2016年5月15日日曜日

多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)

多良倉城(たらくらじょう)

●所在地 福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山
●備考 皿倉山
●高さ 標高622m(比高520m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 不明(南朝方)
●遺構 不明
●登城日 2015年1月10日

◆解説(参考文献『週刊日本の歴史23』週刊朝日百科等)
 福岡県北九州市にある国定公園の一つ皿倉山は、隣接する帆柱山・花尾山などと併せて「帆柱連山」と呼ばれている。
 南北朝の時代、筑前・豊前・築後など含めたこの九州北部で、南朝方と北朝方による壮絶な戦いが繰り広げられた。
【写真左】多良倉城(皿倉山)遠望
 下山後、北麓側から撮ったものだが、日没が早い初冬の夕暮れ時であったため、手前のマンションの明かりが目立った画像になった。



現地の説明板・その1

皿倉山(標高622m)

 伝説に、神功皇后が征西のおりこの山に登り、大岩の上から日暮れまで国々を眺望し、下山のとき更に夕闇が深まっていたので、「更に暮れたり」といわれたという。このことから更暮山或いは更暗山と呼ばれ、それが更倉山に転じたと伝えられている。皇后が立たれたという大岩は、当山頂の東肩にあり、この伝説にちなんで国見岩と呼ばれている。
【写真左】中腹にある帆柱ケーブル山麓駅
 この日出雲から出発し、ここにたどり着いた時は既に午後3時を回っていたこともあり、登城(登山)はこのケーブルに乗って向かった。




 争乱の南北朝時代、将軍足利義満は九州での北朝武家方の衰勢を挽回させるため、今川了俊を九州探題に任命した。了俊は建徳2年(1371)12月、中央軍を率いて門司に上陸。翌正月には赤坂(小倉北)に本陣を構えて九州の南朝宮方勢力封滅作戦を開始した。

 その両軍最初の合戦の舞台になったのがこの一帯の多良倉城(皿倉山)鷹見山(権現山)麻生山(花尾山)の山々である。
 了俊の探題軍は、この合戦の勝利に勢いを得て、宗像、高宮と陣を進め、その年8月には懐良親王の征西府大宰府を攻略した。
   北九州市
   帆柱自然公園愛護会”
(※下線管理人による)
【写真左】皿倉山・権現山周辺マップ
 皿倉山・権現山を含めた周辺部には、ビジターセンター・野外音楽堂・展望台・キャンプ場など多くの施設がある。
 また、登山コースも東西南北の方向から10本前後あり、多くのハイカーなどに利用されているようだ。


今川了俊の征西府討伐

 今川了俊は別名今川貞世といい、了俊は出家したときの名である。彼は名門武家今川氏(足利氏の支流)の出身で、戦国期にその名を馳せた東海の雄・今川義元も、了俊の父範国の系譜に繋がる。
 貞治6年(1367)室町幕府の引付頭人・侍所頭人・山城守護に任じられたが、この年の暮れ2代将軍義詮が亡くなると、出家し貞世から了俊と号した。義詮の後を継いだのが3代将軍義満である。
【写真左】頂上の北東部
 多良倉城といわれている皿倉山だが、山城遺構として確認できるものはほとんどない。遺構を見ることを目的に登城しても期待外れである。しかし、頂上から眺める360度のパノラマは筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい。
 写真は、北東方向に小倉・門司方面を見たもの。



 ところで、後醍醐天皇は、延元元年(1336)9月、尊氏と講和を結んだとき、三人の皇子をそれぞれ各地に下向させている。
 そのうちの一人、懐良親王には征西大将軍として九州へ下向させた。親王わずか8才の時である。この後観応の擾乱など北朝方の混乱もあり、九州から北朝方や足利直冬らが離れていくと、菊池武光や阿蘇氏の一部の協力を仰ぎ、正平元年(1359)8月6日に筑後大保原で北九州の北朝方守護少弐氏を破り、その2年後ついに大宰府に入城した。
 懐良親王が京を離れてから19年後のことである。以後、ここ(大宰府)を本拠として、親王による征西将軍府(征西府)が12年の間続くことになる。
【写真左】皿倉山から北方を俯瞰する。
 ほぼ真北には八幡・戸畑・若松の各市街地が見える。またその奥には戸畑港を介して燧灘が横たわり、その右奥には下関市が見える。



 北朝方の尊氏が九州(征西府)討伐を目指しながら亡くなり、その後義詮が継ぐことになるが、彼が最初に九州探題として差し向けたのは、斯波氏経である。しかし、彼は九州に上陸したものの、何の実績もあげず、京都へ逃げ帰った。次に任じられた渋川義行に至っては、九州へ上陸もせず備後(中国)付近でウロウロしただけで無残な失態を演じた。そこで、管領になって間もない細川頼之が将軍に進言したのが今川了俊であった。このころは義詮が亡くなって幼い義満が跡を引き継いだころで、殆ど頼之の指示に負うところが大きい。
【写真左】東方に豊前・松山城を遠望する。
  頂上に着くまでは松山城が見えるとは予想もしていなかったが、皿倉山から豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)までは直線距離でわずか18キロしか離れていない。
 多良倉城における南北朝期の戦いは、ほぼ同時期この松山城でも行われた。


 皿倉山(多良倉城)周辺での戦いが行われたのは、説明板にもあるように、了俊が赤坂(小倉北)に陣を構えた建徳2年(応安4年)の翌年となる文中元年・応安5年(1372)2月10日といわれている。その前段で了俊は、大隅の禰寝(ねね)久清、及び薩摩の島津親忠らに島津氏久とともに軍忠を尽くすようこれを招いている。

 そして、皿倉山・花尾城(麻生山)に籠る征西府(南軍)側攻めには大内弘世・少弐冬資らが主役となって挑んだ。戦いは当初一進一退の様相を見せ、少弐冬資は南軍の出撃にあって敗れたが、その後毛利元春が救援撃退し、さらにはこれに続いた中国勢(吉河・長井・山内・周布氏(周布城(浜田市周布町)参照)など)が応戦し、ついにこの多良倉城周辺では勝利し、南軍は大宰府に奔った。

 了俊はその後軍を進め、小倉・宗像・水内・高宮を経て大宰府を目指すことになる。
【写真左】平尾台・竜ヶ鼻を遠望する。
 松山城から更に右に移動すると、カルスト台地で有名な平尾台、及び竜ヶ鼻が見える。
【写真左】花尾山城・河頭山を俯瞰する。
 皿倉山から西北西1,2キロには、花尾山城が所在する。

 標高351mの山城で、当城については次稿で取り上げる予定だが、山鹿氏の後裔麻生氏の居城で、別名麻生山とも呼ばれている。
【写真左】頂上部・その1
【写真左】頂上部・その2
 頂上部には複数のテレビ塔や電波塔などが設置されている。









 参考までに、帆柱自然公園について紹介しておきたい。

現地の説明板・その2

“帆柱自然公園のあらまし

 帆柱自然公園は、皿倉山を中心に権現山、帆柱山、花見山と河内地区から成る景勝地で「北九州国定公園」「北九州自然休養林」として指定され、北九州百万市民の憩いの地とされているばかりでなく、学術上も貴重な公園である。

 この山地を構成する主な岩石は、粘板岩、変質凝灰岩、角閃珍岩(かくせんちんがん)である。粘板岩は、今から9千万年~1億年前の白亜紀に形成されたもので、厚い層となしており断層褶曲(しゅうきょく)による乱れや、火成岩の貫入などによって複雑な構成を示している。
 山地の大部分は、スギ、ヒノキ、クロマツ等の植林地であるが、特に権現山北側のスギは「皇后杉」と称せされ、旧藩時代に植えられた貴重な人工林である。北側登山道周辺は、保安林として保護されてきた天然林で、広葉樹がよく繁茂し、またこの一帯はシダ、コケの種類が多いことで有名である。
【写真左】帆柱ケーブルカー
 下山時に撮ったものだが、車内から見ていると、ものすごい傾斜であることが分かる。






 植物が豊富であるため、昆虫の種類も多く、これまでに蝶72種、蛾1,000種、甲虫その他約1,500種が確認され、また、日本で最初の蛾3種が発見されている。
 広葉樹に恵まれ、また九州北端に位置し、渡り鳥のコースに当たっているため、鳥の種類も多く、これまで留鳥(りゅうちょう)27種、夏鳥14種、冬鳥27種、旅鳥1種が確認されている。

 また、神功皇后の伝説にゆかりのある、皿倉山、帆柱山、神仏習合時代の信仰伝承のある権現山、中世山城跡の面影をとどめる花尾城址や、帆柱山城址などの多くの史跡があって、かずかずの伝説や史話を今に伝える。
 なお、皿倉山には、野口雨情や北原白秋の文学碑のほか、昆虫碑なども建てられています。

      北九州市
      帆柱自然公園愛護会”

2016年5月7日土曜日

匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)

匠ヶ城(たくみがじょう)

●所在地 岡山県井原市上稲木町
●別名 工ヶ城
●指定 井原市指定史跡
●高さ 標高130m(比高69m)
●築城期 鎌倉末期
●築城者 陶山氏か
●城主 陶山吉次
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2015年4月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 岡山県井原市を東西に走る山陽道から、瀬戸内側に向かう道は何本かあるが、そのうち高屋から笠岡に向かう県道3号線を南下していくと、上稲木町という所で、290号線と合流する所がある。
 その東側には大きな溜池があり、西側にはこんもりとした小山が見える。この山が鎌倉時代末期に築城されたといわれる匠ヶ城である。
【写真左】匠ヶ城
 登城途中に設置された説明板

 登城するたびに遠望写真を撮っていたつもりだったが、今回は忘れてしまっていたようだ。



現地の説明板

“井原市指定史跡
  工(匠)ヶ城跡

 この城は、鎌倉時代末期、笠置山合戦に足利尊氏軍勢として参加し、活躍した陶山吉次の居城として伝えられています。
 標高130m、本丸さらに西にのびる二段の郭で構成されており、二番目の郭の東端には、土塁の跡も残っています。また、本丸の東方向と南方向には腰郭が張り出し、南方向の腰郭は、四段で構成されています。
 戦国時代の典型的な山城で、本丸からは、稲倉地区が一望でき、現在も当時の状況をよくとどめています。
 
 指定年月日 昭和50年9月16日
            井原市教育委員会”
【写真左】登城道
 登城口を示すような標識はないが、東側の道路からそれらしき箇所があったので、勘を頼りに向かう。







陶山氏

 匠ヶ城の城主である陶山氏については、以前取り上げた笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)の城主陶山氏と同族である。陶山氏の始祖は、桓武平氏平貞盛6代の後裔・盛高に始まるという。

 源義親の乱(鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)参照)において、追討使・平正盛の先鋒として出雲国に発向した盛高は、天仁元年(1108)義親を討ち、軍功を挙げその恩賞として、翌2年備中国小田郡・魚緒・西濱・甲弩の三郷並びに3000貫を賜った。
【写真左】郭段
 西側に犬走りのような道があり、このあたりから郭段が右手に現われる。








 彼はその後陶山和泉守を名乗ったことにより、備中陶山の祖とされる。盛高の子・泰高の代になると、瀬戸内側の金浦に陶山城を築き、平家方の水軍領主としての活躍を見せる。しかし、源平合戦の壇ノ浦にて平家が没落すると、陶山氏も歴史の表舞台からしばらく消えてしまう。

 下って鎌倉時代に至ると、陶山道国が時の第5代執権北条時頼に仕え、その子・道高が弘安の役で恩賞を賜り、再び西濱(西浜)の城に入ったという。平家時代の陶山氏が鎌倉中期に再び登場する経緯ははっきりしないが、平家没落の段階で陶山氏一族郎党すべてが滅んでいなかったことと考えられる。
【写真左】郭・その1
 階段状に配置された郭は小規模なもので、桜の木などが植えられている。
 また、場所によっては畑のような状況になっている。


 その後南北朝期に至ると、陶山義高は笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)の北方2キロにある竜王山(H:175m)に同名の笠岡山城を築き、元弘の変の際には幕府方として後醍醐天皇側と対峙した。

 特に有名なのは、元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇が三種の神器を持って笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に入り挙兵した際、幕府方として義高はじめ、匠ヶ城の築城者吉次兄弟、並びに道国の母の実家・小見山一族らが先陣を切って功を挙げたという。
【写真左】笠置山
所在地:京都府相楽郡笠置町
写真:弥勒磨崖仏
2016年3月6日撮影







 しかしその後、幕府方は劣勢に陥り、特に近江番場で六波羅探題北条仲時ら432人が自刃することになるが、その名簿記録である「蓮華寺過去帳」の中には、陶山二郎をはじめとして、小見山孫五郎ら陶山一族の名が残っている。(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照)
【写真右】北条仲時はじめ従士432名の墓
所在地:滋賀県米原市蓮華寺
参拝日 2015年10月24日

 この墓石群の中に、陶山氏・小見山氏一族のものが入っている。




  その後の陶山氏本流の動向ははっきりしないが、室町時代には幕府の側近として活躍したという記録がわずかに残るものの、応仁の乱後ほどんど記録に出てこない。一説には戦国時代に小早川(毛利氏)氏の麾下となったというのもある。
【写真左】郭
 郭段のように見えるが、畑地としてかなり改変されたかもしれない。
【写真左】郭・その2
 その1とよく似ているが、こちらは左側の切崖直下に溝のようなものが残る。
【写真左】西にのびる郭
 当城は東側に郭段を築き、その北端部でL字に曲がって、西に伸びる尾根筋にも郭を配している。

 写真はちょうどその分岐点で、堀切のような鞍部を形成している。
 登城した時期が悪かったせいか、雑草や熊笹などが繁茂し、今一つの写真となった。
【写真左】井戸跡か
 先ほどの鞍部に見えたもので、直径2m前後の大きさの井戸のようなものが残る。
【写真左】西側に伸びる尾根の斜面
 一旦、下がり西側尾根の南斜面までくる。この傾斜もかなりあるようだ。

 このあと、再び上がり、東側の頂部に向かって進む。
【写真左】主郭・その1
 東側最高所で、主郭となる部分が見えてきた。
【写真左】主郭・その2
 土壇のような高まりの中央部には松の木などが植えられ、その脇には小さな祠が祀られている。
【写真左】主郭付近から西方を見る。
 手前の整地された箇所を見ると、近年まで畑地として使用されていたようだ。
【写真左】主郭から東方を俯瞰する。
 手前には東麓にあった池が少し見え、その右側を290号線が走っている。
【写真左】主郭から南方を見る。
 この先を行くと、陶山氏の本拠地・笠岡に繋がる。

2016年5月3日火曜日

備中・中山城(岡山県井原市芳井町川相)

備中・中山城(びっちゅう・なかやまじょう)

●所在地 岡山県井原市芳井町川相
●高さ H:319m(比高40m)
●築城期 文明2年(1470)
●築城者 河合豊前守行重
●城主 河合氏(重元など)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀等
●登城日 2014年12月10日

◆解説
 備中・中山城(以下「中山城」とする)は、前稿正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)から、小田川をおよそ3キロほど遡った旧川相小学校の裏にある丘城である。
【写真左】中山城遠望
 南麓を流れる小田川対岸から見たもので、山容はなだらかな小丘である。
 右の麓には旧川相小学校の校舎が建っている。




現地説明板

“中山城跡
 川相小学校裏にある中山城は、文明2(1470)年河合豊前守行重(かわいぶぜんのかみゆきしげ)が築いたと伝えられています。

 本丸部分は17m×53mの長方形で三段築城。東西に空濠跡があり中腹には五輪塔も多数残っています。本丸に祀られた稲荷大明神は、築城の際に河合行重が勧請したといわれ、またふもとにある天満宮も行重によって延徳元(1489)に建立されたと伝えられています。
【写真左】登城口
 登城口は民家が点在している南西麓側にあり、近くには説明板が設置されている。






 戦国時代、河合氏は吉井の正霊山城主・藤井氏と姻戚関係を結ぶなどして勢力をのばしていきましたが、3代城主・河合重元の頃には毛利氏の麾下に入って活躍をしました。

 天正9(1581)年、備前八浜での宇喜多直家軍との戦いにも参戦し軍功があったと言われます。
   平成17年3月
       井原市教育委員会”
【写真左】登城道
 途中まではこのような階段が設置され、真っ直ぐに向う。










河合氏

 中山城主・河合氏については、前稿正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)でも少し紹介しているが、中山城を築いたとされる文明2年(1470)に、のちに正霊山城主となる藤井氏が、戦乱を避けるためこの河合氏を頼ったといわれる。藤井氏はその後、西吉井坂本の有井城に居城したあと、正霊山城を築いている。
【写真左】天満宮か
 階段が途切れた箇所にはご覧の建物が建っている。
 周辺には標記したものがないため確認できなかったが、これが築城者行重が勧請した「天満宮」かもしれない。

 このあとさらに上を目指すが、道は階段はなくなり狭い道を進む。


 文明2年の戦乱とは、応仁の乱のことであるが、当時河合氏や藤井氏は、備中守護細川氏の被官で東軍方に属していたと思われ、当地(備中国)は西隣の備後国、東隣の備前・美作両国といった西軍方に挟まれた状況であった。おそらく西軍方は旧山陽道側から入り、小田川を遡って攻めてきたことから藤井氏は河合氏を頼って北上していったのだろう。
【写真左】さらに本丸に向かう。
 途中からご覧のような狭い道となるが、しばらくすると開放された場所に出る。






 河合氏はその後藤井氏と姻戚関係を結ぶなど、絆を強めていくが、3代目の重元の代になると毛利氏に与することになる。

 これに対し、前稿でも述べたように正霊山城の藤井皓玄が毛利氏に敵対していったことを考えると、この段階で河合氏にとっては、苦渋の決断であったと思われる。
【写真左】本丸・その1
 次第に傾斜がつきはじめ、藪状の道は無くなるが、粘土質の道になっていく。雨天の場合は泥濘んで歩き難いだろう。
 手前に鳥居が見えてきた。本丸である。



 その後、河合氏は備前八浜で毛利軍の一員として、宇喜多直家軍と戦っている。備前八浜とは、両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)でも紹介したように、両児山(ふたごやま)又は二子山城のことで、この戦いは通称「八浜合戦」と呼ばれるものである。

 なお、上記説明板にある宇喜多直家軍方の総大将は、宇喜多直家の養子・基家(春家の子息)で、基家をはじめ実父・春家もこの戦いで討死している。
【写真左】本丸・その2
 河合行重が勧請したとされる「正一位稲荷大明神」の鳥居と、奥に拝殿が見える。

 なお、本丸は幅6m前後で北東方向に長く伸びた郭となっている。
【写真左】本丸・その3
 拝殿の先には少し距離を置いてもう一つの建物が建っている。これは恐らく社殿と思われる。

 本来なら拝殿と社殿は続き棟で建っているが、当城の地形的な制約もあってこのようにそれぞれ単独に建てたものだろう。
【写真左】本丸北側の斜面
 北側の斜面は急峻な形状となっている。
【写真左】北東部に延びる郭
 近年整備されたせいか、なだらかな面となっているため、当時の遺構らしき箇所は明確ではないが、おそらくこの付近は高低差をもった郭段として構築されていたものだろう。
【写真左】本丸北東端
 この箇所で5m前後の高低差ができているものの、整地されて重機でも上がれるような仕上がりとなっている。

 おそらく拝殿・社殿の改修時に工事車両が本丸まで登れるように改修したのだろう。
【写真左】五輪塔群・その1
 中山城の南側中腹には墓石群が点在している。
【写真左】五輪塔群・その2
 西側にあるものは五輪塔形式というより、宝篋印塔の形式に近いもので、いずれも小ぶりなもの。
【写真左】五輪塔群・その3
 上記の位置よりさらに東に向かうと、こちらは五輪塔形式ものものが点在している。