松阪城(まつさかじょう)
●所在地 三重県松阪市殿町
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 蒲生氏郷
●城主 蒲生氏、古田氏、紀州徳川氏
●形態 平山城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 本丸跡・天守閣跡・二の丸跡・隠居丸跡・金の間櫓・遠見櫓・月見櫓・太鼓櫓等
●指定 国指定特別史跡 本居宣長旧宅
●備考 本居宣長記念館・歴史民俗資料館
●登城日 2012年4月18日
◆解説
伊勢国北畠氏関係の史跡をあらかた巡り、松阪駅近くのホテルに泊まった。翌朝ホテルの窓からこんもりとした丘が見えた。地図を広げてみると、どうやら松阪城のようだ。帰りは伊勢自動車道を北に向かうため、さほど時間はとられないと思い、予定にはなかったが登城することにした。
【写真左】松阪城遠望
東方のJR松坂駅付近より見る。
松阪城は戦国末期の天正16年に築城された平山城である。
現地の説明板より
“三重県指定史跡 松阪城跡
指定 昭和27年7月9日
面積 45,412平方メートル
松阪城は蒲生氏郷(がもううじさと)が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
氏郷が会津若松へ移封後、
天正19年(1591) 服部一忠
文禄4年(1595) 古田重勝
と城主が変わり、元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれた。
【写真左】松阪城・その1 歴史民俗資料館付近
北側の鐘ノ櫓跡付近から見たもの。
城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていた。
三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。また二の丸には寛政6年(1794)に建立された徳川陣屋があった。
明治14年(1881)城跡公園となる。”
【写真左】松阪城・その2 鐘の櫓跡
蒲生氏郷(がもううじさと)
前稿「霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)」でも少し紹介しているが、江戸期に入った伊勢国の諸藩主は他国から入封した者がほとんどである。
松阪城の築城者は、蒲生氏郷といわれている。蒲生氏は近江蒲生郡の出で、六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれた。後に織田信長に見いだされ、信長の娘を娶った。
永禄11年(1568)、北畠具教・具房との戦いが初陣とされ、その翌年伊勢大河内城攻めなどでも活躍した。信長が亡くなった後は秀吉に仕え、松阪城築城前には近くに松ヶ島城を築城し、秀吉から12万石を与えられている。この後、天正16年(1588)に松阪城を築くと、松ヶ島城時代の武士や商人をそっくり移住させた。
なお、蒲生氏が松ヶ島城を築いて間もないころ、北畠具教の実弟・具親はこの氏郷に身を寄せ客臣となっているが、その2年後病没している。
【写真左】松阪城・その3
その後、小田原征伐の論功によって、天正18年(1590)陸奥国会津60万石という多大な禄を得て若松城へ移封した。代わって服部一忠が入封したが、秀吉に謀叛の疑いをかけられ自害した秀次の家臣であったことから連座の責任を負わされ切腹した。
【写真左】松阪城・その4 本丸跡
古田氏
このあと入ったのが古田重勝である。秀吉時代の禄高は3万4千石であったが、のちの関ヶ原の戦いでは東軍方に属し、その戦功によって家康から2万石をさらに加増された。しかし、この年死去し、嫡男重恒が幼少であったため、実弟重治が引き継いだ。
【写真左】松阪城・その5 井戸跡
本丸跡に残るもので、頑丈な鉄製の網で防護されていることからかなり深いようだ。
元和5年(1619)2月、重治は伊勢松阪城から石見浜田城へ移封された。重治が松阪城から石見浜田城へ移った理由は、大坂の陣(1614~15)の功績によるとされているが、松阪城時代と石見に移った時の禄高は同じ5万4000石で増禄されていない。
【写真左】松阪城・その6 天守閣跡
関ヶ原、大坂の陣で家康方に着いたとはいえ、元は豊臣秀吉の家臣である。徳川から見れば明らかな「外様」としての扱いである。
なお、石見浜田城については、浜田城(島根県浜田市殿町古城山)ですでに紹介しているので、ご覧いただきたい。
古田氏が石見へ移封されると、松阪城は説明板にもあるように、紀州藩領(飛び地)となった。
本居宣長(もとおりのりなが)
宣長は江戸時代の国学者で医師でもあった。この家で医業の傍ら「古事記」の注釈書である「古事記伝」を発表、近世古事記研究の先駆けとなった。
●所在地 三重県松阪市殿町
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 蒲生氏郷
●城主 蒲生氏、古田氏、紀州徳川氏
●形態 平山城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 本丸跡・天守閣跡・二の丸跡・隠居丸跡・金の間櫓・遠見櫓・月見櫓・太鼓櫓等
●指定 国指定特別史跡 本居宣長旧宅
●備考 本居宣長記念館・歴史民俗資料館
●登城日 2012年4月18日
◆解説
伊勢国北畠氏関係の史跡をあらかた巡り、松阪駅近くのホテルに泊まった。翌朝ホテルの窓からこんもりとした丘が見えた。地図を広げてみると、どうやら松阪城のようだ。帰りは伊勢自動車道を北に向かうため、さほど時間はとられないと思い、予定にはなかったが登城することにした。
【写真左】松阪城遠望
東方のJR松坂駅付近より見る。
松阪城は戦国末期の天正16年に築城された平山城である。
現地の説明板より
“三重県指定史跡 松阪城跡
指定 昭和27年7月9日
面積 45,412平方メートル
松阪城は蒲生氏郷(がもううじさと)が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
氏郷が会津若松へ移封後、
天正19年(1591) 服部一忠
文禄4年(1595) 古田重勝
と城主が変わり、元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれた。
北側の鐘ノ櫓跡付近から見たもの。
城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていた。
三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。また二の丸には寛政6年(1794)に建立された徳川陣屋があった。
明治14年(1881)城跡公園となる。”
【写真左】松阪城・その2 鐘の櫓跡
蒲生氏郷(がもううじさと)
前稿「霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)」でも少し紹介しているが、江戸期に入った伊勢国の諸藩主は他国から入封した者がほとんどである。
松阪城の築城者は、蒲生氏郷といわれている。蒲生氏は近江蒲生郡の出で、六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれた。後に織田信長に見いだされ、信長の娘を娶った。
永禄11年(1568)、北畠具教・具房との戦いが初陣とされ、その翌年伊勢大河内城攻めなどでも活躍した。信長が亡くなった後は秀吉に仕え、松阪城築城前には近くに松ヶ島城を築城し、秀吉から12万石を与えられている。この後、天正16年(1588)に松阪城を築くと、松ヶ島城時代の武士や商人をそっくり移住させた。
なお、蒲生氏が松ヶ島城を築いて間もないころ、北畠具教の実弟・具親はこの氏郷に身を寄せ客臣となっているが、その2年後病没している。
【写真左】松阪城・その3
その後、小田原征伐の論功によって、天正18年(1590)陸奥国会津60万石という多大な禄を得て若松城へ移封した。代わって服部一忠が入封したが、秀吉に謀叛の疑いをかけられ自害した秀次の家臣であったことから連座の責任を負わされ切腹した。
【写真左】松阪城・その4 本丸跡
古田氏
このあと入ったのが古田重勝である。秀吉時代の禄高は3万4千石であったが、のちの関ヶ原の戦いでは東軍方に属し、その戦功によって家康から2万石をさらに加増された。しかし、この年死去し、嫡男重恒が幼少であったため、実弟重治が引き継いだ。
【写真左】松阪城・その5 井戸跡
本丸跡に残るもので、頑丈な鉄製の網で防護されていることからかなり深いようだ。
元和5年(1619)2月、重治は伊勢松阪城から石見浜田城へ移封された。重治が松阪城から石見浜田城へ移った理由は、大坂の陣(1614~15)の功績によるとされているが、松阪城時代と石見に移った時の禄高は同じ5万4000石で増禄されていない。
【写真左】松阪城・その6 天守閣跡
関ヶ原、大坂の陣で家康方に着いたとはいえ、元は豊臣秀吉の家臣である。徳川から見れば明らかな「外様」としての扱いである。
なお、石見浜田城については、浜田城(島根県浜田市殿町古城山)ですでに紹介しているので、ご覧いただきたい。
古田氏が石見へ移封されると、松阪城は説明板にもあるように、紀州藩領(飛び地)となった。
【写真左】本居宣長旧宅
国指定特別史跡(昭和28年3月31日)で、松阪城の南側にある隠居丸跡に設置されている。
元々は魚町にあったが、明治42年保存のため松阪城跡に移築された。
この建物は宣長が12歳から亡くなる72歳まで住んだもので、祖父が元禄4年(1691)に建てたという。
本居宣長(もとおりのりなが)
宣長は江戸時代の国学者で医師でもあった。この家で医業の傍ら「古事記」の注釈書である「古事記伝」を発表、近世古事記研究の先駆けとなった。
この近くには彼の名を冠した「本居宣長記念館」が併設されている。
ところで、松阪は奈良平安時代、都の役人は伊勢神宮へ向かう際、通行手形の代わりとして馬の首に「駅鈴」をつけていたが、神宮領となっていた松坂に入ると、その鈴をはずし、鈴の音をとめていたという。
宣長はその鈴の音が気に入って、この建物の2階の間の柱に掛け鈴を取り付けていたということから「鈴屋」と呼ばれていた。寛政7年(1795)石見浜田藩主・松平康定は、参勤交代の途中伊勢松阪の宣長を訪ね、源氏物語の講話を聴いた。このお礼に康定は宣長に「駅鈴」を送っている。
丁度当城を訪れたこの日の朝、記念館の学芸員の方が管理人の「島根№」の車を見て、声をかけてこられた。実は今年が古事記1300年ということで、「石見」の方へ講演に行く予定だといわれる。それ以上の話はしなかったが、石見浜田潘を立藩した古田重治といい、「駅鈴」の松平康定といい、松阪と石見は縁のような繋がりがあるようだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿