338~1412? 兄弟に木造顕俊
  • 3代  満雅(みつまさ) 生年不詳~1429 顕泰次男(長男・満泰戦死のため)
  • 4代  教具(のりとも) 1423~71 6歳で家督を継ぐが、叔父大河内顕雅が暫く代行。
  • 5代  政郷(まささと) 生年不詳~1508 北伊勢長野氏らと抗争再燃。四男・顕晴は田丸氏始祖。 
  • 6代  材親(ちきか)  1468~1517 永正8年(1511)出家、晴具に譲る。儒学・仏教に帰依する。
  • 7代 晴具(はるとも) 1503~63 正室細川高国の娘。文武両道の能書家・歌人。晴具の代に細川高国作庭による北畠庭園が完成。伊勢南部(志摩)を支配下に収める。伊勢国の戦国大名となる。
  • 8代  具教(とものり) 1528~76 正室六角定頼の娘。信長の侵攻を受け降服の条件として信長次男・茶筅丸(具豊⇒信雄)を養嗣子とし、具教の娘を信雄に嫁がせる。のちに信雄(信長)によって北畠氏一門誅滅される。
  • 9代  具房(ともふさ) 1547~80 父・具教殺害後、幽閉され滝川一益に預けられ天正8年(1580)死去、享年34歳。

【写真左】鐘突堂跡の登り口付近
 このあたりから霧山城の遺構が残る区域となる。
 写真の左側を登っていくと鐘突堂跡に向かうが、これとは別に右側の尾根下を進んで行くと、直接本丸側に向かう。
【写真左】配置図
 上記の場所に設置されているもので、鐘突堂跡からは一旦下に降り、再び、本丸・米倉・矢倉跡に向かって登るコースとなる。


北畠氏が伸長著しかったころは、4代教具から6代材親(具方:ともかた)で、7代晴具に至って絶頂期を迎える。それまでは東方に伊勢神宮があったため、度会郡・多気郡・飯野郡の三つの神郡については支配が弱かった。

4代から6代にかけて北畠氏は北勢(伊勢の北部)を攻め、安濃郡の国人領主長野氏と抗争した。特に応仁・文明の乱のころ北畠氏は、伊勢神宮外宮の門前町山田の衆と合戦を行い、神宮領への侵入も企てた。
この他、伊勢国東隣の大和にも出兵し、守護大名として幕府の重責を担った。
【写真左】鐘突堂跡・その1
 本丸側頂部とほぼ同じ高さでH566mとある。鐘突堂という名称から想像すると、この場所に実際に鐘を突く堂があったということだろう。

 おそらく下の写真に示すように、この位置からは本丸側よりも南東麓の伊勢街道が俯瞰できるので、狼煙と同じような目的で堂が設置されたのかもしれない。
【写真左】鐘突堂跡・その2
 鐘突堂跡から南東部を見たもので、道の駅など伊勢本街道(R368)が見える。








北畠氏の凋落

北畠氏が急激に弱体化するのは8代・具教のころからである。
永禄12年(1569)8月、織田信長の南伊勢侵攻が開始された。上掲の北畠氏系譜第2代・顕泰の兄弟・木造(こづくり)顕俊を祖とする、木造具政が信長に内応、同月信長は10万ともいわれる大軍を率いて南下した。
【写真左】鐘突堂跡・その3 堀切
 鐘突堂跡の壇を降りそのまま南西の尾根に向かう途中にあったもので、小規模ながら堀切とみられる段差があった。

 なお、この尾根伝いをさらに進むと、しばらく細い尾根が続き、再び長大な平坦部があるようだが、当日はそこまでいっていない。おそらく南西を守備する郭だったものと思われる。


 当時具教は、大河内城(現松坂市)に拠って籠城、50日余善戦したが、遂に衆寡敵せず降服。降服の条件とされたのが、信長の二男であった茶筅丸(後の信雄)を養嗣子として北畠氏に向かい入れ、具教の娘雪姫を妻とさせることとなった。

 7年後の天正4年(1576)、すでに隠居し、三瀬谷の館(多気郡大台町)にあった具教は、信長・信雄の命を受けた旧臣の(長野氏の一部)らによって殺害された(三瀬の変)。これと相前後して、信雄の居城であった田丸城においても、具教の二男・長野具藤、三男・北畠親成、大河内教通なども殺害された。
【写真左】鐘突堂跡から北西方向に本丸を見る。
 鐘突堂跡から本丸までは約250m前後あり、一旦鐘突堂の頂部から斜面を下り、再び本丸側の尾根をトラバースするようなコースをとる。
 


 このころ霧山城では、城代として一門の北畠政成が当城に拠っていた。田丸城などから逃げ延びた北畠氏の一部も当城に籠り、織田方と交戦したが破れ自害した。

 具教の長男で第9代具房は、身柄を滝川一益に預けられ、3年間幽閉されたが、天正8年(1580)京都で亡くなった。享年34歳。
 ここに伊勢北畠氏は事実上滅亡したことになるが、同氏庶流である木造・田丸・神戸の諸氏は信雄の家臣などとなって生き永らえた。
【写真左】本丸方面に向かう。
 この当たりの斜面は管理が行き届き、桜などが植樹されている。
 この日登城した際も桜の花がすこしづつ咲き始めていた。
【写真左】本丸跡・その1
 霧山城の頂部は前記したように、南側に米倉を置き、中央部に本丸、北側に矢倉跡が配置されている。

 この写真は本丸側で、中央部はなだらかな窪みとなっている。
【写真左】本丸跡・その2 土塁
 本丸は東西に土塁が配置されている。
この写真は、西側に設置されいるもので、最大幅2~3m、高さ2m前後の規模を持つ。
【写真左】本丸跡・その3
 西側には石碑が建つ。



【写真左】米倉跡
 本丸の南側から少し下がったところにあり、奥行20m前後のもの。名称から考えると、米、すなわち食糧を保管する場所である。おそらくそのための建物が数棟建っていたものと思われる。
【写真左】米倉跡から本丸を見上げる。
【写真左】西に延びる郭
 本丸と米倉の中間部に当たるが、西に伸びる小規模な尾根に一条の郭が見える。


【写真左】矢倉跡・その1
 本丸の北側に配置されているが、本丸とは明確に区分され、4,5m低い位置にある。
【写真左】矢倉跡・その2
 矢倉跡から南に本丸を見たもので、矢倉跡の土塁も西側(右側)が高い。
【写真左】竪堀
 矢倉跡の北端部に設置され、東側の斜面に見える。
【写真左】本丸側から鐘突堂跡を見る。
 麓の方の桜は満開になっているが、霧山城のほうはもう少し後になるようだ。
【写真左】本丸から西方を眺望する。
 写真奥の山はおそらく大洞山(H:1013m)だろう。
 写真の左側奥に向かうと吉野に繋がる。
【写真左】本丸から北東方面を眺望する。
 山城探訪としては、久しぶりに体力と時間をかけたものとなった。

 本丸跡に立ち、西方の吉野方面を眺めたとき、この伊勢の山深い山城が、南北朝期、南朝(吉野朝廷)を支えていたことを改めて思うと、感慨深いものがあった。